第四章 生命賭す一瞬 1

 なだらかな坂を嫌というほどぐるぐると螺旋階段を上るが如く歩いていくと、いつのまにか頂にいる。そして初めて気が付くのだ、

 山をのぼっていたのか、

 と。

 汎胤はそういう国である。刃のように尖った岩があちこちに顔を出し、油断すると切り立った崖が旅人を音もなく飲み込む。山としては非常になだらかで丘といってもよいものだが、この到底人など住めないような岩で構成された山は、自然の要塞として敵の侵入を阻む。城下は頂にあるので、晴れた日などは彼方の空まで見え、さながら雲の海のようだという。あの海の国を出て一年半、楽師スキエルニエビツェは放浪の末この汎胤の王宮に滞在していた。

 ちょっときまぐれで人の心に疎い部分はあるものの充分風流を理解する国王と、二年に渡って国賓として滞在する品のいい貴族、この国王は部下として仕えるのには多少難のある部分があるかもしれないが、楽師としてなら別段何の文句のない相手であった。

 この日、遥か遠い千燐から二年以上の長きに渡って滞在しているリュ・ヴァイス男爵の元へ、新たに千燐から使者がやってきた。かの国から遊学の為に送られてきた優秀な学者達であるという。国王は手放しで迎え、早速歓迎の宴を開いた。



       青山隠隠として 水超超たり

       秋尽きて 江南 草木凋む

       二十四橋 名月の夜

       玉人 何れの処にか吹簫を教うる



 さわ……

 宴の中で彼女の歌は、側で聞く者には感涙を、遠くから聞こえる者には最適の心和む音として受け入れられた。今日は歌の出し時、惜しんでいてはもったいない。スキエルニエビツェはリュートの演奏を止めずにそのまましばらく愛用の旅の友であり愛用の楽器でもあるそれを爪弾いていた。

 軍人らしき人間が数人いたが、いずれも将軍クラスらしく、若い人間がちらりほらりとおり誰もが堂々として風格があった。その中に女はおらず、女将軍というものに未だ胸の痛むスキエルニエビツェは、幾分ホッとしていた。




    

      

       湖光秋月 両つながら相和す

       潭面風無く 鏡未だ磨かず

       遥かに望む 洞庭山翠

       白銀盤裏の一青螺



 ポロン……

 ロ……ン……

 宴にはまた国王の多くの愛人も参加していた。汎胤という国は山合の国には珍しくそういったものには考えが開けている。無論いい顔はされないが、だからといってまた、王の寵愛を受けているという事実は無視できず、それなりの地位を持ってはいる。重鎮達も、陛下もいいかげんに正妃を娶られればよいのに、と思う反面、愛人の誰かがそうならなくてよかったと内心胸を撫でおろしている。彼女たちは妃に必要な家柄・人柄・人徳・学識・知性・品格などの事項がいずれもどれか一つが欠落しているのだ。頭は良いが家柄は低い、門戸の出身はよいのだが既に落ちぶれていて、しかも当人もお世辞にも賢いとはいえない等々だが、好きであればどんな相手であろうと関係ないという考えには至らないらしく、その辺りがやはり山合いの国に見られがちな封建的な部分が見える。何度か見合いまがいのことはしたのだが、いずれも国王のお気に召す女性はいなかったというわけだ。もっとも、たまに国王という己れの地位を忘れて自分勝手で相手のことを考えない行動に出ることの多い国王の元へは、嫁がなくて正解なのかもしれない。

 紅葉(表赤色・裏濃赤色)の襲を纏って終始歌に従事していたスキエルニエビツェはよく目立ったが、なんといってもこの日人々の注目を一身に集めたのは、国王の最も新しい愛人で最も美しく、今一番時めいているズヴェイラ・ヴェヴィラティッティスであった。

 すみれ色のハッとするほど鮮やかな瞳、朝日の下の稲穂もかくやというほどの美しい金の髪。かの国に黄昏をもたらし、年号を烈から桔へと自らの手で塗り替えた、あの姫君に勝るとも劣らない見事な金の髪であった。彼女は前の前の戦でオルノス将軍が奇跡的に壊滅の手から救った慧燕の人間で、早い話が慧燕の貴族一同が国王と将軍に謝辞を述べるために汎胤を訪れた際に国王に見初められたのだ。慧燕は特定の人間の統治下になかったため貴族といっても零落した者ばかりで、残念ながらその理由でズヴェイラは妃の座を仕留め損ねた。慧燕はそれを期に汎胤の統治下に収まったが、慧燕救出の直接の功労を成し遂げたオルノス・セタマイエ将軍には慧燕の三分の二が褒美として与えられたという。何でも褒美は思いのままと言われたのだが、何も望まなかったのだとか。

 無欲な人もいるものだ、スキエルニエビツェは思った。自分なら周囲が眉を顰めるほど褒美をもらうのに。しかし本来オルノス将軍個人の判断で成功した救出劇であったから、慧燕から謝辞を述べに来た貴族連中の中にズヴェイラがいたとしても、それをオルノスに褒美として与えるのが国王としての器ではないかと、一部では随分囁かれたようだ。

       中秋の全景 潜夫に属す

     棹を空明に入れて太湖を看る

       心外の水天 銀一色

       城中 此の月明有りや無や



「スキエルニエビツェ」

 機嫌の良い声が玉座の間より聞こえた。スキエルニエビツェはリュートを片手に持ちかえて、立ち上がりながら

「はい陛下」

 と言って振り向いた。当然のことながら、国王は自分を呼んでいる。側にはズヴェイラとリュ・ヴァイス男爵がいる。

「男爵、紹介がまだでしたな。これは今うちの宮廷に滞在しているスキエルニエビツェです」

「スキエルニエビツェ・ガラードでございます」

「ご高名は何度も耳にしていますよ。千燐はいい所です。機会があったら立ち寄ってください」

 スキエルニエビツェはにっこりと笑顔でそれに応えた。しかし口ではこう言ってるものの、考えるだけでも気の遠くなるほど遠い千燐に、彼女が来るとしてもすぐではないのは、誰の目にも明らかであったに違いない。

 それから国王は上機嫌で男爵と話をしていたが、その大きな笑い声を聞いて、暗澹たる思いの者もまた数少なからずいた。

「……いい気なものだ、陛下も……あまりこういう事は言いたくないが」

 将軍アリエイテス・ファシマムッラがため息混じりで言うと、

「仕方あるまい。今に始まったことではないのだ。こっちが慣れるしかないだろう」

 将軍オルノスも暗い表情で言う。

「しかし状況が状況だ。主君のことを悪く言うのは気が進まないが陛下は時々物事を楽観視しすぎる感がある。今それは危険だ」

「-------」

 黙り込むオルノスに、アリエイテスは眉を寄せつつ聞いた。

「例の密偵はまだ捕まらんのか」

「依然として」

 アリエイテスは再び息をつく。

「いい気なものだ。あの楽師は別として、こんな時に宴など」

 アリエイテスは気が付かなかったが、この時オルノスは国王を見るふりをして国王にごく近いものに見惚れていた。

「まあ我々が動くしかないのだろうな。それが仕事だ」

「ああ」

 オルノスは玉座から目を離してアリエイテスと歩きだした。その際かの楽師と目があったが、向こうが目で挨拶してきたので自分も適当に返しておいた。

 スキエルニエビツェはその瞬間を見逃さなかった。噂に聞く、宮廷でも一番人気の二人の将軍であるということは容姿だけからして容易に想像できた。自分の世話をしている周囲の女官たちが騒いでいるのをちゃんと聞いていれば、容貌だけでわかるというものだ。

 まず二人の内背が低い方の男は、冬の月のような素晴らしい銀の髪をもっている。巷では、

真銀将軍の呼び名も高いのだそうだ。その真銀将軍の名はオルノス・セタマイエ。背が低いといったがそれは連れの男の背が彼より高いだけの話で、オルノスの身長は六尺余り(百九十センチ)ある。その瞳は、スキエルニエビツェの胸を未だ騒がせるあの海の色。青すぎる青、夏になればそれは燃え上がる青。海の波のような銀の髪、そして青すぎる海の瞳、彼は見る者に海を彷彿させる。こんな山の国は彼には似合わない、そんな誰かの言葉がやっと納得できた気分だ。

 性格は穏やかで優しく檄することなどないのだとか。しかし戦の腕は将軍の中でもすば抜けていて、三十代と若いのに将来の汎胤を担う人材と大いに期待されているようだ。スキエルニエビツェはそのオルノスと並ぶ長身の男に視線を移した。この男はまた馬鹿みたいに背が高い。七尺近い感があるが、それほどにはないだろう。

 容姿は銀と青とに縁取られ夏の昼下がりのような明るい感じのするオルノスと違い、黒い髪と蒼氷色の瞳と、こちらは冬の夕方の冷たい氷雨のような寒々しい印象を与える。その瞳は、氷の白さに入っていってしまうほんの一歩手前のあるかないかの微妙な蒼、それでいて確実に蒼。珍しい色だ、スキエルニエビツェは目を離さずリュートを弾きながらそう思った。顔立ちが端正で終始無表情なので益々冷たそうな印象があるが、それはちょっと見ただけで、よくよく観察してみるとなかなかどうしてそんなことはないようだ。特別優しいというわけでもないが、冷たいというわけでもないのだそうで、侍女たちはそんなところがたまらないという。

 この二人が汎胤の双璧といわれているのか、スキエルニエビツェは思った。確かに共に三十代と聞けば、若すぎる感否めないが、この二人から発せられる武人特有の空気は、他者のそれとは比べものにならないほどに空気を圧倒している。大男、総身に知恵がまわりかね、という言葉を聞いたことはあるが、この二人にはそれも通用しないというのはスキエルニエビツェもわかっていた。頭が悪くては軍人とはいえ出世できない。しかもオルノス将軍は慧燕を救った際も、作戦勝ちだったいうではないか。

 またオルノス将軍は不満や逆境に対して非常に忍耐強く、相手を咎めることも非難することもなく、とうとう周囲の者が見兼ねて口を出すほどの我慢強さを持つが、アリエイテス将軍は悪いものに対しては誰であれ平然と攻撃するという。それは相手が国王であろうと同じで、要するに悪いものは相手が王であれ農夫であれ悪いものは変わりがない、天は相手が王であるからその悪を許しはしないという思想の持ち主である。それだけにアリエイテスを嫌う人間は少なくないが、誰も公然と彼を非難したりしない。彼の言うことはいつも正しいからだ。まったく正反対の二人だが、不思議と気が合うというのも、また女たちの騒ぐ理由でもあるらしい。

 ともあれ、スキエルニエビツェはこの二人の男をその目で見てそれなりの判断を下したのであった。

 この日の夜は、こうして更けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る