第三章 指環の女 5
スキエルニエビツェはなかなか眠ることができなかった。波の音が近すぎてなんだかとても落ち着かないためだ。そっと起き上がってその海を見ようと、ベットの側にある窓から伺い見る。朝起き上がると窓の外には青い海が広がっていて、その青さといったら己れの顔がほのかに青く染まるほどだ。そしていそいそと起き上がりたくなる。しかし今は違う。なんだか呑み込まれてしまうのではないかと思うほどに黒く、穏やかな波の音も却って不気味だ。その黒い海に、時折頭上から光の帯が一定の間隔で回転している。灯台の光は休むことを知らない。万人が眠っていようと、灯台の光だけは海を照らし続け、そうして海を人知れず守っているのだ。リムノーレイアに聞いた話では、大螺子を一杯に回して灯台の光を回転させるらしいが、それは三時間ごとに回さなければならず、嵐の時には何が起こるかわからないのでほとんど眠らないのだという。
ふと階上で人の気配がした。リムノーレイアが海の様子を見に、反射板の元まで言って機械の調子を見たり、迷って漂流している船がいないか起きたのだろう。
自分にはとても想像のつかない世界で、リムノーレイアはひっそりと生きている。
「陸では最近何がありました? 変わったこととか、大きく取り上げられた事とか」
スキエルニエビツェは肩を竦めた。
「カストリーズ将軍のことくらいね」
スキエルニエビツェは彼女が先の戦で大きな功労を上げたこと、また劉深がどの軍も負けることなく全勝するという快挙を成し遂げたということを話して聞かせた。リムノーレイアは戦の折り船で出向く軍隊の人間を送り出すことや、また彼らが勝ち鬨の声を上げるかのように誇らしげに汽笛を鳴らし、真っ先に彼に勝利を告げることをいつも嬉しく思っていることなどをスキエルニエビツェに話してくれた。
「カストリーズ将軍ですか……お目にかかったことはありませんが立派な方だと聞いています。それに美しい人だと」
「そうね」
スキエルニエビツェは唇の端に笑みを浮かべて言った。誰とでも寝るひとだけれど、とは、さすがに彼女には言えなかったが、しかしリムノーレイアが彼女のことを知っているというのは多分、陸からの唯一の情報網である友人からの手紙によるもので、そして巷でも有名なカストリーズの噂は、彼も知っているに違いない。
嘉果浮沈して 酒半ば醺い
牀頭の書冊 乱れて紛紛
北軒に涼吹いて 疏竹開き
臥して観る 青天に白雲の行くを
そして一週間の滞在の後―――――。
スキエルニエビツェは陸に戻ってきた。再び陸の人間として陸の生活を続けるために。
しかしリムノーレイアと過ごしたのどかな一週間を、スキエルニエビツェは忘れることができないに違いない。
「一週間もどこへ行っていた?」
廊下で偶然会った時カストリーズに最初に言われた言葉がこれであった。素直に心配していたと言えないカストリーズの不器用な処をスキエルニエビツェは知っていたから、少しも慌てることなく笑って答えた。
「灯台守の元へ」
腕を組んでカストリーズは柱に寄り掛かっている。偶然というよりは、楽師が帰ってきたということを伝え聞いて、彼女はここでスキエルニエビツェを待ち伏せしていたようだ。二人は並んで歩きだし、そのまま庭へ出た。
「『港の監視者』リムノーレイアの所か。会ったことはないが彼の功労は何度も耳にしている」
スキエルニエビツェの口元がくす、と笑みに動いた。
「なんだ」
「貴女が誰かを褒めるなんて珍しいこと」
「……」
カストリーズがなんともいえない顔になったのを見て、スキエルニエビツェはふふふと笑った。誰も気が付かない、この女将軍がこんな顔をすることがあることすらも。皆上辺だけしか見ていない、それだけで彼女の全てだと思っている。スキエルニエビツェはカストリーズの左手を見た。相も変らず黒鼈甲の指環がぬらりと静かに光を帯びてそこに鎮座している。左手の薬指に指環。それは生涯を誓った相手との誓いの証であり絆でもある。しかしスキエルニエビツェは彼女と出会ってこの指環のことを聞いた時、左手の薬指にはそんな意味も込められるのだと思いなおした。何も想い合って結ぶ絆だけではない、想った相手と例え結ばれなくとも、まるで結ばれるために相手を好きになり、叶わぬ恋だとわかれば諦める、それは恋ではなくただの打算だとでも言いたげに、彼女は自分の将来を半ば捨てている。相手に捧げてしまっている。それほど強く相手を愛することが、一体どれだけの人間にできることであろうか。この指環はカストリーズにとって祝福されるものでもなく相手との絆を認識するものでもなく、彼女が自らに課した足枷なのだ。
「…………」
スキエルニエビツェは胸が痛いような悲しいような、それでいてなんだか永遠の安らぎを約束されたような、そんな穏やかな気分になって複雑な表情になった。
「何か歌ってくれ」
それを知ってか知らずか、カストリーズは彼女に背を向け庭の美しい風景に目を向けながら言った。スキエルニエビツェは側にあった岩に座り、スッとリュートを構えた。
ロ……ン……
緑樹 陰濃やかにして夏日長し
楼台 影を倒にして池塘に入る
水晶の簾動いて微風起こり
一架の薔薇 満院香し
サワ……・
夏の涼しい午後。スキエルニエビツェの歌声は、まるで口のなかにいれるとスッと溶けてしまう上質の砂糖菓子のように、風に乗って不自然さのかけらもなく消えた。
さらり。風がまた吹く。海の匂いが微かに漂う。余韻を楽しんでいたカストリーズであったが、そんな二人を廊下から見つけた者がいた。
ノトスである。彼は歌声を聞きつつ廊下に差し掛り、そしてふと目をやった庭に二人の姿を、カストリーズを見いだしたのだ。
「……」
彼は立ち止まり、そしてしばらく考えてから庭に出た。
「大したものだな」
不意の闖入者に、カストリーズもスキエルニエビツェも驚いて振り向く。スキエルニエビツェは違ったが、カストリーズの方は声でそれが誰か、大体の察しをつけていた。
「……」
「まったく優雅なものだ。だいたいその楽師は陛下御用達だろう。 いくら常勝将軍カストリーズといえど、そんなことがばれてみろ、どんな罰を……」
「行こう」
カストリーズはスキエルニエビツエを促して歩きだした。その口調、腹が立ったからとか不愉快とか、そんなものを超越していた。
彼女はノトスを無視したのだ。
「受け……る、か……お、おい」
「―――いいの?」
「放っておけ。私が嫌いなんだよ、奴は。ああすると気が晴れるらしい。灯台守がお前を独できて私がいけないというはずはあるまい」
喉の奥で、スキエルニエビツェはまた笑った。今度は誰にも、カストリーズにもわからないくらいに、わずかに。
ザ……
ザザ……
……ザ……ァ……
穏やかな波の声が響く、夕方。朝のすがすがしさも夜の懐の深さも及ばない、夕方の海だけが持つ、こころ穏やかにする静かな波の声。海はこの時刻、炎をその身に帯びたかのような鮮やかなオレンジ色となる。それは見る者の顔をすべからく同じ色に染め、呼び掛けるような髪の毛を撫でるような波の音も加わって、人の心を安らかかつ騒がしいものに変える。
カストリーズは放心してそんな海を見つめ、窓から飽きもせず見つめ続けている。目の前で日が沈もうとしている。
―――――あの人は、この日没を見ているだろうか。今いったい何をしているのだろう。何を見、何を聞き、何を考えているのか。 カストリーズは行き場のない辛さと苦しさに瞳を閉じて息をついた。
ああ逢いたい―――……。どうして? 何故逢えない?
それが私の業なのか。狂おしいほど、おかしくなってしまいそうなほど、あの人に逢いたい。その姿を見、声を聞き、共に同じ時間を共有したい。ほんの一瞬でいい、彼に逢いたい、彼に……。
しかしどう頑張ってもその想いは実らぬ。実らぬ想いがカストリーズを破滅的で投げ遣りな情事へと導く。誰にもどうすることもできない。カストリーズはかの男に再び逢えるまでこの生活を続け、そしてその生活はきっと終わることはないだろう。
ザザ……ン…………
……ザ……
サラ……
風がそよと吹いた。ポロン、どこかでリュートを奏でる音がして、楽師が近くにいることがわかった。
長養の薫風 払暁に吹き
漸く荷菱開いて薔薇落つ
青虫も也た荘周の夢を学び
化して南園の胡蝶と作って飛ぶ
「…………」
唇を微かに噛み、カストリーズは夕焼けに染まる海を、いつまでも見つめていた。
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