第三章 指環の女 1

 劉深は海に面した国で、高台にあり街のどこからでも真っ青な海を望むことができる。住む人々の性格は天真爛漫で開放的、陽気で人なつこい人ばかりというのが、劉深を訪れた旅人の平均的な意見である。世界で唯一灯台を所有する国でもあり、それは近海に暗礁や海面のすぐ下に船を待ち構えるいかつい岩などが点在していて、非常に危険であるという理由から、灯台に住む灯台守りがたった一人でそれらを管理している。

 聞くところによると劉深の国王は大変人柄がよく、性格は寛大で穏やか、戦の時には先頭をきって敵と勇猛果敢に戦い、また話のわかる主君として配下の騎士や近衛兵、雑兵にすら親しまれているという。良さそうな国だ、スキエルニエビツェはそれを聞いてまず思った。国の性格というものは統治者を反映する。桔三年十一月半ば、劉深に来てようやく一ヵ月が経とうとしている。   表に出ると潮の香りがするのも、さわ、と吹く風がなんとなく塩辛いのも、陽射しが強い割に暑いわけでもないという環境にも慣れてきた。現在スキエルニエビツェはリドルグ伯の屋敷に寝泊りしている。伯の要望に応じて歌を歌い、また夫人の願いを聞いてリュートを奏でる。

「あなたにそんなつもりは毛頭ないのはよくわかっているが……」

 劉深に向かう途中、リドルグ伯は静かに口を開いた。

「しかしやはり言っておきたい。あなたは楽師として訪れ、慰み者になるのでも私の王宮に対する贈り物としてやってきたのでもないと。あなたは私の屋敷に留まり、そこで歌を歌ってくれればいいのだから」

 スキエルニエビツェは自分の運命に感謝した。こんなことを言ってくれる男はそうはいない。虜囚ではないだけ、運命の運びに感謝せねば。

 しばらくは平穏で平凡な日々が続いた。国外へ出掛けることの多いリドルグ伯が帰ってきたら、夫を労う夫人とリドルグ伯のために歌を歌い、また日中は夫人の話相手となり、時に乞われて歌を歌う。

 することがなければ与えられた部屋で本を読み、景観見事な庭に出ては心の赴くままリュートを弾く。外出は自由で、何も縛られているという観念はなかった。海辺は時に気の荒い男たちもいるというので、護衛をつけてくれるという丁寧さである。砂浜にも出た。

 冬だったので人気はなく、寂しげな感じと冷たい風、かなたにきらりと光る白い灯台だけを覚えている。

 冬の海は厳しい。白い波が岩に当たって砕け、黒い高波は大きくうねって恐ろしいほどの猛威を振るう。今まで海を見た経験は二度あったスキエルニエビツェであったが、これほど海らしい海を見たのは初めてであった。

 年が開けて人日を過ぎた頃、リドルグ伯がいつものように静かな調子で言った。

「劉深にはもう慣れたかね」

「はい。おかげさまで……」

「ふむ。ところで提案があるのだが……」

「?」

「妻とも相談したのだが、君はいまいち我が家ではその本領を発揮できないのではないかと思ってね」

「いえ、そんなことは……」

 伯は手を振って朗らかに笑った。

「いや、君に不満というのではない。むしろ、不満は君の方にあるのではないかと思ってね。私は外出が多いし妻も君の歌だけを聞いていられるほど優雅な生活はしていない。ここは思い切って国王陛下にお話しし、君を城に挙げようと思うのだが、どうかね」

「リドルグ伯……」

「そうすれば陛下も妃殿下も喜ばれようし、互いにいいことだと思う。いかがかな、スキエルニエビツェ。城に行く気はないかな?」

 自由を装ってはいても自分は己れの意志でこの国を出ることはできない―――――。

 スキエルニエビツェは痛感していた。ならば、もうこの男の言う通りでいいのでは。風に身を任せるように、運命に身を任せよう。

「―――――そうまでおっしゃって頂けるのなら…………」

「そうか。それでは明日にでも城へ行こう。陛下も君の噂は耳にされていて、その喉を披露してくれることを待ち望んでおられる」

 スキエルニエビツェは頭を下げた。

「スキエルニエビツェ。これだけははっきりと言っておこう。君は確かに私の所にいて、自分の意志でこの国を出ることはできないが、だからといって私は自分の立身のために君を陛下に差し上げるだとか、ましてやこの国の捕虜だと考えるのは違う。そういう邪な考えで君を城にやるのではないのだ。わかってほしい」

「主人がそこまで頭がよければ、もう少しうまいこと人生を歩んでいてよ」

 笑いながら夫人が言う。その通りなのだ。この二人は、楽師である自分がいかに楽師としての本領を発揮できるかに心を砕き、こうしてわざわざ言ってくれている。

 そんなことをしなくても、伯は国一の資産を持つ大貴族で、王室とほぼ同じくらいの伝統と財産を持っている。にも関わらず、少しも気取ったところがなく、常に紳士で謙虚なので、国王は彼を無二の友とまで公言するほどである。純粋にスキエルニエビツェを気遣ってくれているのだ。楽師はつくづく我が身の幸運を身に染みて実感した。

 明くる日、スキエルニエビツェはリドルグ伯に連れられて王宮へ入った。国王は、これが一国の君主なのか? 思わず疑ってしまうほど人あたりがよく、今まで無数の国の国王と接してきたスキエルニエビツェの頭の中でも、相当上位を占める一人に入りそうな男だった。妃はいるようだが、今は病気療養中だとかで玉座の間には姿を現わさなかった。国王アレクサンドロフスコエはなるほど、噂に違わず相当な人物であるらしいとスキエルニエビツェは判断した。

 劉深の海のような深い青色の瞳、夜のさざ波のような見事な銀の髪は、海の国劉深に生まれてくるためにあるような容姿だ。

「さっそく城内を案内させよう。その前に部屋に行くといい」

 スキエルニエビツェは城での生活を始めた。部屋は快適で、窓から海が見える。風も涼しく、庭も一望できる。城での最初の仕事は王妃の部屋へ行き、その喉で彼女の心を癒すことだった。妃は別段病弱というわけではないようだが、身体が疲れたところを見計らったように病気にやられしてまったようだ。寝込んで大分長いらしい。最初はリュートで甘い音色だけを弾いて、疲れた顔をしている彼女を寝かせることに専念した。国王は大層彼女を気に入って、よく玉座の間に呼んでは、麗しい喉に聞き惚れた。玉座の背後には海を望める大きな窓があって、その前に座り海を背にして歌うスキエルニエビツェは、生まれた時から劉深にいるかのような落ち着きで海の青と調和していた。

 二月になった頃、スキエルニエビツェはあることに気づいていた。それは王宮の人間の少なさである。それがこの国の人員の整備の仕方なのだ、そう言われればそうなのだろうが、しかしどこか閑散としている。玉座の間にいるのはいずれも文官のような雰囲気の、しかも年配の者ばかりだ。大臣や或いは長老以外には考えられない者たちである。

 この国は、将軍たちが玉座の間には控える習慣がないのだろうか。スキエルニエビツェは調弦しながらちらりと思った。今まで数十ヵ国をまわってきたが、そんな国は初めてであった。賊が玉座の間に入ってきたりして、衛士では手に負えないときや、開戦を宣言するのに近くに誰か軍人がいたほうが伝達が早くないのだろうか。

 しかしそんなスキエルニエビツェの迷いは国王の言葉で解決した。

「今将軍たちは軒並み戦に赴いておってな。陸と海と両方から遠征に行ってしまっているのだ。彼らが帰ってきたら改めて紹介しよう」

「将軍方というのは、皆様お城に住んでおられるのですか?」

「既婚者以外はそうだ。非常事態に備えられるようになっている」

 ふーん、スキエルニエビツェは小さく呟いた。やはりそういったところはどこの国も同じなのか。がたり、風の音が強くなって思わず外を見ると、空は鉛色で今にも嵐が来そうな天気だ。海も空同様鈍い色となって油のようにうねっている。そんな海の上で、嘘のような真っ白な塔が孤高を保って聳えている。灯台だ。

「ひと嵐来るか……灯台守りの仕事が増えそうだ」

 国王は眉を寄せて呟いた。劉深の海域は暗礁が非常に多く、別名『船の墓場』とまで昔は言われていたものだった。それが、近年はそういった事故が一切ない。灯台守りのおかげなのである。彼はたった一人で、ともすれば狂ってしまいそうな孤独と向かい合って二十四時間海の安全を守っている。海を愛し、この劉深を愛してくれていればこそ、できることといえよう。そんな話をちらりとして、国王は立ち上がって会議へ赴いた。スキエルニエビツェは一礼して彼を送り出し、王妃の元へ向かって短い歌を一曲歌ってから、彼女が眠るまでリュートを弾き続けていた。そして一息つくために自室へ向かい、髪をほどいて窓の外を見やった。鉛色の空、鉛色の海。

 冬の海の厳しさは想像以上にその冷たさを見せ付けた。天気が良ければ空も海も眩しいくらいに輝いていて、胸がすくような心地良い風が吹いているのに、一転して天気が悪ければどんよりと暗く、不吉なものを感じさせてしまう気分にする。海とは意外な二面性を併せ持つものなのだと知った。しかしそれは海に慣れない自分の思うところであって、劉深の人々はこのような天気は別段珍しいとも思っていないようだ。よくあることなのだろう。それだけがスキエルニエビツェを安心させる唯一の事柄のようでもあった。

 そしてそんな鉛色の空と海が姿を見せることが日に日に少なくなってきたある日。

 その日は朝からなんだか騒がしかった。否、騒がしいという言葉は適切ではない。どこか、会う者皆が当惑している。動揺しているというか落ち着きがないというか、悪い報せを聞いてそれにどうすればいいのかわからず、おろおろとしているような、そんな感じだ。特にスキエルニエビツェを見ると皆一様にスッと目をそらす。哀れんでいるような、同情しているような。まるで当事者のような扱われ方であった。午後近くなってスキエルニエビツェは国王の召喚をうけた。簪をさし襲を纏い、スキエルニエビツェはリュートを持ち玉座の間へ向かった。

 そこには珍しくリドルグ伯もいた。スキエルニエビツェが伯の手から国王の手に渡されてから最初の再会であった。

「リドルグ伯…………お久しぶりでございます」

 スキエルニエビツェは薄く笑って言った。そして定座へ行こうとすると、今まで苦々しい顔でずっと黙っていた国王がすっと手を上げて制止し、初めて口を開いた。

「いや、そうではないのだスキエルニエビツェ」

「……」

 彼女は普段国王からイオシスと呼ばれている。こうして正しい名前で言うには、よほどのことがあったのだろうか。

「……実は……」



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