第四章 生命賭す一瞬 2
汎胤に来て一ヵ月が経とうととする頃、その日スキエルニエビツェは王妾ズヴェイラ・ヴェヴィラティッティスの私室にいた。現在この国に妃はあらず。彼女は今一番時めいている。国王お抱えの楽師を私室に呼ぶくらいは、なんでもないことであった。しかし実際会って話してみると、貴族出身の王妾にありがちなお高いところも気取ったところもなく、スキエルニエビツェは内心でほっとしていた。この日の衣装はスキエルニエビツェは紫苑(表紫・裏蘇芳)、ズヴェイラは萩(表紫・裏白)。共にあでやかすぎるほどあでやかだ。歌を交えて会話をする内、スキエルニエビツェはこのズヴェイラという女性の懐がどれだけ深いかということを思い知らされた。今まで何人もの女性と出会ってきた。彼女たちは知性も教養も持ち合わせ、そしてまた多くは美しかった。しかし今スキエルニエビツェは、世の中にこんな女性もいたのかと思い知らされることとなっている。 無論見惚れるほど美しい。知性も教養も並はずれている。しかしなんだろう、会話のなかのふとしたことで、吸い込まれそうに深い人格に触れたような気分になるのは? それはいったい何だ?
「ご出身はどちらなの?」
「愁蓮ですわ」
「まあそう……あの国は大層美しいと聞いたことがあるわ。大きくはないけれどとても美しいと」
「だから多くの詩人が生まれているのかもしれません」
「ふふ……あなたもその内の一人ね」
ズヴェイラは少女のような無邪気さで微笑んだ。屈託のない笑み。
スキエルニエビツェはそれに半ば見惚れながら出された香茶を飲もうとした。その瞬間、ズヴェイラの瞳が別人のように光った。
「それを飲んではだめ」
「--------え?」
ズヴェイラはスキエルニエビツェの手から器を奪いとった。そして近くにあった水槽に歩み寄って中で気持ちよさそうに泳いでいる魚の姿を確認すると、スッと香茶を注ぎ入れた。
「! ------」
スキエルニエビツェは驚愕で竦んだ。魚が一つ残らず浮かび上がって死んでしまったのを目のあたりにしたからだ。
「他の王妾の誰かでしょう」
ズヴェイラはため息をつきながら苦々しく言った。その様子と口調で、スキエルニエビツェは彼女が、他の王妾を押し退け這い上がろうとも、彼女たちのこうして挑発を受けて仕返しをしたりとか受けて立とうとする女ではないということに気が付いた。あたかもそれは心外中の心外、自分で望んでこうなったのならともかく、こうして王妾でいることも、贅沢な暮らしをすることも、他の愛人たちと比べ王にあからさまに大切にされることも心苦しいとでも言いたげだった。
「…………」
「まだまだ私のことを快く思っていない方は少なくないようですね」
ズヴェイラは哀しげに言った。私は望んでこうなったわけではないのに、何故? あなた方を排除しようとしたわけでもないのに、何も贅沢な暮らしなど望んでいないのにどうして? その顔はこう言っていた。それは、田舎でのんびりとした暮らしを送っていた彼女にはなくてはいいことだった。田舎には豪華なものやきらびやかなものはないが心の穏やかな生活がある。豊かとは決していえなかったし、その日暮しの人間も多かったけれど、飢えるようなことはなく、つまり毎日をやっていくのに別段何の不足もなかった。豊かさの代わりに心の贅沢を知っていた。五月の緑は濃い緑と新緑の若草色とがまだらになって自然だけが持つきまぐれな美しさを持っていた。夏にはなんともいえない神秘的な音をたてて蓮が開き、冬はしんしんと音もなくただ雪が降る。それだけのことと言われればそれだけのことだが、美しい自然に接し、生活の別段何の不自由もないと、心が豊かになるものだ。宮廷に来てから向こう、ズヴェイラの心は渇いてしまったかのようだ。何かを失って枯渇した小さな泉。周囲の愛人たちの嫉妬の嵐に苛まれ、そしてまた恩義があるだけにここから去ることができないという矛盾。私には、こういう華やかな暮らしは似合わないのかもしれませんというズヴェイラの言葉を心に留め、スキエルニエビツェは彼女の部屋を辞した。
その夜のことである。どこからかスキエルニエビツェが昼間長い間ズヴェイラの元にいたという話を聞きつけて、将軍オルノスは彼女を探していた。リュートを抱えて廊下を歩くスキエルニエビツェを見つけた彼は、国王の部屋についさっきまでいたであろう楽師を呼び止めた。
「待て」
「?」
スキエルニエビツェは立ち止まって初めて相手が誰だかわかった。
「なんでしょう」
「昼間ズヴェイラ殿の部屋にいたと聞いた」
「……それが何か」
「教えてくれ。何でもいい……髪型とか服装とか……本当にどんなことでもいいんだ」
その熱心さ……スキエルニエビツェは一瞬たじたじとなった。
そしてくす、と口元を微かに三日月の形にして、からかうように
「数々の武勲をお収めになった将軍様には、似付かわしくありませんこと」
と言った。オルノスは真顔になって、
「何とでも言え。どれだけ悪し様に言われようと構わない。楽師、お前の名は何といったかな、ええと…… い、人を好きになったことはあるか?」
「スキエルニエビツェですわ。イオシスと」
「イオシス(紫紅色)……? 変わったあだ名だ。まあいい、どうだ。答えろ」
「------ありますわ」
「ならばわかるだろう。相手のことを想わない時はない。一瞬たりとも。離れていれば何をしているのか知りたい、燃えつきそうに相手をいとおしく想う……違うか」
素直な人……スキエルニエビツェはオルノスを見上げて思った。
こんな流れ者の楽師にこれだけ心を開けようか? しかも今口をきくのが初めてなのに。 彼は余程ズヴェイラを愛しているのだろう。であるから形ばかりの誇りを捨て、こうして彼女に熱い想いを告げるのと引き替えにズヴェイラの瞬時を知りたいと思ったに違いない。
「夜も眠れぬ想い、身が焦げそうな想いがわかるだろう。お前の愛しい男は今なにをしている」
スキエルニエビツェは目を細め視線を下に向けた。
『 スキエルニエビツェ 』
『 前は、白躑躅(表白・裏紫)がよく似合う 』
「…………」
淡い想いを抱いた男は何人もいた。しかし胸が痛むほど想い、愛し、心の底から愛しいと思うのは多分たった一人。きっとこれから何人の男と肌を重ねようとも。
「---------どうした?」
「…………いいえ……。何でもありませんわ。貴方のお心に胸を打たれていただけです」
「では」
「お教えしますわ。隠すようなことではありませんものね。あの方の今日の服装は萩(表紫・裏白)、髪は後ろを一部だけ上げておられました。簪は銀杏楓松笠飾り金銀簪、その前に唐花文様蒔絵螺鈿の櫛を挿しておいででした」
その他にもスキエルニエビツェは色々なことをオルノスに話して聞かせた。歌を聞いてその声で生きていくという伝説の小鳥よりも、彼は熱心に耳を傾けていた。彼女は微に入り細を穿つように覚えている限りどんなことでも話したが、香茶の毒のことは話さなかった。全てを話し終えると、オルノスは大層満足そうな顔して礼をいい、そして何事もなかったかのような顔をして行ってしまった。
あまりの率直さ、その真っすぐさに、スキエルニエビツェは立ち尽くすしかなかった。
不思議なことに、双璧の片方であるオルノスと話したのは彼から話し掛けてきたことがそもそもの発端だっだのだが、それから一ヵ月ほどした十二月、年の瀬も押し迫ろうという頃、スキエルニエビツェはその双璧のもう片方に話し掛けられることとなった。
その日将軍アリエイテスは苦々しい思いで回廊を歩いていた。
手摺りより上は吹き抜けになっているのでちらりちらりと降る雪が彼の視界の隅にも見える。既に空は暗く、雪だけがさながら蛍のように白くほのかに光って舞い降りてくる。白い息を吐きながらアリエイテスは難しい顔をして歩いていた。彼がこういう顔をする時は、間違えて話し掛けでもすると怒鳴られてしまうので侍女女官はおろか、下位の軍人たちはすれ違っても逃げるようにして足早に去っていった。文字通り、将軍は苛々していた。不幸なことに、その苛立ちの原因はそう易々とどうこうなるものでも、誰かにふれまわりたいものでもなかった。
密偵がいるのだ。
情報があちらこちらに漏れている。戦で何度も作戦面において撹乱されているのはそのせいなのだ。辛くも勝ったとして、多くの死ななくてもよい生命が消えていった。もう二年にもなるというのに楽観的な国王のせいで問題は片付かない。あのすみれ色の瞳の新しい愛人のせいだ。そしておかしな事に気が付いた、密偵の存在が明らかになったのは彼女が汎胤に来た頃、ちょうど二年前と一致する。
しかしそれだけでは確かな証拠とは言えない。ならば怪しい人物はいくらでもいるし、密偵そのものが一人なのか、複数なのかすら判明していない。
ふと何か前にあるのを感じ、顔を上げたアリエイテスが見たものは、手摺りに肘をつきその上に顔を乗せて空をじっと見上げている楽師の姿であった。脂燭色(表紫・裏紅)の襲も夜目にあざやか、どんな考えに没頭しているのか、その横顔はなかなかに魅力的だ。
------あの楽師ですら、怪しくないとはいえない。
しかしアリエイテスはそこまで考えてから頭を振って自ら否定した。
疑心暗鬼は禁物。誰彼構わず疑う鬼となってしまっては見えるものも見えなくなってしまう。妄執に駆られ焦った時こそ危ないものはないのだ。
立ち止まり、自分を凝視する何者かの視線に気が付いたのだろう、スキエルニエビツェは顔を上げアリエイテスの方を見、将軍だとわかるとそこに立てかけておいたリュートを抱えて軽く会釈し立ち去ろうとした。
「……待て……」
スキエルニエビツェは振り向いた。
「なぜ逃げる? 私はそんなに恐ろしい顔をしているか」
アリエイテスは自嘲するようににやりと笑い、顎を撫でた。
「仕方あるまい、あまりに寒々しいからな、この瞳と髪では……せめて髪が銀色にでもなれば救いはあったのだが、まあこういう姿に生まれてしまったのだからどうしようもない」
そこでアリエイテスは小さく笑った。おや、とスキエルニエビツェは思う。笑った顔もなかなかだ。侍女たちの言葉が今やっとわかった気がする。思いがけない人間が思いがけないことをしたりすると、人は心を奪われるものだ。
「しかしそんなに恐いかな……」
スキエルニエビツェの胸が衝かれた。恐ろしい顔……端正すぎる剃刀のような鋭い容姿のせいで誰にも理解されなかったあの紫の孤独な星のような男。
皮肉な……双璧といわれた将軍のどちらにもあの方を思い出させられるような言葉をかけられるとは。
「――― いいえ……ご自分で思ってらっしゃるほどではありませんわ」
「まあいい。嫌いではないからな、この顔は……。ところで何を見ていた」
「何も。空と…………・雪を」
「……脂燭色(表紫・裏紅)の襲が誂えたようによく似合う。オルノスが言っていたイオシス(紫紅色)というあだ名というのはこの事か」
「お見知りおきでしたの? 嬉しい」
「変わったあだ名だとオルノスが言っていた。そういうことを口にすることは奴は滅多にないのだ。だから覚えていた」
「長い名前ですので」
にっこりと笑ってスキエルニエビツェはリュートを抱え直した。
そのリュートに目をやり、アリエイテスは口を再び開く。
「そういえばお前の歌は天下一品だとか……国王陛下専属か」
「いいえ……許可を頂いて王宮に出入りする方のご要望は聞いてもよいということになっています」
「では一曲歌ってもらおうか」
「----- ここで?」
「嫌か」
スキエルニエビツェはふふ、と笑った。この男、優秀な軍人で見かけも武骨だが、なかなか風流をわかっている。
スキエルニエビツェは手摺りに腰掛け、柱に寄り掛かってリュートの音を一つずつ探るように弾き始めた。
ロォン……
布衾 夢破れて 鉄稜稜
雁は寒更を打ち 水は氷らんと欲す
起って疎篷を掲ぐれども 月未だ上がらず
暗風 吹き動かす 夜船の燈
ヒゥ……
ュゥゥウ……
風が遠くで唸った。身を切るように冷たい風があちらこちらを舞い踊ってスキエルニエビツェの歌声も包み込んだ。
「いい歌だ」
その冷たい風にも負けないくらいの声でアリエイテスが呟いた。
「来月は年明け早々戦だ。この歌が最後にならないといいがな」
スキエルニエビツェはすとんと手摺りから降りて背の高いアリエイテスを見上げた。
「寒いのに済まなかったな」
背を向けて行ってしまおうとするアリエイテスの背中に、スキエルニエビツェは
「ご武運を……」
小さく呟いて立ち尽くしていた。
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