第三章 指環の女 2

「私はこれからかの国へ向かう。一ヵ月も前のことだがとにかく行かなくては」

 リドルグ伯はそう言うと国王に一礼した。既に旅姿である。このまま直に旅に出るつもりなのだろう。足早に立ち去るリドルグ伯を頭を下げて見送り、スキエルニエビツェは一呼吸おいて静かに言った。か細い声だった。

「陛下…………本日は部屋で休ませて頂きたく……ご許可を願います」

「―――――……いいだろう……ゆっくりと休むがよい」

 国王は沈痛の面持ちで言った。リドルグ伯のようにかの国と直接の関わりはないが、音に聞こえし名君だったという。

 スキエルニエビツェはうつむいたまま玉座の間を出ると、そのまま部屋へと向かった。

 そんな彼女の態度を不敬だと咎める将軍もいたが、国王は手を振って彼らを黙らせた。

「我々には想像もつかないほど深い絆で結ばれていたのだ」

 重い一言だ。

 玉座の間はきまずい沈黙とわずかな咳払いに包まれた。もう誰も、彼女を不敬と咎める者はいなかった。

 国王は深くうなづくと、そのまま書斎に向かうためにすっと立ち上がり、その日は一度も部屋の外へは出なかった。



「……」

 スキエルニエビツェは廊下の窓から放心したよう空を見上げた。

 ―――――なんと美しい空か……吸い込まれそうな美しさ。

 城内の人間が自分を見て目をそらす理由がわかった。かの国から来た者、かの国からここへと移って来た者、いったいつい今まで滞在していた国の主人が死んでしまって、どういう思いなのだろう? 気の毒に。

 スキエルニエビツェは未だ信じられない思いで部屋へと帰った。そして箪笥から服喪用の黒重ねの襲を取り出したが、そこで硬直した。

 ―――――こんな襲を来てあの方は喜ぶだろうか。

 きり、唇を噛むと、今が春であることに彼女は感謝した。白躑躅(表白・裏紫)を取り出し、簪と笄で髪を上げ直し、スキエルニエビツェはベランダに出た。

 ホロ……ン……



       牆角 数枝の梅

       寒を凌ぎて独自に咲く

       遥かに知る 是れ雪ならざるを

       晴香の有りて来たるが為なり


 風が吹いて歌声を乗せて消えていった。届いただろうか、あの国に、あの方の眠る場所まで。

「―――――」

 僅かに眉を寄せ、スキエルニエビツェは風に髪を揺らめかすままに海を睨んでいた。明るい光が彼女を照らし、風が前髪を踊らせる。

 運命に身を任せここまでやってきたスキエルニエビツェであったが―――――……

春まだ遠い三月、どこからか流れてきた突然の訃報に、彼女は立ち尽くすしかなかった。

 カストリーズ将軍は、滅法強いらしい。戦場でどんな窮地に立たされても、決して弱音を吐くこともなければ弱気になることもない。

 いつも自分が勝つ、こんな所では死なぬと血まみれになって死に物狂いで窮地を脱する。 そして必ず勝利する。まだまだ女性で軍人の少ない時代であるから、彼女が戦場に立つと嫌でも目立ったし、将軍だけに首を狙われることは何度となくあったが、自分の身長の二倍以上の戦士を相手にして、見守っている側近の者が少々ひやひやする場面がありはしても、最後に立っているのはカストリーズ将軍だった。劉深の将軍連中では最年少の二十五歳で、そして最強の中に数えられる将軍の一人だった。滅多に感情を表に出さず、笑っているところを見た者は誰もいない。敵にはまるで鬼かと思うような手厳しさと冷酷さで対処し、容赦しない。

 しかし味方の兵士には慕われている。なんといってもどんな低級の兵卒であれ殺されかけたり危なかったりすると助けてくれるし、とことん面倒見がいい。まったく身寄りのない若い兵士がある日ひどい熱病にかかり、医者にかかる金がなかったのを負担してやり、おまけに彼が意識を取り戻すまでの三日間、一睡もせずに側にいたという話は有名だ。ほとんど捨て駒同然といってもいいほど低級な、しかも面識もなく初めて話す兵士に、ただならぬ金を負担するのは別として、ずっと病床についていてくれる将軍など他にはいない。

 のちにその兵士が医者にかかった時の金を少しずつ返しに来ていたが、その度にいらぬといって追い帰したそうだ。無愛想で口を開くことも滅多にないが、そんな理由でカストリーズ将軍は部下には大層好かれていた。

 だからこそ、少々所行が良くなくても、それは将軍の私生活だからと言われるのにとどまっていたのだった。それは上層部も同じで、あんな将軍は国の品位を落としめると陰で思ってはいても、決して口に出さないのは彼女の戦での功績が良すぎるから、彼女を失っては国の損害になることをよくわかっているからである。

 カストリーズは、誰とでも寝ることでは有名だった。本当に誰とでもよいのだ。それは色恋などという甘いものではなく、単に動物的な欲求が働いたからという理由からにすぎない。寝られれば誰とでもいいのだ、誰もがそう思っているし、実際彼女もそう思っている。

 桔四年四月、やっと風が暖かくなってきたある日、カストリーズ将軍は将軍たちの中で一番遅く帰国した。戦には見事勝ち、その報告をしに玉座の間へと行き国王の労いの言葉と褒美を賜った後宮殿内の自分の部屋へと帰るため廊下を歩いているところだった。

「…………」

 向こうから、知らない女が歩いてくる。カストリーズは女だが軍人だし女の格好をするのは好きではないので旗袍を着る。しかし襲の色目に対する知識は当然持っているので遠目でもその女が目にも鮮やかな牡丹(表淡蘇芳・裏白)の襲を纏っているのがわかる。

 髪は長く床を這う襲の裾の上に垂れている。大理石か白磁のように白い肌と、紅でもさしたのか美しい唇。瞳は髪同様黒く輝いていたが、見たことのない女だった。すれ違いざま向こうは立ち止まり丁寧に膝を折って頭を下げ挨拶をしたが、カストリーズは構わなかった。彼女が去った後、その姿が消えるまで振り返って見ていたが、

「……ふん……」

 と呟いただけだった。カストリーズはそれ以来、その女のことなどすっかり忘れてしまっていた。


 カストリーズ・イゾンツォ。彼女の幼少からの環境は劣悪といってもよいほどの悲惨なものであった。

 彼女は元は中級貴族の生まれである。劉深ではそこそこ知られた家でもあった。伯爵の父と母と、えらく歳の離れた兄、そして彼女。

 兄は、何でもできる人間だった。明晰な頭脳、どんな運動もこなす体力と運動神経、ずば抜けて素晴らしい徳。伯爵家を担って余る者と誰もが期待を寄せた。父も母も、初めての子供が人並み以上に優れていたため、自分の子供はこれで当たり前と信じて疑わなかった。兄を評価しなかったのではない、彼は両親に非常に大切にされてきた。両親は他の家の子供よりも自分の子供が不思議すぎるほど優れているのを知っていたし、それを誇りにも思っていた。自分たちの子供は、そうして無条件に優れていると本気で思っていた。

 そしてカストリーズが生まれた。兄より十三歳も離れて生まれた伯爵家の娘だった。

 カストリーズは、決してできない子供であったわけではない。むしろ勉強も運動もわかりやすく五段階で言うなら四や五の子供だった。しかし彼女の不運は、五段階で七や八の評価を受ける兄を持つことだった。

 カストリーズ、どうしてお前はそうなのだ、兄さんはあんなにできるのに。

 カストリーズ、なぜそんなに平凡なの、お兄さまをご覧なさいあんなに人徳があって。

 あんなに積極的で明るいお兄さまに比べて、どうして宴の席で笑わないの? お前の兄はもっと優秀だぞ。

 兄は お兄様は あんなによくできるのに あんなに素晴らしい人間なのに あれほどできて初めて私たちの子供といえるのに なんて粗末なのだろうお前という子は

 兄はこんなにできるのに―――兄の足元にも及ばないお前は―――愛される資格はない!

 カストリーズの救われた点といえば……これだけ終始兄と比較されて育ってきたのにも関わらず、少しも人の目を気にしたり卑屈になったりせずに育ったことだろう。彼女は物心つく頃からきちんと確立した「自己」を持っていた。だから、どんなに兄と比べられても、どんなに兄と比べられて貶められても、結局違う人間どうしなのだから同じであるはずがない、同じであろうと思ってもいけないということを本能に近いもので知っていた。 兄に劣等感を抱くこともなかったし、いつも光を当てられる兄を憎んだりしたこともなかった。自分は自分で、兄は兄。同じものを比べるのは当たり前のことだが、違うものを比べるのはおかしい、間違っていることだと、間違っていることを臆面もなくしている両親を密かに軽蔑していた。だから当然のこと、カストリーズは兄のようになろうという努力をしなかった。する必要もない。そんなカストリーズはやはり両親には受け入れられなかった。あの兄の妹なのだから、努力すれば兄のようになれるのに、その努力すらしない。 いったい同じ兄妹でどうしてこうも違うのだ。早く諦めればいいものの、彼女の両親は最後までカストリーズを兄のようにすることを諦めなかった。

 カストリーズはカストリーズという個人ではなく、「兄その二」だったのだ。そして兄のようにならないカストリーズを両親は軽んじ、憎みさえした。

 また、彼女の生来の男勝りの性格も大いに災いした。

 男子を持った以上は、母はまた別に女の子を持つことを熱望していた。

 絹を贅沢にあしらった襲をいかに着せてやろう、こんな紋様やあんなあしらいをしてみたい。女の子なら髪をいじるのも楽しかろう。わたしのお気に入りの簪をあげてもいい、ああ、祖母の形見の簪を二人で挿して、観劇にでも行ける日が来るだろうか。

 ところが成長するにつれ、カストリーズは襲どころか唐衣も暴れて嫌がり、女だてらに剣の稽古を好み、馬に跨って野山を駆け、旗胞を来て走り回る猿のようなお転婆娘だった。母はなによりも誰よりも嘆いた。退屈な生活の中、自分の思い通りになるお人形が手に入ると思っていたのだ。しかしお人形は女の子のお人形ではなく、壊れた絡繰りの猿であった。母の落胆は見る見る憎悪に変わった。自分の思い通りのお人形にならないのなら、娘である意味すらない。いてもいなくてもいいなら、いて苛々させられる分、いないほうがよろしい。

 カストリーズは、物心ついて向こう意識的にも無意識的にも愛されていると感じたことはなかった。無償の愛を与えてくれるはずの存在は、「兄のように」なることを前提として愛を与えようとした。だからカストリーズは、自分は愛されていない人間とよく自覚できた。彼女が他の人間と違うところはここからである。カストリーズはあんな人間に愛されたところで嬉しくないと思える強い人間だった。人としてしてはいけないことをする人間など所詮大したことはない。

 大したことのない人間に愛されても仕方がないし、また愛されないからといって悪いのは自分ではない、向こうなのだ。しかしそんなカストリーズも愛されるということに憧れることはあった。生まれてきた意味がなくなるような気がするのだ。

 両親から愛されていると思えたことは到頭一度もなかった。代わりに兄が彼女を愛した。 だから彼女は曲がらずに今まで生きてこられたのだ。

 両親はまた、他人の前で身内を辱めることもよしとした。兄より劣っていると見做されていたカストリーズは、所詮他人の前で身内を罵り卑下するというなにより醜悪な態度をとっても構わないほどどうでもいい存在とされていた。

 カストリーズにとって決定的な事は彼女が十五の時に起こった。

 彼女は十三歳で軍隊に入隊していた。両親を愛していないのだから、なんの迷いも生まれなかった。だがカストリーズの両親は、彼女を愛しもせず何の期待もせずに扱ってきた割には、見返りを要求する人間だった。つまり伯爵家の娘なのだから、良家の子女らしくそれなりの家の息子と結婚したりとか、そういうことを期待して押しつけてきた。母はお人形を諦めはしたかもしれないが、自分の自尊心を満たす道具として娘を諦めていなかった。軍隊などに入ってしまっては、他人に言えない、どこどこの家に嫁いだと自慢できないということは、鼻高々な思いができないということなのだ。それをカストリーズのせいにするのである。彼女が自分なりに選んだ彼女の生きたい道よりも、自分たちの名誉欲の方が大切なのだろう。兄よりも劣っているのなら、せめてとびきりの良家に嫁いで他人に自慢できるくらいのことができなければ意味がない。結局兄のようでなければ何も認められないのだった。娘が軍隊に入っているとは恥ずかしくて口が裂けても言えないというのである。

 そしてそんな恥ずかしいことをしている娘に、ある日両親から手紙がきた。兄が公用で国外に行くため、今度大切な客をもてなすための宴に出ろというのである。来賓が来るというのに、身内の者がいないというのは面汚しになると。そしてカストリーズはその宴の日、王城の不寝番だった。それを説明しても、両親は納得しなかった。不寝番が何だ、お前がする程度のものだから大したことはないのに、そうやってその程度のもののために親の申し出を断るとは何事だ。完璧に矛盾しているということを両親のどちらも気付いていなかった。不寝番ごとき――― 不寝番ごときと言われたのである。カストリーズは激怒した。王城の不寝番ほど軍隊で重んじられているものはない。劉深は陸と海の両方に面し、特に海からの密かな侵入者が城に入り込むことも珍しくない。しかし今まで王城に入り込んだ侵入者が何かを盗んだり人を殺めたり、国王夫妻に危害を与え、ひいては劉深にとってわずかでも困った事態を引き起こしたという記録はない。不寝番が必ずそれらを排除してきたからである。だからこそ軍隊では不寝番は何より大切な役割であるのと同時に不寝番を任せられるまでになるという誇りがある。カストリーズがそれをどれだけ蕩々と説明しても、両親はわかってくれなかった。

 そしてようやく嫌々ながらに出席した宴で、カストリーズは来賓にこう紹介された。

 ―――兄と比べて本当に何の価値もないような娘でして

 カストリーズは我が耳を疑った。

 それは、自分が貶められたということに対してではない。そんなのは慣れている。そうではなく、相手は大切な来賓である。思った通り来賓も驚きを隠せないようでいる。他人の前で身内を貶めるということは、それ以上に自分の品性を落としめているということをわかっていないのだろうか? そしてカストリーズはこの宴に進んで参加したわけではない。嫌々ながら、大切な仕事を代わってもらって、同僚に死ぬほどの迷惑をかけてここにいる。ここまで言うのなら、つまりは彼女に何の期待もしていないのなら、こんな大切な仕事は頼まなければいいのだ。しかも無理矢理だ。大きな負債を抱えてその場にいたカストリーズは、負債を抱えた意味すらなくなって損だけしてしまったのだ。あまりの怒りに彼女は途中で宴を抜け出した。寮にはすぐに帰るわけにはいかなかった。仕事をかわってもらったのに、こんなに早く帰ったのではまた顰蹙をかってしまう。結局さぼりたいだけだったのだと言われるのがおちであろう。軍隊にいる以上、必要のない不信感は互いに慎まなければならない。人の評判など気にしないカストリーズだったが、信用されなくなるのは軍隊では非常に痛いことだった。

 海から吹いて来る風に前髪を揺らして、カストリーズは砂浜に立ち尽くした。

 何ゆえ愛されぬ? 自らに責任があるのか。

 その日の海から吹いてくる風の心地よさを、カストリーズはなぜか、今もはっきりと覚えている。

 そして運命の日はある夜突然来た―――――。

 夜中寮で寝ていたカストリーズは同僚の扉を叩く音で目を覚ました。起こしにきたのは男の同僚であった。息せききって彼はカストリーズの家族が殺されたことを伝えた。

 強盗団に入られ、一切の金銭や宝物などを盗まれ、一家全員、侍女や警備の者たちも惨殺されていた。カストリーズも見にいったが、監察した医者が気分を悪くするほどひどい殺されようであった。

 ―――――兄上……ひどい死に方

 カストリーズは兄の死体を見下ろして目を細めた。両親はともかく、あなたがどうしてこんな死に方をしなければならないのか。あなたは生き残るべきだった、あの二人はどんな死に方をしても。

 両親の死体には目もくれず、カストリーズは寮に帰ってするべきことをした。葬式の手配、国王への報告、忌引き願いの提出、実に淡々と手配し、葬式も淡々とこなした。爵位は本来彼女が継ぐべきものだったが、あの親からは何も受け継ぎたくない、受け継ぐはこの身一つで充分と思って国王に爵位を返還した。

 そしてカストリーズは天涯孤独の身となった―――――両親が死んでも悲しくも何ともなかったが、胸には大きな穴が空いた。

 到頭愛してもらえなかった―――そんな自分は一体何?

 あの日から何年も経ってカストリーズは将軍となったが、その疑問は未だ晴れずに残されている。

 そしてカストリーズの心の穴は、あの時以来少しも変わってはいない。



 ―――――あの人は、一体何をしているのだろうか? 何を考えて今どこにいるのだろうか。どこか外にいて、もしかして同じようにこの夕焼けを見ているのだろうか? それとも屋内にいて何かしているのだろうか。彼のもとへ行きたい。心が狂いそうだ。恋しくて恋しくて息が苦しい。鉛を呑んだようなこの胸の重みはなんだ?

 あああの人に会いたい。たった一目会うだけでいいのに、今どこにいるのか、何をしているのか、それすらもわからない。彼の考えていることすらわからない。なんと惨めな恋か……それでもよい、彼に出会わないよりは。彼を知らないままよりも、彼を知って恋をし、地獄のような苦しみを味わっている方がましというものだ。

 一体今どこにいて―――…………

 何をしているのか――――― 。

 しかし想いはそこで打ち破られた。部屋の扉を誰かがノックしたからだ。

「―――入れ」

 低く言うと、紅梅匂(表紅梅・裏淡紅梅)の襲に侍女の印を肩につけた女が入ってきて一礼した。

「カストリーズ閣下、国王陛下が本日の夕刻の宴は是非参加するようにとのお達しでございます」

 カストリーズはしばらく黙っていたが、夕焼けから目を離すと振り向いて低い声で言った。

「わかった」



 宴は盛会だった。先の戦で敗けた将軍は一人もなく、その上妃は長い病床からやっと立ち直り、実に半年ぶりに玉座の間に姿を現わした。劉深は海と陸との両方に面していて戦が多く、戦争の強さにおいては世界でも名立たるものだったが、今まで一度の敗けもなく戦の季節を終わらせたというのは初めてのことだった。

 加えて劉深には今、音に聞こえし楽師が滞在している。人は普通死んだ後に伝説になるものだが、この楽師は生きながら既に伝説になるほど美しい声をしているのだそうだ。


    雨は歌む 東渡の頭

       永和三日 軽舟を盪かす

       故人の家は 桃花の岸に在り

       直ちに到らん 門前 渓水の流れに



 カストリーズはどこからか聞こえてくる妙なる声を聞きながら一人で壁に寄り掛かって杯を傾けていた。彼女は今、正装用の上等の絹で作った紺色の旗袍を身につけている。一見地味だが腰にからまる黒い髪と、なにより秋の日の美しい空のような水色の瞳、海風にさらされ陽射しに照らされて、灼けてもいいはずなのにそんなものを少しも感じさせない肌が、地味な色を着ることで却って派手に際立っている。カストリーズの肌は、本当に白い。透けるようにという表現がよく使われるが、うっすらと血管が青いのが見えたり、本当に透けている。

 何よりカストリーズという女を女たらしめ、彼女だけが持つ個性を最高に生かしているのが、旗袍という服装である。

 旗袍は男の着るものである。もっと言えば「主として」男が着るものである。ということは女が着た場合、男との違いが如実に外に出る。胸の膨らみ、腰のくびれ、下半身にかけてのまるみ。それに加えて脚の長短まで露呈する。おまけに旗袍は脚のどちらかの部分に歩きやすいように必ず切れ目がかなり長めに入っており、それは着る者の好みや用途によって調整するが、カストリーズの場合は腿の部分まで見え、なまめかしく妖しく動く白い脚に、唾を飲み込まない男はいないだろう。逆に言えば彼女には襲という女を前面に出して着る服は似合わない、襲を着ても美しくないことはないが、彼女の個性が長い裾と華やかすぎる色に殺されてしまうに違いない。

「…………」

 それでいてカストリーズは容易に男を近付けない。壁に寄り掛かり、無表情にというよりは、冷たい表情で黙々と酒を飲んでいる。

 自分は出たくて宴に出たわけではない、国王が出ろと言ったからここにいるのだと言いたげでもあった。

 何を考えているのかさっぱりわからないその瞳は、確実に今を見てはおらず、どこか遠くに向けられていた。それでいて心はしっかりとこの場所にあるのだ。


       紗窓 日落して 漸く黄昏

       金屋 人無く 涙痕を見る

       寂寞たる空庭 春晩れんと欲す

       梨花 地に満ち 門を開かず



 ウツクシイ声―――カストリーズは放心しながら、頭のどこかでそう思った。

 そしてその美しい声が、彼女を今いる場所へ引き戻した。見れば楽師は国王にほど近い所に陣取っている。人が集まってきて、人込みも人もあまり好きではないカストリーズはそっと庭へ移った。春の暖かい風がそっと頬を撫で、なにやらほのかに良い香りを運んでくる。

 もう春か……しかしこの国の春は短い。夏はじきにに来る。

 ―――――あの人と出会ったのも夏だった。

 池に歩み寄り、水面に姿を映したカストリーズの顔が一瞬、わからないほどわずかに曇った。空に目を馳せ想いを馳せる。知らず洩れるため息。

 庭に涼みに出たスキエルニエビツェは、そんなカストリーズの姿を見た。

「…………」

 ―――――なんて深い瞳……

 かさり。草を踏む微かな音でカストリーズは初めてそこに誰かいるのに気付いた。

「誰だ」

 鋭く誰何する。答えるより先に、そこには闇を切り取ったかのような黒い髪を従わせリュートをもった楽師が立っている。カストリーズは不愉快げに目を細めた。

「そこで何をしている」

「何も……暑くなったので涼みに」

 ちっ、と舌打ちして、カストリーズはスキエルニエビツェに背を向けた。池を見、池に映る春の星空を見ていたのだ。何も構うことなどない。眠たげに水面を漂う蓮の葉が、ゆらゆらと星空に水紋を描く。そんな池を放心して見つめているカストリーズの横に、スキエルニエビツェはスッと立った。カストリーズはちらりとそんなスキエルニエビツェを見たが、何も言わなかった。

「きれいな星……七星もあんなによく見えて」

 スキエルニエビツェは微笑みながら言った。カストリーズもつられて見る。

「……」

 春とはいえ夜はまだ寒い。見上げた紺青の空に自分の吐く白い息が重なる。見ると、隣の楽師も白い息を吐いて空を一心に見上げている。カストリーズはこの時初めてスキエルニエビツェに興味を持った。

「……お前は旅を続けているそうだな」

 スキエルニエビツェは視線を戻してカストリーズを見据え、静かに言った。

「ええ」

 しかし今は違う。どんな言い方もできるが囚われの身であることには変わりない。そしてスキエルニエビツェはそれをよくわかっている。わかっていて敢えてこう答えた。

「―――――」

 カストリーズも彼女がこう答えて初めて思い出した、リドルグ伯がかの国より連れてきた楽師は彼女であったと。自分は戦に行っていてよくは知らないが、なんでもかの国は洪水で一時食糧危機に陥り、それを救ったのがリドルグ伯であるという。彼らしい。伯は無償のつもりだったようだが、国王がそれを認めなかった。自分から伯にこの楽師を差し出したのだとか。ならば旅を続けているとはとても言えまい。

「…………」

 カストリーズはスキエルニエビツェから目をそらした。

 腕を組み、ただ空に目を馳せる。空を見ていると心が安らぐのは、こんなに素晴らしい星空ならば、あの人もきっと見上げているに違いないと思うからだろうか。そしてスキエルニエビツェは、カストリーズの組んだ腕の左手の薬指に細工ものの指環を見つけた。

 黒い鼈甲でできた指環で、細すぎず太すぎず、艶々としているところを見ると、上質のもののようだ。中央に金で細工が施されており、右に六角星、左に三日月が金箔で形づくられている。

「素敵な指環」

 スキエルニエビツェは思わず言った。カストリーズもその言葉と視線で何を指すのかわかったらしい、視線を戻して小さく言った。

「…………これか……」

 伏し目がちになり、カストリーズは押し黙った。長い長い沈黙だった。

「…………」

 なんだろう、この楽師は心を許せる気がする。いつの日か旅立つからか? 違う。話すのはこれが初めてなのに、どうしてこの指環のことを言う気になっているのだろう。

「―――――」

 カストリーズは瞳を閉じて指環にそっと触れた。

「―――――この指環は、ある男に誓った私の心の証だ」

 組んでいた腕を解き、カストリーズは空を見上げた。七つの星がそれぞれの色に輝いている。今どうしているのか……。もしかして同じように七色の星を見ているのだろうか? ならばどんなに幸せか。同じ時を共有しているのだから。

「……もらったの?」

「いや―――――違う。彼と私は口もきいたことがない。向こうはもしかして私の存在すら知らぬかもしれぬ。一瞬―――――……たった一瞬で私は彼を愛した」

「素敵。一目惚れね」

 ふふ、と自嘲気味に笑い、カストリーズは瞳を閉じた。あの日の光景がまざまざと浮かび上がる。忘れられない瞼の裏の光景。

「そして私は彼に心を捧げる誓いをたてた。それを忘れぬための、この指環は誓いの証だ。 この指環を見るたびに彼を思い出すことができる。距離が離れ、もう二度と会えないかもしれなくても、この指環があれば距離のせいにして彼を忘れることはできない。この指環は私の心の枷なのだ……」

「…………」

 カストリーズ将軍の評判はスキエルニエビツェも耳にしている。

 本能が求めるままに誰とでも寝るのだとか。それが確かだとしたら今の言葉は到底信じがたい。

 そんな思いは多分顔にも出ていたのだろう、カストリーズはスキエルニエビツェを見てふふ、とまた笑った。

「誰とでも寝ると評判の女の言葉とは思えぬだろう。私もそう思う」

「―――」

「しかしそれでよい……私にはそれが似合うのだ」

 瞬く星々を見上げ呟くと、カストリーズは城の中へと戻っていった。

 スキエルニエビツェはその後ろ姿をじっと見つめていたが、やがて一人になり満天の星空を見上げると、その凄まじいまでの壮大さに自分の小ささを痛感した。

 ポロ……ン



       千里 鶯啼いて 緑 紅に映ず

       水村 山郭 酒旗の風

       南朝 四百八十寺

       多少の楼台 煙雨の中



 玲瓏な歌声はそんなものにも動じる様子のない星空に吸い込まれていった。どれだけ人の声が美しかろうが、森羅万象のものには何の関係もないかのようにすら見えた。

 スキエルニエビツェは満足そうに微笑むと、自分もまた城の中へと入っていった。


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