第三章 指環の女 6

 秋になって一番気がかりなのは、季節の変わり目を告げる嵐だ。

 秋の海はいつも気分が変わりやすい。女心と秋の空、なんて言うけれど、秋の海だって女の心に負けないくらい移ろいやすい。リムノーレイアはその日なんとなく風が強いのが気になっていたが、とりあえず雨が来るような匂いはしないので、その日もいつものように眠りに就いた。異変に気が付いたのは夜半過ぎ、前触れもないごお、という突然の風の音で、彼は飛び起きた。着るものも取り敢えず彼は階段を駆け上がり、心臓部の扉を開けた。

「! ……」

 外は嵐だった。大粒の雨が凄まじい勢いで玻璃の窓を叩き、今しも破ってしまいそうに乱暴な風が当たり散らすようにして吹き荒れている。相変わらず灯台の灯りは回転を続けているが、この速さでは雨に消されてしまう。リムノーレイアは回転を早めるために螺子や歯車と連動している把手を掴み、全身を使っていっぱいにまわした。そしてそうしてから機械部のいくつかの複雑な部分をいじくり まわして、回転の速さを変えた。そして次にここに小さいながらも島がありここが灯台であることを海にいる人間に報せるために、松明を焚かなくてはならない。灯台の明滅的で瞬間にしか見えない光は、遠くから見ればわかりやすいが近くにいてはわかりにくい。しかも外はこの大嵐である。混乱からくる衝突が夜の嵐では一番恐ろしいのだ。リムノーレイアはまず五階の小さな物置から松明を取り出して灯台の灯りからそこに火をつけ、何本も松明をつくってから屋上に出た。そして柵に沿うようにして置かれている松明のための枠にそれらを差し込むと、ずぶぬれのまままた中に入った。そして五階の扉の側にある、彼の肩程の高さにある小さな扉を開け、そこの把手を思い切り引き、表のバタン、ザザザザザザッという音を確認すると、そのまま階段へと向かった。今度は一階まで下りて表にも松明を作らなければならないが、ここから三百段以上も段数のある階段を下りるのには、どう急いでも五分はかかる。自分は着衣のまま泳いだようにずぶぬれだし、急いでもいる。足を滑らせるかもしれないし転ぶかもしれない。そしてそれを用心してのろのろと階段を下りている暇もない。階段に出るとほど近い場所に、天井から親指二本を組み合わせてもまだ足りぬほどの綱が下まで垂れ下っている。これがリムノーレイアの必殺技とも言うべきとっておきの秘密兵器だ。彼は綱に掴まりそのままの勢いで一気に下まで下りた。

 ずずずずずっ

 リムノーレイアは段々近付く一階の床を見下ろしながら顔を顰めた。凄まじい摩擦で綱に掴まる手から微かに煙が上がったのだ。痛みと共に疾るそれ以上の熱さ。火傷したに違いないが今はそんなことには構っていられない。一階には三十秒もかからずに到着した。

 ダン!

 勢いよく着地してリムノーレイアは走った。倉庫に駆け込み火種から松明を何十本と灯し、何度も何度も外と中を行き交って島の周りに大きな松明を掲げた。そしてそれが終わっても彼の仕事は終わらなかった。息を切らし、びしょ濡れのまま彼はもう一度、今度は五階まで戻らなければならない。普通なら駆け昇るところだが非常事態である。リムノーレイアは今度は先程下りてきた綱に掴まり、手にしっかりと巻き付けてから中央ほど近い場所にある柱の、これもわかりにくいが大きさは中くらいの扉を開け、思い切り把手をぐい、と引っ張った。

 グググググッ

 リムノーレイアの体が天井に凄まじい速さで引き寄せられていく。この綱を使った技法は彼の苦肉の策で、嵐の時の階段の昇り下りで時間を必要以上にかける、そのはがゆさをなんとかしたいと常日頃考えていた彼が考えだした傑作中の傑作である。五階部分にある把手を引くと天井に配置してある綱が垂れ下り、一階の把手を引くと歯車仕掛けの機械が凄い勢いで綱を一定の長さまで巻き上げるのである。そして五階に到着するとリムノーレイアは灯台の灯りの速さを確認し、それを少しまた調節してから、近日中に寄港するはずであった船の目録を持ち出し、今日明日にも劉深へ訪れる船の数をもう一度確認した。

「二……三……あと二隻か」

 呟き、彼は三百六十度開けた窓から船の姿がないか終始確認し続けた。そして思いついて機械部のいくつかをいじり、準備ができたのを確かめて倉庫から背丈ほどもある蝋燭立てを出した。これは蝋燭の火が消えないように玻璃で周囲を囲ってあり、芯に近い所を開けて火を灯す。リムノーレイアはそれを屋上まで持っていって、中心にある伸縮自在の細い細い棒を取り出すと、なにやら複雑な骨組みに組み立て、その先に蝋燭立てを置くと、五階まで戻って機械部の部分の幾つかの釦や把手をいじった。

 ごぉん……

 がたん。がたん。がたん。

 どこかで幾つもの歯車が回り、何かがゆっくり、次第に速さを増して回る音がした。リムノーレイアは再び屋上に戻ると、先程の蝋燭立てが勢いよく回転しているのを確認し、五階に戻った。あれで遠くからでも合図がわかるだろう。

 そしてリムノーレイアはそれからもずっと、下に行ったり上に行ったり、機械をいじりまわして調整をしたり窓をあちこち見て船が来ないか確認しまた激しい風雨に松明が消えては、それを灯しなおすという作業を延々と続けていた。緊張の連続で彼がやっと一息つこうという頃、「それ」はやってきた。

「―――あれは」

 彼の鷹のような目に、彼方に白い船があるのが確認された。彼はその船がこちらに段々と近付いてくるのに気が付き、龕灯という今でいう懐中電灯のようなものを二、三取り出して、屋上に駆け上がった。そしてそれらを床に置いて自分自身を照らしだすと、自分も松明を持って船に向かって松明で信号を送り続けた。凄まじい雨で、ほとんど目も開けていられないような中、彼は一心に信号を送った。風が髪を舞い上げ、そのぬれそぼった姿は何時間もそうしているかのようだ。リムノーレイアは信号を送り続けた。しかし相手から返事が返ってくることはない。それでも遠かったので、リムノーレイアは必死に信号を送った。何かおかしいということに気が付いたのは、船の姿が大分近くに見えてくるようになってからだ。信号を送り始めたのは船が豆のように小さい時だったから、別に返事かなくともおかしいとは思わなかったのだが、これだけ近付いてまだ何の返信もないのはおかしすぎる。

 ―――――何か変だ

 彼は直感した。確認などしている暇はない。間違いであったのなら謝ればよいが、そうでなければ人命に関わることである。彼は五階から綱にぶら下がり、三階まで行くと一番奥の部屋まで駆け込んだ。そして扉を開け、目の前にぶら下がる綱に掴まると、勢いよく飛び付いてそのまま二階、一階まで掴まり落ちた。そして綱の最終地点、これは吹き抜けになっていて実際一階部分なのだが、そこで 思い切り体重をかけて綱を引っ張った。三階からの彼の重みで一気に動き始めていた歯車は、体重をかけられてすぐに臨戦体制となっていた汽笛を勢いよく鳴らした。

 ボ―――――――ッ

 その第一報は陸まで朗々と響いた。

「はっ……」

 カストリーズも目覚め、ギュイアンも、ノトスもそれで飛び起きた。スキエルニエビツェははっと瞳を開き、そして何事かと起き上がった。

 ボ――――――ッ

 ボ―――――ッ

 何度も何度も鳴らされた汽笛で港はおろか劉深の家という家の灯りがつき始めた。しかしリムノーレイアはそれだけでは終わらせようとはしなかった。

 一階から表に出て、島の裏側に出ると、そこに建てられている小さな白い建物の中に入り、百近い大小様々な鐘が吊り下がっているのを見ると、大鐘に唯一ついている綱を全身を使って引っ張った。 まずは大鐘。

 リ―――――ン

 そして連動して左右にある心持ち小さな鐘が揺れる。

 ドォ―――――ン

 そしてそれが揺れてまた隣の鐘が。連動が連動を重ねて、鐘が次々に鳴る。

 ゴォ――――― ン

 リィィィ――――― ン

 ドォォォォォ――――― ン

 それは最初こそは不協和音のような聞くに耐えないひどい音を醸し出していたが、やがて何度も何度も鐘が揺れてすべてが連動して同じ揺れに入ると、その一つ一つが鳴るよりも遥かに大きく、遥かにいい音で鐘が鳴った。

 リィ――――ン

 ドォ―――――ン

「何事!」

「大変だ皆起きろ!」

 港が大騒ぎになり、そして宮廷内でもそこを宿舎としているごく限られた上位の軍人たちが次々と起きだして非常事態に備えるべく騒ぎ出していた。

「各隊に非常事態対策! 全員起こして総動員させろ!」

「こっちは怪我人の対処と寝床だ!」

「受け入れ体勢を完璧に整えるんだ!」

「動ける者は私についてこい!」

 カストリーズも起きだして、兵士を二、三連れてギュイアンと共に港に向かった。劉深ではこういうことは一度や二度ではないようだ。

 この夜の劉深は、蜂の巣をつついたような大騒ぎだった。


 そしてあの嵐の日から三日―――――。

 スキエルニエビツェは、再び灯台へ向かおうとしている。国王からの書状、褒美、彼の多くの友人からの手紙と多くの物資と共に。

 彼のあの時の判断は間違ってはいなかった。いや、あの判断こそが、多くの人命を救ったと言っても過言ではないだろう。どうやらあの船は嵐で船底に穴が空き、船室の密閉や水の掻きだしに大わらわで混乱状態だったようで、また舵も半分以上きかなくなっていたという。信号係は船室の水の掻きだしに駆りだされており、よしや彼が自分の持ち場にいたとしても、窓が割れて風と雨が吹き込んでおり、とてもリムノーレイアの信号に応えられる余裕はなかったという。あのままでは船は、劉深の港に混乱のままに入港し、きっと陸に乗り上げ、港に住む人々の住居までばらばらになるほどの被害を与えていただろう。 それほどの大型船であった。この船はしばらく劉深で修理をするらしいが、リムノーレイアが港の人々を叩き起こしたおかげで陸の対応が早く、被害が想定より少なかったので、そう時間はかからないようだ。実に、リムノーレイアは陸と海の二つの命を救ったのである。間違えたら謝ればいい、灯台守は常々そう思っているが、かといって誰もが簡単にやってのけられることではない。

 リムノーレイアの名声は、高まるばかりである。

「やあ貴女ですか……」

 リムノーレイアは多少疲れた顔で、それでもスキエルニエビツェを笑顔で迎え入れた。

「これを……国王陛下からの書状です。それからこれは褒美だとおっしゃって」

 スキエルニエビツェは包みを差し出し、書簡を差し出した。リムノーレイアは油紙に丁寧に包まれた包みを開け、赤い革で装丁された分厚い本だとわかると、疲れた表情も忘れて晴れやかな笑顔になった。

「これは凄い……幻の本と言われているものですよ。分厚くて内容が難解ですが、その分退屈しないですみます」

 それから書簡にざっと目を通し、二、三回うなづくと、それをしまってスキエルニエビツェを見た。

「陛下にお伝え下さい。お言葉は有り難いのですが、嵐の後のこともありやはり灯台を離れるわけにはいかない、と」

「そうお伝えすればよろしいのね」

「ええ」

「わかりました」

 それからスキエルニエビツェはにこにことして自分も包みを取り出した。

「これは私から……」

「? なんです」

 リムノーリイアは呟きながら包みを開けた。中身はなんと、小さな苗木であった。柳と牡丹、金木犀、そして梅の苗木もある。

「ここの環境では難しいかもしれませんけど……楽しみが増えるでしょう?」

「これは嬉しいですね。早速後で植えますよ。しばらくここに?」

「ええ。また一週間ほど滞在させていただこうと思って」

「なるほど……貴女がわざわざ来たというのも陛下のご褒美なわけだ」

 スキエルニエビツェはそれには答えず、視線を下に落として微かに笑っただけであったが、その拍子にリムノーレイアの手に視線が当たり、顔色を変えた。

「その手―――……一体どうしたんです?」

 リムノーレイアはそう言われて初めて彼女の視線が自分の掌にあることを知り、慌てて背中に隠した。が、遅い。

「見せて」

「え、あ、これ、は、その…………」

「ひどい腫れ……これは火傷? どうして片手だけ」

「いええ……あのう」

 リムノーレイアは言い訳を探すのに苦しげだ。

「……う」

「一体……」

 スキエルニエビツェは辺りを見回し、見回して初めて、灯台内の散らかりように気が付いた。

「―――――」

 天井からは太い綱が垂れ下っており、普段綱をしまっているであろう天井の板も外れっぱなしだ。あちこちの窓が開いてぽたぽたと雫が垂れ、床のあちこちに小さな水溜まりを作っている。また五階の反射板のある部屋には、いくつもの松明の残骸がそのまま放置されており、見るも無残なかたちで散乱していた。

「これ……は」

 絶句するスキエルニエビツェに、リムノーレイアは恥ずかしそうに頭をかいて小さく言った。

「お恥ずかしい……嵐の始末に忙しくて……その、水夫の人たちとなんやかんややっていたら自分の方まで手がまわらなくて」

「じゃあ……じゃあその手も」

「……はあ。まあ、その一貫というか」

 灯台守の言葉はえらく歯切れが悪い。

「あ、でも、今日片付けの人が来てくれることになってます。この手で天井の蓋板を直すのは大変だし危ないし、新しい松明も持ってきてもらわないとならないので午後にはきれいになりますから」

「……」

 スキエエルニエビツェは必死になって取り繕おうとするリムノーレイアを見ておかしくなった。そして、灯台守は大変だと言いつつも、自分は真にその大変さがわかっていなかったことにも気付いていた。

「じゃあその間に……」

 スキエルニエビツェは差し込む太陽の光に燦々と輝くリムノーレイアの金の髪を見ながら言った。

「苗木を一緒に植えましょうか」

 灯台守は一瞬きょとんとした顔になり、それから嵐の後の太陽のような笑顔で

「ええ」

 と答えた。

 二人が苗を植えている間に陸から職人が来て、灯台守の相変わらずの仕事ぶりに賞賛の意味を込めた愚痴をこぼしながら天蓋の板を元の通りに直していた。その他回しすぎて油の切れた把手、引っ張りすぎて縄が緩みうまく音のならなくなった幾つもの鐘、いずれも彼のたった一人の奮闘ぶりを如実に、痛いまでに表していた。そしてリムノーレイアの言葉どおり、午後には陸に引き上げていった船を見送り、スキエルニエビツェはまたしばらくここに滞在するという。

「本当にいいんですか」

「ご迷惑でなければ」

「それはいいのですが……」

 灯台守は心配そうに眉を寄せて言った。

「いいんですか……貴女は陛下の為にいるんでしょ」

「だってその陛下が許してくださったのだもの」

 肩をすくめて言うと、スキエルニエビツェは一瞬だけ遠い瞳になった。

「……それに……」

「―――え?」

「いいえ……。なんでもないわ」

 呟いた言葉はとても小さくて、リムノーレイアには聞き取ることができなかった。そしてよしや聞き取れたとしても、言葉は短すぎて理解するにはあまりにも乏しかった。しかしわかったことはその瞳の遠さ。自ら好んで故郷を離れ、大地を床に天を枕とするような放浪の旅をしている者は、望郷の思いというものは持たない。好きで離れたわけではない者は故郷が懐かしくて懐かしくて仕方がないから望郷の念に駆られ詩を作る。しかし吟遊詩人は放浪も仕事の一つである。好き好んでこの国にいるはず。しかしリムノーレイアには、本来いるべきではない場所にいるような、極端にいえば、好きでこの国にいるわけではないような、そんな瞳に感じられた。己れの不幸など存在しないようなスキエルニエビツェであっただけに、その瞳は疎遠なものを感じさせ、ひどくリムノーレイアの印象に残った。

「海はきれいですよ」

 何となくこのの国を嫌われてしまったような気がして、リムノーレイアは慌ててこう言った。予想に反して、スキエルニエビツェは素晴らしいほどの笑顔で答える。

「ええ。海は今まで何度か見たことがあったけど、この国の海は別格だわ。こんなに青くて美しい海があるだなんて考えもしなかった。青すぎる青、そう表現した人がいたけど、正にその通りね」

「青すぎる青……か……この国に住む人らしい言葉です」

 ザ……・

 ……ザー……

 ザザァ……

 しばしの間二人は押し黙って海を見ていた。季節は既に秋、青すぎる青い海は夏と共にいずこかへ去り、青い上にもどこかしっとりとした淡い紫を帯びて、劉深独特の景観をたたえている。

 スキエルニエビツェはスッとそこに座り、おもむろにリュートを構えた。リムノーレイアは顔を向け、

「何か歌ってくださるんですか?」

 と尋ねた。

「ええ……ここは一つ秋の歌を」

 薄い笑いを口元に浮かべスキエルニエビツェは弦をはじいた。



       秋風起こりて白雲飛び

       草木黄落して 雁 南に帰る

       蘭に秀有り 菊に芳り有り

       佳人を懐いて忘るる能わず

       楼船を汎べて汾河を滑り

       中流に横たわりて素波を揚ぐ

       簫鼓鳴りて棹歌発し

       歓楽極まりて哀情多し

       少荘幾時ぞ 老いを奈何せん



 ポロン……

 スキエルニエビツェの演奏は続く。それは波と協調するように同調するように、終わることを知らぬかのように延々と続いている。

 そう、波のように。

 ザ……

 ……ザザ……ァ

 ポロ……ォォン…………

 ザ……ァ……

 演奏の手を止めずに、スキエルニエビツェは瞳を閉じ口元に微笑を浮かべながら港の監視者に言った。

「あなたの名声は巷では轟かんばかりよ。よっぽど大事件だったのね、あの嵐は……宮廷でも大変な騒ぎで、被害があそこまで少なかったのはリムノーレイアのおかげだって。 皆そう言っているわ。

 どう、感想は?」

 するとリムノーレイアは困ったように照れたように、わずかに眉を寄せて謙虚に微笑んだ。

「これが仕事ですから」

 スキエルニエビツェは喉の奥でふふ、と笑った。こんなにも興味深い人間が、この劉深という国には二人もいる。それは自分にとっては大きな喜びだ。人との出会いは多くを見つけ、多くの発見は歌と声とに深みを与え、歌と声に深みが増せば、また人生も深みを帯 びる。

 一層高い弦をつらりと弾いて、スキエルニエビツェは改まったように別の音を弾き始めた。

 フォロン……



       中庭 地白うして樹に鴉棲み

       冷露 声無く桂花を湿す

       今夜月明 人 尽く望むも

       知らず 秋思 誰が家に在る



 灯台の島に柳が植えられた。強い潮風にもし負けることがなければ、春になれば柳絮が粉雪のように舞い、牡丹が咲き誇り、梅はそれよりも先立って香り高く咲くだろう。

 秋の今はめまいがするほどの香りを辺りに巻き散らして金木犀が金色の花を咲かせている。

 リムノーレイアの陸の生活はこうして少しだけ、本来の陸の生活には足元にも及ばないほどわずかに、花という形によって取り戻された。しかしそれによって彼は確かに自分は陸の人間と同じものだという確固たる自覚を保って生きていける。リムノーレイアは咲く花を見る度自分が陸から来た人間だということを思い出し、陸に住む懐かしい人々を思い出し、スキエルニエビツェを思い出すだろう。

 ザ……ン……

 波の音に溶けいるように、リュートの音もそこで途絶えた。



 深い紫を遠くから見るような劉深の秋の海は、十一月になって一層深みを増した美しい色になった。

 スキエルニエビツェが劉深に来て一年が経つわけだが、去年の今頃は海に目をくれる余裕すらなかったのを、スキエルニエビツェは昨日のことのように鮮明に覚えている。

 時が過ぎ、いつしか年老いる日のことがあっても、スキエルニエビツェには忘れることのできない日々がある。人は二度死ぬという、最初は肉体の死、そしてもう一つは存在を忘れられるという死。その忘れられるという二度目の死こそが真の死だという。しかしスキエルニエビツェが覚えている限り、死んだ人々は生きる。スキエルニエビツェは今まで出会った人々を一人たりとも忘れることはない。彼らが自分の知らないところで死んでしまったとしても、自分という心の中で生きているというのはまた幸せなことであるから。

 そしてまたカストリーズという女の心のなかにも、どうしても忘れられない男がいる。 その容姿と名前以外は何も知らぬ。ただその存在だけをひたすらに闇雲なまでに愛し、強すぎる想いゆえにそれを持て余し自虐的な情事に疾るカストリーズ。

 あああの人は今一体―――……どこで何を? 何を考え、

何を見て何を聞いているのだろう。

 逢いたい……!

 どうすればいい? どうすればこの強すぎる想いを押さえられるのだ。傷ついた獣のようにあちこちを意味なく走りまわり疲弊していく心。

 私という女は自分の心さえどうにもできないのか……所詮は一人の愚かな女に過ぎぬのだ。いや、女は、否、人間は等しくみな愚かなのだろうか? それすらもわからない。



 どこに行けば愛がある



 自分は一体何をしているのだろう。

 彼は……一体何をしているのだろう。

 カストリーズは廊下から落ちる陽を見つめていたが、なんだか恐ろしいような自分が馬鹿馬鹿しいような気がして、夕日を降りきるようにして歩きだそうとした。

「てっ……」

 誰かに勢いよくぶつかって、カストリーズは小さく叫んだ。いったい誰だ、怒りにも似た感情が込み上げてきてキッと睨み見上げれば、そこにいたのは何と同僚で事あるごとに彼女を敵視しているノトスであった。

「…………」

 カストリーズは一瞬言葉が出なかったが、一応小さく、無愛想ながらにもすまん、と呟くように言うと、走るようにしてそこから立ち去ろうとした。こういう気分の時、ノトスに何か言われるはさすがのカストリーズも御免だと思ったらしい。

「それで今夜は一体誰とお楽しみだ?」

 意外な言葉が背中から追ってきた。

「―――」

 カストリーズは思わず立ち止まり、そしてゆっくりとノトスを振り返った。明らかにいつもの攻撃的な言葉とは違うが、それでも振り向いて見ればその瞳は冷徹で攻撃的で油断を許さない光を帯びて爛々と光っていた。

「……お前には関係なかろう」

 カストリーズは低く言った。―――この男は。どうしてこんなに私を攻撃したがるのだ。何か私に恨みでもあるのか。やりにくい。

「ふん……確かにそうだ。将軍とはいえ私生活にどう過ごそうと俺には口出しはできん」

 カストリーズは一瞬眉を吊り上げて意地悪げに言った。

「ほう……今日はしおらしいな。いつもそうだともっと良いのだが。特に軍議の時とかな」



 どうすれば愛が得られる



「見も知らぬ男の肌はそんなにいいか」

 カストリーズは歩きだしながら吐き捨てるようにノトスに答えた。

「お前はどうだというのだ」

 一瞬、背後から迷いが感じられた。 ―――――言おうか、それとも。

「―――――試してみるか」

 信じられない言葉にカストリーズは立ち止まり、そしてゆっくりと振り返った。

 ノトスの表情は、恐ろしいほど真剣であった。

「―――――」



 どうすれば―――――愛は



 まだ熱い体をそのままにして、カストリーズは服を纏った。枕元の灯りの元で、それはひどく退廃的に、彼女を荒んで見せる。その手首を掴んで、裸のままノトスが尋ねる。

「また―――こうして会えるか」

「知らん」

 カストリーズの言葉は泣き出したくなるほど素っ気ない。

 手早く服を纏った彼女は、服の下に入ってしまった髪をひらりと出して、そして立ち上がった。

「おい」

「私がどれだけきまぐれかお前も知っているはずだ。次を保証するほど心配性ではない」

 誰でもよかったのだたまたま今夜はお前だっただけ―――――その言葉はこんな風に言っているようだった。ノトスが止める間もなく、カストリーズは部屋からさっさと出ていき、後にはノトスのみが残った。



 それでもノトスという男は、確かに公共でカストリーズと正面きって彼女を批判するような男ではあったが、将軍にまでなるほどの者であったから、おかしなところで変に人間の小さな真似は一切しなかった。あの夜のことで彼女に詰め寄ったり、そのことを盾にして弱みを握ったりせず、淡々と日常の業務をこなしていた。あの日以来カストリーズを攻撃することもなくなったが、それには彼も思わぬ落し穴にはまってしまったというべきだろう。

 それはカストリーズに本気になってしまったということであった。

 もしかしたら理由もなく前々からあの女をああして攻撃していたのはそのせいだったのか?

 そしてその愛を自分が獲得できなかったゆえの嫉妬だと?

 日に日にカストリーズのことを考える時間が増していく。気が付くとカストリーズのことを考えている。廊下ですれ違ったり、軍議で彼女の姿が見えたりすると顔が熱くなり全身が熱くなり、あの夜の彼女のなまめかしい白い肌、熱い吐息、絹のような黒い髪を思い出して自分がいったいどこにいるかもわからなくなってしまうのだ。

 ノトスは普段冷静だがその分直情径行である。しかしカストリーズはそんな彼の気持ちなど知るよしもなく、毎晩のように違う男と肌を重ねていた。

 それを知ってまたノトスがいらぬ嫉妬をする。本来自分のものではないのに、そして彼女があの夜どういうつもりで自分に抱かれたかも知っていたはずなのに、どうしようもないのだ。 

 なぜだ? どうしてそんなに多くの男と寝るのだ。俺を見ろ。俺と一緒にいてくれ。

 その一言が言えない……それは彼の誇りであったのか、それとも。

 ノトスはそうして悶々と日々を暮らしていった。

「アミーン伯爵……」

「……伯爵か…………」

 ノトスは周囲のどう聞いても好ましいとは言えない反応にハッと顔を上げた。軍議の真っ最中である。

 アミーン伯爵は中立派の貴族で、国王派とも反国王派とも一線を引いて存在する油断のならない男である。中立といえば聞こえはいいが、簡単に言ってしまえばどちらにも情報を提供し、互いを撹乱して傍観し喜ぶという非常に迷惑で危険な人物である。かと思えば時に国王派を攻撃し、そのやり方や将軍たちの戦場での戦いぶりや作戦などをいちいち細かく取り上げては批判し、いかに国王の元にいる将軍として至らないかを詳らかに会議の席で報告した。ギュイアンやノトスは無論のこと、カストリーズもその例に漏れない。そ

れがまた、なんでその時その場にいなかったくせにそんなことまで、ということにまで細かく言質してくる。それは無論のこと自分の手の者が戦場に同行していたのだし、それは将軍たちも承知しているのだが、その時こう思ったはず、その時そう決断したはずと、気味が悪いほどに将軍たちのその時の心理を言いあてるので、この男は一体、と、どの将軍も薄ら寒い思いをしたものだ。だからと言って反国王派にこういう時肩入れするかというとそうではない。罷免したいのはやまやまなのだが、その実力ゆえにできない―――――。

 そのため宮廷内の誰もが、―――――国王派反国王派に関わらず―――――アミーン伯爵に辛酸を舐めさせられている。アミーン伯爵を潰すためなら、今まで考えられなかった両陣営の結束という事態も辞さないのだ。将軍たちも情報を操作され戦場で何人の同志部下を無くしたかわからない。アミーン伯爵は誰に対しても均等に危険な男で、恨みをかっている人物なのだ。それを今まで彼を牢獄に入れることができなかったのは単に証拠がないという事実があるからに過ぎない。無論彼がやったことは確かなのだ。なにもかもすべて証明されることなのだが、動かぬ事実、目に見える証拠が一つもない。告発して、それは単なる逆恨みと言われれば黙る他ないのだ。

「ノトス将軍……どう思うかね?」

 国王が意見を求めてきた。国王は公平な人だ。この前の失態ですら、叱責はされたもののそれでノトスは国王からの信用を失ったというわけではなかった。犯した過ちは消えないけれども、一度注意し、それについて謝罪し、反省しているものなら、過去のことゆえないも同じと、国王はそう言って彼を解放した。

「……私は、やはり徹底追求するべきだと思います。誰一人アミーン伯爵についてはよく言う者はいない。

 確かに重要な人物ではありますが、ですが害毒が一つの有益なものをもたらすからといって十の被害を見過ごしてよいものでしょうか。このままでは宮廷内は彼一人のために撹乱され、混乱の内に破壊し、そしてその被害は民にまで及ぶものかと」

 カストリーズはじっとその言葉を瞳を閉じて聞いていた。

 相変わらず説得力のあることを言う……。

「ふむ……私もそう思う。しかしこの意見はまた非常に重要な決定につながることでもあるので全員一致によって決定としたいと思う。ノトス将軍の意見に賛成、意見を決定してもよいと思うものは起立願いたい」

 ガタッ……

 部屋中の空気が慌ただしく動いた。ノトスは立ち上がりながら冷や汗をかいていた。自分がいつもこの席で攻撃する女、自分を恨んでいるはずの女は、その仕返しをするのではないか? 攻撃した理由さえ今はわかって自分が情けない。あまりにも幼稚な愛情表現。

 しかしカストリーズは涼しい顔をして立ち上がっていた。全員がまったく同じタイミングで立ち上がり、座っている者は一人としていなかった。

「全員一致ということで―――――可決するとしよう」

 堅い表情で国王が言い、軍議は終了となった。誰もが堅い表情で、重い心で部屋を出ていき、ノトスはカストリーズを呼び止めた。

「―――なんだ」

 最悪に迷惑そうな顔をしてカストリーズは振り向く。

「え、あ、いや……有り難いと思っている。その……」

「―――――見損なうな」

 カストリーズは氷で作った鋭敏な針のような鋭い声でノトスを遮った。

「―――――」

「私はお前と寝たからお前の意見に賛成したのではない。あの伯爵は本当に迷惑だ。私も二度三度となく被害を受けている。それだけではない劉深にとってあの男は有益なものをもたらさない。だから賛成しただけだ」

 言うとカストリーズはノトスに構わずすたすたと行ってしまった。

 ノトスは一人、自分の言葉の愚かさに、ただ茫然と後悔の念と共に立ち尽くすばかり。



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