第三章 指環の女 3

  目にも鮮やかな緑を映じ、自らもまた輝くような風を纏うように、夏はやってきた。

 スキエルニエビツェにとって劉深で迎える最初の夏であったが、かの国で一番美しい季節が秋ならば、また劉深で最も美しく輝くのは夏といってよかった。海はいよいよ本領を発揮するかのように素晴らしい群青に輝き、時折波間を白く光らせてはそれと知らぬ者に宝石の幻想を抱かせる。 砂浜は白く、歩くだけでも気晴らしには最適で、どこからか流れてくる小さな小さな河が砂浜から海へと流れており、その小さな入り江がつくりもののような美しい緑の草と色鮮やかな花とに囲まれて砂浜に流れ出る様は、

人に束の間の夢すら見せる。

 さてそんな夏の日の朝……明らかに自分の部屋以外で夜を明かしたと見られるカストリーズは、欠伸をし両手を上げて伸びをしながら廊下を歩いていた。ちょうどこの日は非番である。廊下の窓から見える眩しい太陽……それを照り返す海の美しさに、カストリーズはしばし立ち止まって見惚れていた。

 ―――――あの人は、この海を見ているのだろうか。

 だとしたら今頃何を? 何を考えどこにいるのか。

 胸が苦しい―――――せめてこうして何かを見て、同じ風景を見ているという同じ時を共有できれば。しかし共有できているかもわからない。なんという辛さなのだ。

「……」

 カストリーズは小さくを息をつくと、海から目を離して歩きだそうとした。こうして悲嘆することに意味はない、愛してしまったものは仕方がないのだ。自分を不幸と思うから辛い、これで当たり前だと思えばよいのだ。逆境を逆境と思わぬ者には運がついてまわるはずだ。

「カストリーズ」

 歩きだして何者かに呼び止められ、カストリーズは立ち止まって振り返った。その声で相手が誰だかはおおよそ見当がついた。

「お前かギュイアン」

 唇をつりあげ、カストリーズはかろうじて笑いととれる表情になった。自嘲しているようにも、相手を馬鹿にしているようにも見える。

 ギュイアンクール・ウラエイコール将軍、射干玉の髪と黄金の瞳を持つ劉深で一番身長の高い将軍、カストリーズと並び若さに負けぬ功績を持つ。カストリーズの数少ない友人であり、理解者でもある。

「また朝帰りか……なにを考えている? 仮にもお前は将軍だぞ」

「承知している。将軍として恥ずかしいことはしていないが」

「カストリーズいい加減にしろ。お前が巷で何と呼ばれているか知っているのか」

「無節操が旗袍を着た女」

「―――カストリーズ!」

「うるさい。非番の日は将軍ではない、非常時でもないのに……何をしようと私の勝手だろう」

「カ……」

 ギュイアンが呼び止める前にカストリーズは欠伸を噛み殺して行ってしまった。ため息をついてそれを見送ったギュイアンは、大きく一つ息をついた。

 何度注意してもこれでは何の意味もない。ギュイアンの秀麗な眉が悩ましげに顰められた。本人は気付いていないが、彼がこうした表情をするだけで、物陰でとろけそうになっている侍女がざっと十人はいるのだ。カストリーズとは寮に入った頃からの付き合いで、お互い知らないことはないほど仲がよかった。現在カストリーズとギュイアンは劉深の双璧とも言われており、二人の功績は若さとは裏腹にずば抜けている。どちらかの名前を聞くだけで敵が震え上がってしまうというのも珍しくなく、難攻不落な場所への遠征はこの二人に優先して割り当てられる。しかしギュイアンについてまわる品行方正、真面目な好青年というイメージとは好対照に、カストリーズの名前を聞いて思わず眉を顰める者も少なくない。あまりにも相手を選ばぬご乱行は、男であれ女であれいい気持ちはしないものだ。

 案の定次の日の軍議で、カストリーズはいいだけ同僚にたたかれた。相手はノトス・ファーアステという将軍で、ギュイアンとは同い年の将軍だ。ノトスの功績もまた他の将軍とは比べものにならないが、カストリーズやギュイアンの比ではない。充分評価されるべきなのに、この二人の影をいつも気にして卑屈な態度を取り続けるので、人望はそこそこといった感じだ。

「陛下、巷でまことしやかに流れている噂をご存じですかな」

「なんのことだね?」

 ものやわらかに尋ねる国王は本当に何のことかわからないらしい。

「将軍たるもの公私共に将軍らしくありたいものです」

 ギュイアンの指がぴくりと動いた。

 ――――― しまった。ノトスはこの場でカストリーズを攻撃するつもりだ。

 ギュイアンとノトスは互いに功績を争う間柄にもかかわらず仲はよい。それにはギュイアンの性格が温厚ということもあるが、ノトスは卑屈なだけの人間ではないということがそこからもうかがえる。

 しかしノトスは、―――――どういう理由かはわからないが―――――カストリーズを相当嫌っている。蛇蝎のごとく嫌うとはこのことかと思うほどにことあるごとに悪態をつく。多分、あんなに節操のない女が自分より功績がいいというのが、誇りの高い彼には認められないのだろう。

「非番とはいえ、見も知らぬ男と安宿に行くような……しかも朝帰りするような将軍はどうにも宮廷の品性をおとすものかと」

 これで国王も誰のことを言っているかわかったらしい、困ったような顔をして一瞬黙った。国王とてカストリーズのことを知らぬわけではない。何か、そのあまりにも目立つ乱行は、まるで救いを求めているかのようだ。一度国王はカストリーズを呼び出して何かあったのか聞こうとしたが、顔を背けて答えようとはしなかった。カストリーズという女は一度嫌だと言ったら海に沈められても決して何も言いたがらないということを国王はよく知っていたから、何にせよ、あまり目立たぬようにしなさい、目立ってしまうと庇うものもそうできなくなるからとよく言い含めて彼女を帰した。それも無駄に終わったということだろうか。

「……どういうことかね」

「ご存じのはずです陛下。憚りながら、誰とでも夜を共にするような人間は誇り高き劉深の将軍として恥ずべき存在だと、私はここで主張します」

 今まで自分が攻撃されているとわかっていて、同僚やギュイアンの心配をよそにどこ吹く風といった態度でそ知らぬふりをしていたカストリーズが、きらりと光る水色の瞳を向けて初めて口を開いた。

 瞳と同じような、凍るような声だった。

「お前の言う品性高い将軍というのは、酒場でくだを巻いて泥酔する将軍のようなことを言うのか?」

 室内は一瞬沈黙に包まれた。誰だ? お互い顔を見合わせて探り合う。ノトスも思わぬ反撃を受けて口をつぐむ。よく見ると赤面しているのがわかる。

「大声を張り上げ女にからみ市民に迷惑をかけるのが品性ある将軍と、そういうわけなのだな。よくわかった今度やってみよう」

 カストリーズはすっと立ち上がった。

「しかしこれだけは言っておく。確かに私はお前の言う通りの人間かもしれん。先程のことに反論するつもりはない。しかし私は自分のやっていることで誰かに迷惑をかけたことはないぞ」

「―――――」

「本当の品性というのはそういうものをいうのではないのか」

 捨て台詞を吐くと、カストリーズは一方的に会議室を出ていってしまった。一瞬後にギュイアンが追い、そして室内は将軍たちのざわめきで引っ繰り返りそうになる。

「静かに! 解散を命ずる。ノトス将軍は後で私のところへ来るように」

 国王も厳しい顔をして声を張り上げる。個々はあんなに功績がよい将軍たちが、どうしてこうも仲が悪いのか……国王の悩みは尽きない。



「カストリーズ! 待てよ」

 中庭に面した回廊でカストリーズに追いついたギュイアンは未だ信じられないといった顔でカストリーズを見た。

「騒々しいな……何だ」

「何だじゃないぞお前……あれ、本当か?」

「さっきの? 私は嘘は言わない」

「じゃあ本当にノトスが……!」

 真面目なギュイアンは思わず立ち止まって考えてしまう。真面目すぎて堅物で、時々融通がきかないのがギュイアンの唯一の欠点といってもよい。カストリーズはフン、と鼻で笑うと何事もなかたかのようにギュイアンをおいて歩きだした。

「カストリーズ」

「うるさいうるさい……将軍殿は蝿のようだと言われたいか」

「は、蝿……」

 口の悪いカストリーズにギュイアンは絶句する。良家の育ちで世の中の汚いものはあまり目に見えていないギュイアンは、時々カストリーズの神経を逆撫でする。お前の思うほど世間とは甘くもないし美しくもないのだ……カストリーズのギュイアンに対する根底にはそんなものがある。確かに、真面目すぎて嫌になるというような側面がギュイアンにはなくもない。幼い頃から人間の醜い部分を見せ付けられて育ったカストリーズには、たまにそれが鼻につくこともあろう。

 カストリーズは先程軍議の席で自分がどれだけたたかれたかということも忘れ、さっぱりした顔で中庭に面した回廊を歩いていた。

 戦のないときはこうして暇をもてあますのが将軍の特権というわけだ。

「こんにちは」

 五月の陽射しの中とろけてしまいそうな柔らかい声がした。カストリーズは一瞬行きかけて、そしてその声が自分に向けられたということに気づいた。振り向いて見てみるとそこにはあの美しい声の楽師がいる。

「お前か……何の用だ」

「別に。お見かけしたものだから」

 邪気のない笑顔にカストリーズは完全に毒気を抜かれた。

 ―――――かわいいな……愛される女というのはこういうものなのか

「それはいいが私とあまり関わり合いにならないほうがいいぞ」

「?」

「私と関わるとどのようなことを言われるかわかったものではない。なにしろ誰とでも寝る女だ。悪い噂しか私にはない」

 自嘲するように口元を歪め、カストリーズは言った。

「やめておけ」

 しかし美声の楽師はめげる事も怯む事も、眉をひそめることもなかった。にこにこと相変わらず無邪気な笑顔で、しかし少しもこちらが苛々しない大人の顔で……こう言った。

「悪い噂をたてられるなんて放浪の身では滅多にないことだもの」

 肩をすくめてさらに言う、

「たまにはいいわ」

 その顔はこう言っていた、誰はともかく自分は、いつかはこの国を出る身体、ならばどれだけ悪い噂をたてられようとも平気、なぜならこの国にずっといるわけではないから。 軽い驚きを顔に宿してカストリーズは一歩進んだ。

「…………お前は確か……私の記憶違いでなければリドルグ伯のところにいた楽師では? その前は―――……」

 言いかけてカストリーズははっと口を噤んだ。友達が少なくともそれくらいの噂は嫌でも耳にしている。確かこの楽師は、一国の王が自らの男をたてるために苦渋の思いで手放したと聞いた。恋仲であったとか。

 そんなことができるものなのか……互いに愛し合っていながらそんなことが? 話では確か、かの国の王はこの冬病死したとか。

「―――」

 しかしスキエルニエビツェは笑っていた。一点の曇りもない笑顔だった。カストリーズはこの笑顔に惹かれるものを感じた。何か?

 それはわからない。時は無限にあるのだから……。

「……お前今時間はあるのか」

「ええ。たっぷりと」

「それでは私の部屋へこい。一曲歌うかわりにもてなしてやる」

 くすくす笑いを抑えながらスキエルニエビツェはついていった。

こんな風に偉そうに言う人間は初めてだろう。しかし相手がカストリーズである場合、少しも嫌ではないのは何故なのか。

「お前名前は……えーとスキ、スキエ、ル」

「スキエルニエビツェ……ですけど……言いにくければイオシスで」

 カストリーズの相好がふっと崩れる。この女にもこんな表情が在ったのかとどきりとする。

「『紫紅色』……何故?」

「脂燭色 (表紫・裏紅) の襲が一番似合うからというのが理由……かな」

「ふ……ん……」

 大して興味もないように呟き、カストリーズは歩きだした。この女がこれだけ人に心を開くとは驚いたことだが、当のスキエルニエビツェは一向に気付いていない。

 この日を境にカストリーズとスキエルニエビツェは急速に親しくなっていった。歌を歌うわけでもなく、スキエルニエビツェは時間が余るとカストリーズと話をしにいく。時に庭、時に互いの部屋で、まるで相手が空気のようにくつろげる時間を共有するのだ。そしてその内、スキエルニエビツェは、カストリーズという女がどういう人間か、その片鱗がわかってきたような気がする。殊に話題が彼女のしている指環に集まった時、カストリーズは寮生時代から秘密を共にしてきたギュイアンも踏み込めなかった領域へスキエルニエビツェを自ら招き入れた。それは恐らく、ギュイアンという男は永遠に「男」であるのと同時に、あくまで良家育ちで、人間の醜い部分を知らないまま成長した彼は、人の内面の闇を理解できないことが多いからではないだろうか。カストリーズはそれを誰より知っているが故に、これ以上彼との溝を深めないためにも敢えて口を閉ざしているのだ。

「私が何故多くの男と肌を重ねるのか知りたかろう……」

 指環を見ながら目を細め、カストリーズはどこにいるかもわからぬ想い人のことを考えているのか、息を吸ってその瞳を閉じた。瞼にはまざまざとその姿が映っているに違いない。

「……私はこの指環に誓った。想いをかけた男への愛を。ならば操を貫けばいいのになぜそうしないか―――――言葉では言い表わしにくいが」

 カストリーズは窓の外に目を馳せながら小さく言った。

「―――――あの人のことを想う度に胸が痛くなり、切なくなり、どうにもできなくなる。そして思う……多分もう二度と会えないだろう、そして会えたとして、こんな自分が愛されるはずがない……だったらやめればいいのに、愛することをやめられないのだ。そんな愚かしい自分を抑えるためと、行き場のない怒りを鎮めるためだ、誰とでも寝るようになったのは…………」

「……」

 スキエルニエビツェは無言だったが、恐らく女でしか理解できないカストリーズの深い領域を知って、痛々しいまでに彼女を大切に思った。

 カストリーズは行き場のない怒りと言ったが、それは違う。やり場のない愛なのだ。自分一人では消化できなくなって、それでも大切にしておきたいほど相手を愛する。かなわぬ想いに自棄になって他の男と夜を共にするほど、そしてそれでも尚燃えるような気持ちで相手を愛する。

 ―――――なんて純粋な人なんだろう、スキエルニエビツェは素直に思った。多分今までここまで激しく人を愛し、ここまで純粋を通せる人間はいなかっただろうし、恐らくこれからもいないだろう。その透き通った美しい心はまるで夏の空を飛ぶ鳥のよう。ただ、ただ無心に。

 スキエルニエビツェは彼女の視線を追ってそこから見える初夏の海を見た。刷毛ではいたような真っ青な海が広がっていたが、カストリーズに言わせるともっと暑くなれば比例して青くなっていくのだという。

 スキエルニエビツェは劉深に来て初めて、何かを待つ楽しさを得た気がした。



「スキエルニエビツェ、済まないが出張に行ってほしい」

 開口一番、国王は穏やかな口調で言った。

 劉深は今、カストリーズが一番海の美しいと言った、スキエルニエビツェが一番心待ちにしていた、待ちに待った夏が到来している。太陽の光眩しく、きらきらと海が光る季節だ。

「は……? 出張……」

「わが国に世界で唯一の灯台があるということは知っておろう」

「存じております」

「灯台守はそこでたった一人で劉深の海を守っておる。並の精神力ではできぬ仕事だ。陸から週に一度船をやって食料と水と情報を送っている。そのくらいの頻度でなくては気が狂ってしまうからな。で、頼みというのは……」

「灯台守殿のお心を慰める、ですわね」

「そうだ。船が行くたびあちらの希望の本などを頼まれて持っていくのだが、どうもそれだけでは彼の日頃の功労に対して報いてやっていないような気がしてな。

 灯台守というのは人が思っているよりずっと苛酷な仕事だ。行ったが最後、代わりがいない限り陸に戻ることはできない。いつも孤独で、責任が大きくて、生涯海とも陸ともわからない場所に縛りつけてしまう

「私は彼を灯台に縛りつけてしまったような気がしてならぬのだ……」

 国王の言葉が耳に残ったまま、スキエルニエビツェは灯台へ向かう連絡船へ乗った。

 真っ青な海の上に塔のように聳える灯台は遠目にも白く輝き、見る者の目を否応なく細めさせる。

 ザザ……

 ザザザ……

 穏やかな波に揺られながら、スキエルニエビツェは舳先に座ってじっと灯台を見つめていた。陸にいる頃には、大して遠いとは思っていなかったのだが、こうしていざ向かってみるとやはり近くはない。二時間ほど穏やかにゆっくりと揺れつつ、スキエルニエビツェを乗せた船は灯台を目指した。


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