第三章 指環の女 8
ピー……
小さな高窓から鳥の姿が一瞬見えた。
もう春なのか……薄暗い牢獄ではそれすらもわからない。
鳥で思い出した。
なんでもスキエルニエビツェを手放さないかと持ちかけた時も、また先方が彼女を譲った時も、彼女を鳥、と表現したそうだ。なるほど美しい声と人目を引く容姿。あちこちを気ままに歩いては一所にとどまらぬその生き様は、鳥以外に例えようもない。
愛する者の男を立てるために望まぬ場所へやってきた……哀れな。
―――――本当は鳥のように自由であったはず。
カストリーズは鉄格子の方へ目をやった。書簡は来るが、本人は来ない。この事実を認めたくないのだろう。しかしいつか彼女が来ることをカストリーズは予感していた。
そしてある日、とうとうスキエルニエビツェがやってきた。
「お前か」
カストリーズはちょっと笑ってスキエルニエビツェを見上げた。
彼女は両手にリュートを持ち梅(表白・裏蘇芳)の襲を着て立っていたが、やがて視線を同じくするためにそこに座った。
「晴れ姿だな」
ふっと相好を崩しながらカストリーズは言った。時期が未定とはいえ、死刑が決まった人間とは思えないほど気負っていなかった。
憑き物がとれたかのようだ。
「噂では劉深に永住と引き替えに命乞いをしてくれたそうだな。嬉しく思う」
「…………どうして……」
「どうして言わなかったのかと? さあな……結局理解されまい、言ったところで。
そしてこう言われるのだ、『馬鹿なことを、ならばなぜ純潔を守り想いを貫かぬのだ』『詭弁に過ぎん』『理解できぬ』。
大切な宝物を見せて、なんだこんなものか、がらくたではないかと言われた時の気持ちがお前にはわかるか」
「―――――」
「ここらが潮時だ。それにもう……疲れたのだ。今度生まれかわったら光にでもなろう。 もう心のあるものにはなりたくない。光になれば、あの人のもとへ何のためらいもなく飛び込んでいける。微笑まれ、愛しまれ、必要とされる。それでよい」
そしてカストリーズは笑っていたその顔を一変して強ばらせた。
「しかしそうは言っても……私は死ぬのが恐い。死そのものが恐ろしいのではない、戦場は何度も経験しているからな……そうではなくて、愛する人たちにもう逢えないのが私には恐ろしいのだ。死んで忘れられることが―――陛下や妃殿下や、ギュイアンや部下達、一生を誓ったあの人やお前に逢えなくなるのが恐ろしい。やがて忘れられるのが恐ろしいのだ」
「カストリーズ様……」
「なあ。思うに人を愛する事と死を恐れる事は同じなのだ。
誰かを愛し慈しんでいるからこそ失うのが恐い。私はそう思うのだ」
素晴らしい悟り―――。
この人は既にある境地にまで達してしまっている。そうなればもう、俗人が呼びとめてしまってはならない。呼びとめたところで聞き入れられることはないのだ。
「一曲……」
スキエルニエビツェは呟いた。
ポロン……
二月 楊花 軽復た微
春風 揺蕩して人の衣を惹く
他家 本 是れ無上の物
一向に南に飛び 又た北に飛ぶ
「…………」
地下牢に朗々とした美しい声が響き、リュートの音が春の光を運ぶかのような旋律を奏で続けた。
そしてその最後の余韻が消えたとき、カストリーズはスキエルニエビツェに言った。
「お前はもうこの国を出ろ」
「―――」
「心配するな。お前の身柄は私が責任をもって保証する。それぐらいの力はまだあるのだ」
そしてカストリーズはスキエルニエビツェが何か言おうとして口を開きかけると、それを遮るようにして有無を言わせない口調で言った。
「さあもう行け。わざわざ来てくれて嬉しかった。行け」
「…………」
スキエルニエビツェは悲痛な面持ちのまま瞳を閉じ、音もなく立ち上がった。そして立ち去り際、
「……私は貴女を忘れないわ」
「―――」
「絶対に」
言い残し、衣擦れの音をさせて去った。
カストリーズは、ふっと笑って壁にもたれかかった。
二週間後、既に季節は五月となっていたが、スキエルニエビツェの正式な出国が許された。彼女は再び自由になったのだ。
すぐにとはいかないが、近日中に全ての手続きを終えれば出国できるという。
その間、スキエルニエビツェはもう一度灯台の島へ渡ってリムノーレイアに別れを告げた。
「……そうですか……残念ですね」
「いつかまた海辺の国に行ったら、あなたのことを話すわ」
ザ……
ザ……ア……
海風に吹かれながらスキエルニエビツェは言った。
「劉深には頼もしい灯台守がいる、どんな嵐にあっても、だから大丈夫だって」
ふふ、とリムノーレイアは笑った。
「貴女のことは忘れませんよ」
「私も」
リムノーレイアは咲きかけた牡丹の蕾を見て、それをスキエルニエビツェに示し、
「あの花が枯れても、忘れません」
と言った。
二人はそこで別れた。
ザ……
三日後―――スキエルニエビツェは劉深から出国した。
敢えて別れを告げずに、自分を解放してくれた女のことを思いながら。
「…………」
フワ……
風が一吹き。
すぐ近くに落ちた鳥の影を見て、スキエルニエビツェは顔を上げ空を見た。
大きな鳥が一旋、二旋……やがて高く鳴きながら海の向こうへと消えて行くのを、彼女はずっと見守っていた。カストリーズの、指環に誓いを込めた一人の女の言葉が思い出される。
《 お前は自由だ 》
《 空を飛ぶ鳥のように 》
サラ……
髪が風に舞った。スキエルニエビツェはあの瞳の色のような空を見上げて思った。
いいえ―――……
本当に自由になるのは貴女
私は本当は自由なのだから
一時も自分を偽らず生き続け―――……
貴女はついに自由を手に入れた
魂を鳥に乗せ
―――――……どこへなりと
ピィィィ・・
鳥の声。それに答えるように、スキエルニエビツェは海を見て歩きながらリュートを構えた。
ポロ……ン
暁に秋露を迎えて一枝新たなり
占めず 園中最上の春
桃李言無く 又た何くにか在る
風に向かって偏に笑う艶陽の人を
その後スキエルニエビツェの耳に、カストリーズに関する事は生死に関わらず一切入ってこなかった。死んだ、とも聞かなければ、また生きている、とも耳にしない。しかしスキエルニエビツェは気にしなかった。彼女は自分の心のなかに在る。
死のうと生きようと同じ……・
魂が自由である限り……。
玉衝―――――第五星は一途星、迷える者の恋の星、世の恋する者は誰しもこの星を見上げ手を合わせ胸の内を訴えるものなり。妖艶にして清冽なる銀の光は時として希望をもたらし絶望をもたらすとも云ふ。又その傍らに星流れし時人は「玉衝の涙」と呼び世に悲恋生まれる兆しとして憂うものなり。
権―――――権は七星の中央に座する星である。中庸にして非凡、混沌と平穏を司る両極の海の守護神、しかして両極ゆえに又陸の存続とも大いなる絆を持つものとす。海上のあらゆる水夫海辺の者はこの星の青きを仰ぎて恵みをもたらされんと欲す。
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