第三章 指環の女 4

 リムノーレイア、意味は『港の監視者』である。自分はこの名前を気に入っている。それは幼少の頃からずっとで、そしてこれからもそうであり続けるという自信が、灯台守リムノーレイアにはある。

 別に意図して名付けられたわけではない、両親は自分に家を継がせようと思っていたほどなのだから。しかし自分ほど灯台守に適した人間もいないのではないだろうか、リムノーレイアはふと思う。傲慢でもなんでもないこれが彼の素直な感想で、そして彼はこの灯台守という仕事を愛している。陸に戻ってやってみたいことは色々とあるが、きっと一週間程度が限度で、またこの塔のような美しい灯台に戻りたいと切に願うに違いない。思うに、これが天職なのだ。やらずにはいられないということが天職ならば自分の天職は灯台守、きっと生まれる前から決まっていたことなのだろうと思うほど、リムノーレイアはこの仕事を愛していた。奪われれば狂気のあまり死んでしまうだろうと思うほどに。

 灯台守の仕事は一部を除けば簡単だ。昼間は明るいから船が迷ったりしないし、暗礁の場所を知らせる必要もない。逆に真っ青な海の平原の中白く聳える灯台は目立つ。それだけで、ああ陸が近い、劉深が近いのだと船乗りたちを安心させることもできるのだ。たまに異国の船が劉深に行くのに詳しい方向を聞いてきたりして、大抵は船から降りて一服していくのでリムノーレイアにはいい退屈しのぎになる。季節の変わり目の嵐の際は大変だが、それが灯台守の仕事だと思えば愚痴も出ない。

 昼間時間を持て余すことの多いリムノーレイアの時間潰しはもっぱら読書にあてられ、本を読むことに疲れたり飽きたりしたらぼおっと海を見たりたまには釣りをしたりして、そうして夕暮れを待つ。

 そうやって海と向かい合っていると、遥か彼方のほうにぽつんと小さな白い船の影が見えたり、側で見たらさぞかし大きいであろう鳥のはばたく様が、なんだか対岸のことのようにしか思えないほど縁遠く、小さく見えたりする。そんなものに囲まれて日々一人で生活していると、人の暮らしや営みなど本当に小さいものにしか見えなくなってしまうのだ。 大分昔の本に、天の意志とは人知でははかり知ることができないほど大きく、人間など所栓は自然界の中で行きゆくほんの小さな存在でしかないので、どれだけ人が大きな戦をしてそれによって大地が荒れ果てようとも、天にとってはちっぽけなことにしかならない、という話が記されていた。

 リムノーレイアは、本当にその通りだと思う。海を見ていると、陸で暮らしていた時のその生活の細々としたものすべてが、本人にとっては確かに重要で人生を左右するかもしれないことであっても、こうして海の遠大さと広さを見ているとどうでもいいようにすら思えてくるのだ。穏やかな波の前であくせくしても仕方がない、無駄なことのようにすら思える。そんなに焦ったところで仕方がない、ふと見てみると、海は千年の昔から変わらない姿をずっとずっと保ち続けている。海の前ではどんなことも卑小になる。それを悟れば人間怖いことはないのではないか、そんな悟りまでリムノーレイアは得てしまっているのだ。

 だから自分はこの暮らしが気に入っている。取り残されたように海の中の小さな島に建てられた白い灯台。今更、海のこの懐の深さを知った後虚飾に満ちた生活をしろと言われても無理だろう。簡素であるが故に奥の深いこの世界を知った以上は、確かに駆け引きやきらびやかなもので溢れた生活も楽しかろうが、なんだか妙に白けて、嘘くさく見えてしまうのだ。多少退屈ではあるが、長い人生退屈があってもよいではないか。そしてたまに来る嵐、それに立ち向かう何とも言えない興奮と、責任と、それが重いが故に無事果たし

た後の充実感。

 たまに陸から来る食糧と水と酒と、前に来た時に頼んだ本と、知り合いからの手紙。

 それだけでも人間充分やっていけるのだ。リムノーレイアは長い髪を揺らめかし、腕を組んで灯台の白い壁に寄り掛かり、放心して海を見つめていた。

 そのリムノーレイアの視界の端に、いつものように陸からの連絡船がやってくるのが見えた。腕を解きそちらに身体を向け迎える姿勢をとったリムノーレイアの海と全く同色の瞳に、見慣れない女の影が見えた。



「はじめまして。灯台守殿ですわね?」

 降りると同時に女は極上の笑みでにっこりと彼に告げた。

「はあ……そうですが貴女は……」

「スキエルニエビツェと申します。楽師ですわ。国王陛下の言いつけで参りました」

 すっかり勝手を知った様子で食糧やその他の荷物を運ぶ水夫たちを尻目に、二人はそこに立ったまま話を続けた。茫然として戸惑うリムノーレイア、にこにことそんな彼を見上げるスキエルニエビツェ。

「旦那、運び終えましたぜ。じゃあまた来週」

「え? ああ、ありがとう。奥さんによろしくね」

 リムノーレイアはスキエルニエビツェから思い出したように目を離して船に乗り込む水夫たちを見送った。そして船が小さくなってからやっと、横に立つスキエルニエビツェに目をやり、もう一度尋ねた。

「えーと……お名前」

「スキエルニエビツェです」

「……」

「長いのでイオシスと」

「……どちらも美しい名前ですね。風が出てきましたからどうぞ中へ」

 リムノーレイアはスキエルニエビツェを招き入れて灯台の中へ入った。

「―――――」

 スキエルニエビツェが入って中を見渡すと、そこは想像を越えて広い建物だった。

 当たり前の事だが壁は円筒状になっていて、あるかどうかは知らないが屋上まで吹き抜けのようだ。その壁に添うにしてぐるりと螺旋状に階段が取り巻いており、その途切れ目の所々に扉が見えて、この灯台の内部が単純でないということを示している。入った一階は彼が普段生活している場所のようだ、台所、食堂、少し離れて座り心地のよさそうな低い椅子と卓が、居間のような役割を果たしているらしい。それでも部屋の、というより階の三分の一にもなっておらず、隅に寄せた感じだ。後は、壁に小さな扉がついていたりするところを見ると倉庫になっているのだろう。なんとも広すぎて言葉が出ない。

「さあどうぞ座って下さい。今お茶を淹れますね」

 リムノーレイアは台所に立って火種を取り出して薬缶をかけ、慣れた手つきで急須に茶の葉をいれた。台所の正面には大きな窓がついていて、両手一杯に手を開いても余るほどに海がよく見える。

 スキエルニエビツェはその背中をじっと見て海の似合う男だ、つくづくとそう思った。

 今までスキエルニエビツェは海が似合う男というのは筋骨逞しく、がっしりとして陽に灼けた印象を持っていたが、それは間違いだということをリムノーレイアを見て感じていた。女のように痩せているが身体ができていないというわけではない。服は白い旗袍で、しかも光沢が一切入っていないので孤島の灯台守という感じが実によくでている。本人はそういうつもりはないのだろうが、こうして彼を見ていると、灯台守以外には何をやっているか、ちょっと想像もできない。香りのよい茶を運んできてこうして共に向き合っていると、その美しさもまたぱっと見ただけではわからないものが多く潜んでいる。

 髪の毛は黄金といってもよいほどの美しい金色だ。その長さは腰より少し短いくらいで、顔の形はアーモンド、海で生活しているはずなのに少しもそれを感じさせない肌は、まるで若い白樺のようななまめかしさを持ち合わせている。唇は理想的な形で、終始弱く微笑んでいるその優しそうな面立ちに、いったいどうやって嵐や孤独やこの大海と戦ってうまくやっているのだろうと本気で思ってしまう。

 よくは知らないが灯台守というのは大変な生活のはずだ。瞳は青。劉深に生まれ劉深で育ち劉深で死んでいく者の宿命のような、恐ろしいほどの青い瞳。吸い込まれそうに青く深い知性と優しさを持っている。

 話していて灯台守という孤独と戦う仕事も少しも苦痛に感じていないということもわかった。

「そうですか陛下がわざわざ……」

 心持ちうつむいてリムノーレイアは呟くように言った。

「ええ。好きなだけ滞在して好きなだけ歌ってこいと。それからあなたを灯台に縛り付けて悪いみたいなこともおっしゃってましたわ」

「ふふ……そんなことはないのに」

 弱く笑ってリムノーレイアは言った。そして気を取り直したように顔を上げると、中を案内しましょうと笑って立ち上がった。

「気をつけて」

 壁に沿った螺旋階段をいくつもいくつものぼって、ふと下に目をやると先程共に茶を飲んでいた場所が目も眩むばかりに小さくなっている。この灯台は一体どれだけ高いのだろうと、くらくらする頭でスキエルニエビツェは思った。

「ここが二階です。まあ、高さから言ったら三階か四階なんですけどね」

 扉を開けながらリムノーレイアは言った。二階はそれぞれの個室が大変広く、数十人で会議ができそうな部屋が二つ、残りの一部屋は浴室だった。こんな場所で水は貴重なものだから、節約志向にあると思いきや、海水を濾過する装置があるので水には困らないらしい。大きな部屋の内一つは膨大な量の本が棚にしまわれており、しかし部屋が広いのでまだまだ本を置く場所はあるようだ。

 もう一つの部屋にはこれといって何もなかったが、きっと本を置いていた部屋にいよいよ場所がなくなったときの予備かと思われた。

 続いて連れていかれた三階は、こちらは二階とうってかわって小ぢんまりとした部屋が多く、いずれも客室。全部で五部屋に加えてもう一部屋、二階のものよりは広い浴室があった。

「今日はこちらで休んでください。浴室もあります」

「いっぱい客間があるのね」

「たまにね、友達が遊びに来るんですよ。嵐がまったくない、一年で一番暇な時期を狙って来てくれるんです」

 苦笑しながらリムノーレイアは言った。彼にとって感謝するべきことであり、また放埒な友人達の久しぶりがゆえのはしゃぎぶりを思い起してのことだろう。続いて四階に連れていかれた。ここは完璧にリムノーレイアの私的空間といってもよかろう。彼の寝室と浴室、二階のものと負けず劣らず広い部屋にはそのまま上で寝られるのではないかと思えるほどの大きな大きな机と、本棚、こちらは完全に趣味のものではなく海の資料などのようだった。スキエルニエビツェにとって一番印象的だったのは、彼の寝室を出てすぐの場所が階段であるということだった。しかしそれは五階に案内されてすぐに理由がわかった。五階というのは灯台の要、灯りでもってして光を生み出し夜の海を導くべき場所であったからだ。嵐というのは夜が厄介だ。いつどんな夜でもすぐに灯台守としての務めを果たすための、リムノーレイアの知恵であるといってよかった。

 灯台というのは頂の部分と底の部分が同じ幅かというとそうではなくて、下広がりであるから、五階部分は二階と比べて非常に狭く、この一部屋だけで二十畳ほどしかなかった。 というのだから、だいたい二階や一階がどれだけ広いかが想像できるだろう。中心に反射板があって、周囲に色々と小難しそうな手回しの把手だとかがある。これらを一人で駆使して、リムノーレイアは劉深の海を守っているのだ。三百六十度見渡せる五階は大きな窓で仕切られており、晴れた日に臨めばこれほど気持ちのいいものはなかった。

「もう一つ上にあるんです。行ってみますか?」

 リムノーレイアが言って隅にある小さな螺旋階段へスキエルニエビツェを案内した。随分と広くて長い階段を延々とのぼってきたので、この普通より少し広めの階段ですら、スキエルニエビツェには狭く感じられた。そしてまた非常に急でもあったので、葵(表淡青・裏淡紫)の襲の裾を何度となく踏んでしまったかわからない。がちりという音と共に鉄の扉を開け、リムノーレイアが案内した先は、灯台の屋上というべき場所だった。

 ザッ……。

 突然強い風にさらされてスキエルニエビツェはたまらず目をつむったが、そっと目を開けると、青すぎる青い海が眼下に限りなく広がっていた。

「わ……あ」

 思わず呟き、瞳を輝かせるスキエルニエビツェに、幾分満足そうにリムノーレイアが言った。

「きれいでしょう? 暇な時は大抵ここに来るんです。天気がいいと一日中いられるんですよ。食事をしたり酒を飲んだり」

 にこにこと言い自らも海を見渡すその表情を見ていると、この男は本当に海が好きなのだとスキエルニエビツェは実感した。しかも美しい海穏やかな海だけではない、時に高波で人を攫い時に白い泡の波を猛らせて陸に攻撃を仕掛ける灰色の鉛のような、油のような

薄暗い海もまとめて愛しているのだ。さわ、と吹く穏やかな風に髪を揺らめかして、スキエルニエビツェは海を見ながら言った。

「ああやっと思い出したわ。リムノーレイアというのは『港の監視者』という意味だったわね」

 そして灯台守を見ると、どう? という目で彼を見た。監視者は笑って答える。

「驚きましたね。その意味を知っている人がいるなんて」

 結構古い言葉らしいです、とリムノーレイアは言った。目の前の楽師の立ち居振る舞いや瞳の光で、容易ならざる人物だということは薄々気が付いていたが、まさかここまで教養のある人間だとは思わなかったようだ。

「もっとも私が灯台守になると言い出した時には、両親はこの名前にしたことを嘆きましたけどね」

「名は体を表す。いい見本だものね」

「別にこの名前だから灯台守になろうと思ったわけじゃないんですよ。そうと知ったのは灯台守になる三年くらい前でしたかね。でももうそれよりずっとずっと前に、私は海と密接な仕事がしたかったんです。ひ弱だから漁師は無理だろうし、却って周囲に迷惑をかけ

そうですしね」

 スキエルニエビツェはくす、と笑った。この容姿で、と言ってはおかしいが、腰に飾り帯をするほど高貴な生まれの男が、漁師になるというその発想の自由さに彼の器の広さを知って、なんだか嬉しくなったのだ。服の上からだからよくわからないが、身体はけっこ

うできているし、灯台守のきつい仕事をしているのだから、体力がないということもないだろうが、漁師と灯台守とではまた使う体力が違うのかもしれない。

 下へ戻って、夕食の手伝いをする内、スキエルニエビツェには彼の素性を推測するもう少しの余裕ができてきた。

 言葉の端々からさりげなく感じさせる貴族特有の嫌味のない品の良さ、育ちを少しも鼻にかけていない気さくな態度、そして近くにいて、スキエルニエビツェは彼の飾り帯をもっとよく見て観察することができた。茘枝種白玉牌、縦五センチ、横七センチの長方形の

四隅になんとも繊細で、それでいてしっかりとした金の留め金が施されており、それがそのまま細鎖に止められて彼の腰に巻かれている。茘枝というのは茘のことで、これは茘のようになまめかしく生きているような白い玉という意味だ。表には雲龍という形の非常に

めでたいとされる吉兆のシンボルの上に、髪を結い上げた女が彫られており、片手に桃の枝を持ち、傍らには一対の長尾鳥がいる。裏面には詩が十四文字彫られていて、

  青鸞早報蟠桃熟

  摘向金盆奉世尊

 とある。意味はよくわからない、リムノーレイアは白い歯を見せて笑った。調べようと思えば彼なら簡単なことだろうが、敢えて知らなくてもよいという奥ゆかしさが彼にはあるのだろう。今リムノーレイアは二十八だが、もう灯台守を生業とするようになって八年になるという。それ以来、ずっと一人で、たまに誰かがこうして訪ねては来るけれども、大抵はたった一人でこの小さな島に暮らし、一人で灯台を預かっている。

「八年も……お寂しくはないの?」

「寂しいと思う暇もないですよ。春には嵐がやってきます。潮の流れを毎日観察し、それを日誌につけ、風向きや雲の動きを見て嵐の時期を予測する。生暖かい風が強くなって雲が早くなれば要注意です。そして少しゆとりができれば本を読んで昼寝をします。そうこうする内に夏が来て、劉深の海が一番青くなる。嵐というようなものは来ませんが船が一番多く来る時期なので専ら先導が主ですね。

 友人が一番多く来るのも夏です。けだるい午後に一人でここにいると時々狂ってしまうのではないか、世界で自分は一人なのではないかと思うこともありますが、そういう時にまるで狙ったかのように友人が沢山来てくれます。有り難いことですよ。で、そういう暮らしをしている内に長い夏が終わって、いよいよ秋です。秋の海というのは実に侮れません。さっき穏やかだと思っていた潮の流れが急に早くなったり、かと思ってこちらが身構えているとまた何でもなかったかのように穏やかに凪ぎ始める。日が落ちるのもこの頃からぐっと早くなって、うっかりすると灯台の灯をつけ忘れてしまいます。最初はよくやってしまいましたけどね」

 リムノーレイアはそこで苦笑した。忘れてしまいがちな事の割に重要なのでうっかりというには大きすぎる。一度や二度ではない、その度に全身に被ったように冷汗をかいたと彼は言った。それが理由で船が迷ったりする事だけは、あってはならないのだ。

「そして冬です。冬の海は厳しい。灰色になったり鉛のような空の色を反映したり、油を流したようなおかしな色になることもあります。潮も攻撃的であまり灯台の外にでることはできませんし、いつ嵐が来るかわからないので週に一度の連絡船からの荷物は倍になります。どうしてって言うと、来られなくなることがありがちだからなんですよ」

 そしてリムノーレイアは、聞いているスキエルニエビツェがぞっとするような話を今は良い思い出とばかりに穏やかに笑いながら話して聞かせた。

「ふふ、最初の方はね、なにしろすべてが初めてのことだから、そんなことわからなかったんです。そしたら嵐で船が来られなくなってしまって。きっちり一週間分の食糧しかないし、釣りをしても魚はいないし、いやあ死ぬかと思った」

「……」

 やはりあらゆる意味でまともな精神ではこの仕事は勤まらないのではないのでは―――スキエルニエビツェはこの時、心の底から思った。



 ザザザ……

 ……ザザ……

 見渡す限りの海―――。聞こえるのは波の音だけ。スキエルニエビツェはもう、何時間もこうしているのに気が付かずに、ずっと海を見つめている。隣ではいつのまにかリムノーレイアが釣り糸を垂れている。

「うまくすればお昼ご飯になりますよ」

 そう言った彼の言葉に、スキエルニエビツェは驚いて聞いた。

「お昼……って……。え?」

「……太陽はもう中点にありますよ」

 スキエルニエビツェは上を見上げた。確かにもう昼である。

「……」

「よくあることですよ。今みたいに夏で……海に見惚れているとね。私もよくやりますから」

 時間の経ち方が違うのだろうか。スキエルニエビツェの二十四年間の人生で初めてのことであった。リムノーレイアは穏やかな表情で微動にせず釣り糸を垂れている。その姿はまるで彫像のようだ。

「……何か歌いましょうか?」

 灯台守は顔を向けてにこりと笑う。

「ええ。お願いします」

 そもそもこれをしに灯台に来たのだ、スキエルニエビツェは思いながらリュートを取り出した。

 ポロ……ン



       杖を携え 来たり追う柳外の涼

       画橋南畔 胡牀に倚る

       月明らかにして 船笛参差として起こり

       風定まって 池蓮自在に香し



 歌を聞きながらリムノーレイアはぼんやりとしている自分に気付きもしなかった。こんな美しい声を聞いたのは初めてだった。なるほどこれは、友人が手紙に書いた通り、一国の王から王へと渡された理由がわかろうというもの。この楽師の価値は、この見目の美しさ、見ているだけで安寧を約束されるような気分にさせる教養ある立ち居振る舞い、しかしそれ以上に歌って初めて真価が見いだせようというものだ。

 ロォォンンン…………

 風に乗ってリュートの音が流れていった。海に向かって流れた風に乗り、余韻は中々消えることがなかった。リムノーレイアはいつのまにかほう、とため息をついて、大きく息を吸い込んでいた。単調で孤独な灯台守の仕事。その生活の中にこんな感動が来ようとは思ってもいなかった。自分は灯台守になって幸せだと、意外な付録をもらってリムノーレイアは実感した。

「いい歌ですね」

 月並みな言葉である。

「船笛参差として、とは……私にぴったりの言葉です。なにしろ昼夜を問わず船がやってきては劉深の方向を尋ねますからね。それにしても蓮の花も柳もついぞお目にかかっていません。懐かしいです」

 スキエルニエビツェはハッとして身を固くした。

「ごめんなさい。もしかして陸の生活を思い出させてしまったかしら」

 彼は一生灯台から離れられない運命である。自ら選んだとはいえ、それは時折辛い選択でもあったはずだ。陸にいれば、春は桜に桃、萌え出ずる若々しい若芽の色や柳が風に流れる様を目を細めて見つめ、夏には蓮を、秋には落葉を楽しみ冬には美しい静寂が広がる雪を見られるはず。しかし彼が一年を通して見るものはいつも変わらず海だけである。そんな彼に、陸への思いを馳せるようなことをさせてしまっては、却って辛いのでは。しかし灯台守は穏やかに笑った。

「貴女は優しい人ですね。いいえ、大丈夫ですよ。こうして歌だけでも聞かせてもらわないと、陸のことを思い出すこともない。幸せです」

「……」

「風が冷たくなってきました。そろそろ中に入りましょうか」

 結局魚は釣れず、その日の二人の食卓は別段豪華なものでもなかった。



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