第二章 紫星の風 9

  しかし無慈悲な天はさらに苛酷な運命をアスンシオンに与えた。それは、彼が堤を造ったことに関して怒りをぶつけているのではない、それが彼の運命、彼の運命というよりその年の琳藍の河に課せられた運命であった。アスンシオンが堤を造っただけで天の怒りをかうならば、とうの昔に滅亡している国は世界で百を下らない。琳藍は山間の国だけに、考えが古いだけなのだ。

 とにかく打ち拉がれたアスンシオンに痛恨の一撃が下された。

 それはある日突然やってきた。

「大変です! 表の嵐のせいで河が増水しています!」

「付近の住民を高台に避難させろ。そこも危険というのなら城下に」

 てきぱきと命令を下しながらアスンシオンは何の危機感にも襲われていなかった。夏のあれだけの連続的な雨を乗り切ったのだ。季節外れではあるが冬の嵐はそれほど強いものではない。アスンシオンはそれを知っていた。琳藍の梅雨をのりきった竹と石の堤が崩れ

るはずかないということを、経験から知っていた。

 しかし。

「陛下! 下流の堤が次々に流れに破壊されていると……!」

「何……」

 アスンシオンは絶句した。そんなはずはない。そんなはずがないのだ。

「一体どういうことだ」

 立ち上がり現場を見てきた者と話し合うためアスンシオンは会議室を出た。ざわつく会議室をみまわした若い将軍ジラードは、そこに大臣ハールツェルがいないことに一抹の不安を覚え、自分もひとりそっと退室した。

 ヒュウウウウ……!

 ゴオオ!

 ―――ザッ

 ひどい嵐であった。宮廷のどこを探しても、誰に聞いてもハールツェルの行方がわからないことに益々不安になったジラードは、外套を羽織って城を飛び出した。嫌な予感がした。城下をしばらく走り、次第に木々が深くなっていき、横殴りの激しい大粒の雨に打た

れながらジラードは河に沿って走りに走った。濁った茶色の水がまるで生きているかのように激しくうねり、逆巻き、狂暴なまでに猛っている。いつもは青鈍色(ブルーグレイ)の神秘的で美しい河の流れはどこにも見られなかった。堤の一つを見つけそれに走り寄っ

て崩れ具合を見たジラードは、一つの確信をもって下流を目指した。自然が崩したのではない人為的な痕跡が縄目に見られた。刃物で切った痕だったのだ。

 そしてジラードはとうとう探していたものをその鷹のような鋭い眼力で見つけると、風と雨と河にかき消されそうな声を必死に張り上げた。

 ゴオオオオオ!

「大臣!」

 大臣ハールツェルはびくりとして硬直した。そしてゆっくりと振り向く。

「やはりあなたか……・どういうことです、これだけの堤に損傷を与えるとは! 一つか二つ、しかもあまり損害のない場所にするのではなかったのですか!」

「ふっふっふっふっ……・・だからあなたは若い。そんなことでは国王に勝つことはできませんぞ」

「違う……私は悟ったのだ。人間与えられた別々の器があると。そしてその器と器はまるきり違うものどうしで、四角と丸のどちらが優れているかを競うのと同じ、愚劣で意味のないことだと。私は私の器があり、その器には限界点もあれば他のものが持っていない才能もあるのだと。陛下は陛下で、私の知らないところで私と、いや私以上の器を持っているがために私以上の苦悩を味わっているのだと」

「今更遅い……あなたも共犯であることには違いない。あなたが訴え出れば私もあなたが共犯だと言いますぞ。それでもよろしいか?」

「部下にやらせれば罪科を恐れた何者かが裏切るかもしれぬという危惧から自らこんな場所へ赴いたあなたの卑劣さ……・もっと早く気が付くべきだった。目の前の欲に目が眩んだ私の罪だ」

「なんといってももう遅い……この縄を切りこの堤を流してしまえば、重要位置のこの場所は増水して取り返しのつかないことになるだろう」

「―――――今まで事実無根の噂を流していたのもあなたですね。陛下の悪い噂を流し国民の反感をかうように仕向けたのも」

「その賢い頭がもう少し早くは働けばこんなことにはならなかったでしょうなあ」

 侮蔑に満ちた笑いを浮かべ縄を切ろうとするハールツェルの背中を見て、ジラードはかっとなった。切らせてはならない。その思いだけで抜刀した。

「逆賊が……!」

 そして振り向いた大臣を袈裟掛けに斬った。

 ざしゅっという音がして、雨のなかに赤い血飛沫がぱっと椿のように散った。

「う……」

 額から血を流して、大臣がよろめいた。息を切らしたジラードはその様子をじっと見つめていた。

「おろか……ものが……・・」

 ハールツェルの言う通り、ジラードは若すぎた。そして甘かったのである。

 最後の力を降り絞った大臣は、よろめきよろめき堤に近寄ると、残った力を全部注ぎ込んで縄を切った。

 ゴゴッ

 ザザザザザザザザザアアアアッッッ

「! ―――――」

 絶句するジラードをよそに、堤と共に大臣は激しい濁流に飲み込まれていった。

 ジラードは嵐の中立ち尽くした。



       牆角 数枝の梅

       寒を凌ぎて独自に咲く

       遥かに知る 是れ雪ならざるを

       晴香の有りて来たるが為なり


「陛下……アスンシオン様」

 スキエルニエビツェは気遣わしげにアスンシオンを見た。逃げだしてしまいたくなるほどの重責と圧力が、この男一人の両肩にのしかかって押し潰そうとしている。

 今回の嵐で琳藍は史上稀に見る大打撃を受けた。堤はすべて流され、死傷者は出なかったものの、春に向けて植えられた苗や種などがすべて流され、所々の水田も壊滅的な被害を受けた。蓄えは少なく、琳藍の民は飢饉の危機に晒された。

  だから言っただろう、国王は悪魔に我々を売り渡したんだよそうでなければあんなこ  とがあるものか

  天がお怒りになったのさあんな堤を造ったりするから

  そうじゃない知らないのかすべてはハールツェル大臣がやったことらしいなんでも縄  を自分で切ってまわったらしいよ

  ジラード将軍もそれに一役かっていたらしいじゃないか

  そうじゃないあの純真な将軍がそんなことするもんか大臣に騙されたんだよ

 巷では色々な噂が飛びかった。それも生活の危機に晒されたという現実から少しでも離れたいという願望に過ぎなかった。年は越せるのだろうか、このまま、自分たちは飢え死にするのだろうか。

 そんな年の瀬も押し迫ったある日、将軍ジラードの審問会が開かれた。将軍は弁解するつもりはない、ただ自分はあそこまでするつもりはなく、大臣はその卑劣な行いのあまり斬ったのだと言った。それ以上は彼は何も言わなかった。ジラードを死刑にという声も高かったが、アスンシオンは一年の蟄居を命じただけだった。見つかった大臣の死体が縄の繊維の貼りついた刃物をしっかりと握っていたということもあったが、ジラードを殺してしまうのはあまりにも惜しく、そんな理由も特に見つからなかった。

 それより彼には国民の飢饉と今回の事に関する責任が重く突き付けられていた。堤の決壊の理由がどうあれ、最初から欠陥があったからあんなことになったのだと彼は会議の場で散々やり込められた。反論はできなかった。そうする元気すらなかったのだ。重臣の裏切り、頼りにしていたユラデュラの無理解。それだけではない、民の飢えは日に日にひどくなるばかりで、蓄えもそろそろ底をつく。彼は国王としてそれに対して対策を昂じ、なんとかして被害を最小限に食い止めなくてはならないのだ。

 だがどうやって? 蓄えはなく田は壊れ、種も苗も流れてしまったのだ。いったい何に希望を見ろと? 何かしたくとも、その何かが何もないのだ。こうして民と共に死んで行くのが運命とでも? 違う。自分はともかく、この失敗によって犠牲となった民だけは救わなくてはならない。

 天よ……これが私の運命なのか

 アスンシオンは空を仰いだ。

 冴え渡った空の青は、彼の顔までも青く染め上げて寒々と光っていた。


 謹慎を言い渡されたジラードは騎士の常として自刃を暗に期待されていた。無論国王がそれを望むはずもない。そういうことを期待する輩が多かったというだけの話だ。主を欺き、騎士として言い様のない恥をかいた以上は、これ以上生き恥をさらさずに潔く死ぬべし、そんな言葉が裏で囁かれていた。死んで責任をとれと。

 しかし彼にそんな様子は一向に見られなかった。黙々と座り続け、ただただおとなしく、ジラードは静かに自宅で謹慎していた。臆病者との挑発ともつかない言葉にも耳を貸さなかった。

 私は死なぬ……自分の犯した罪を自ら償うまでは、私は死なぬ……今まで陛下を疎み、憎みすらしていた分私は償いをしなくてはならないのだ

 そのためにはどのような恥をかかされようが臆病者と罵られようが―――――私は平気だ

 私は死なぬ……。



 これを機にハールツェル大臣と共に反国王派に名を連ねていた者たちがいっせいに国王を批判し始めた。国王に問題があるから、ハールツェルのような者が現われるのだと自分たちを棚に上げ、次いで堤の問題点を次々に列挙していった。最初から白紙に戻すべきであったのに、無理にあんなものを造ってしまったからこそ不和が生まれたのだと。重臣の誰も納得できなかったものを強引に造ったりしてしまうからこんなことになったのだと。ハールツェルのやったことに対して眉を顰めていた周囲の重鎮たちも、未だ自分たちが納得できないまま強引に堤を造った国王に対して反発心を少なからず抱いていたことには違いないし、そんなこともあったのでアスンシオンに対する不信は募るばかりであった。

 スキエルニエビツェも不安だった。あの堤は起死回生をはかるための最後の手段だったのに。しかも誰もがハールツェル大臣の劇的な死とジラード将軍のことで忘れてしまっている、あの堤が崩壊したのは人為的なものによるものであると。しかし彼らにとってはそんなことはどうでもいいのだ。もしかしてそれすら承知なのかもしれない。重鎮たちは誰一人としてアスンシオンの心が理解できなかった。しようとしなかったのだ。彼を噂通りの人間としてしかとらえず、自分の第一印象が悪ければその後どんなことがあっても改めたりせず、自分が、自分のそういったものが一番正しいとして歩み寄りを見せなかった。だからこそ民のためと言うアスンシオンの真意も、そのための必死の対策として昂じられた新しい堤のことも、わからなかったのだ。目に見えぬ天だけを恐れ、進歩を忌み、自らが気が付かない無意識の中に自分は関係ない、高台の屋敷に住んでいるから洪水とは無縁、自分の腹が痛くないのに危険な目に遭いたくないという思いがあったのである。あれだけ反対したのにも関わらず、我々に逆らった国王を少しでもいいから痛め付けてやりたい、そうでなければ、意見を無視された自分たちが重臣であるという意味は一体何なのだ―――――自分たちの消極性などまったく棚に上げて、彼らは共通してそんな思いにとらわれていた。だからアスンシオンをひたすら攻撃していい気になっていたのである。それだけではない、飢饉という危機に直面して今こそ互いに協力して隣国の貴族に知り合いがいるから援助を申し出たりとか、自分たちの食事を減らして民にまわしたりとかそういう頂にいる者として当然のことをしようともしなかった。そんな中で一人だけ、三食を一食に減らし、その朝食の量もかなり減らして民に分けているユラデュラがいた。アスンシオンは、それでいいと思った。彼に理解してもらえなかったのは彼が変わったからとか、彼が悪いとかそういうのではなくて、それは人間がいつか必ず立たねばならぬ分岐点の右と左に分かれたということなのだ。自分は右に、そして彼は左に。どちらが正しいのでもなく、またどちらが悪いというのでもない。それが自分達の選んだ生き方なのだ。

 琳藍は無事年を越せるのだろうか。スキエルニエビツェはふとそんな不安に駆られた。 寒空のなかに街を見いだしても煙一筋上がっていない。どころか、道に横になって物乞いをしたり、飢え死に寸前になって倒れているものすらいる。

「陛下―――……アスンシオン様」

「宮廷の食料を大幅に減らしたところでたかが知れている。すべて私の責任だ。……私が先走りさえしなければ」

「陛……アスンシオン様…………」

 スキエルニエビツェはその悲痛な顔を見て胸が痛んだ。どうしてこういつも裏目にでるのか。あの大臣さえいなければこんなことにはならなかっただろう。しかしもう遅い。すべてが遅すぎたのだ。

 琳藍の経済は今どん底にある。寒々とした空気は冬を一層厳しく感じさせた。谷を見下ろすと、無残な嵐の有様がそのまま残っていて痛々しい。冬になると風も遠慮するような静けさを纏うあの琳藍の谷とは到底思えぬ。大理石の加工やそれに伴った輸出も、この状況ではままならぬ。

 表を見てはそのたびため息する毎日が続いた。歌うことも憚られ、宮廷は重い雰囲気に包まれた。正月を迎えたが、それは一年前の賑わいとは比べものにならないほど陰欝で寒寒しく、貧しいものだった。 

 そんな正月四日のことであった。

 遥か劉深から、大量の食糧とそれを運ぶ荷車と従者とを携え、リドルグ伯が突然やってきたのは。彼らは目を見張るほどの食料を運んできていて、嵐のあった十二月から報せが届くだけでも二ヵ月以上かかる距離なのに、一ヵ月でどうやってこれほどの荷物を運んできたのだろうと誰もが驚愕した。リドルグ伯は琳藍に入ると、まず王宮へ真っ先に使いをやり、やってきた旨を伝えると、それから初めて麓の住民たちに食糧を配り始めた。つくづく礼を重んじる男なのである。

 登城するとリドルグ伯は、まずどうしてもっと早く報せてくれなかったのかと国王アスンシオンに言うと、この先の食糧援助を正式に申し出た。

 彼の神業にも近い所業を見て茫然とし驚愕もしていたアスンシオンであったが、素直にうなづいてご好意に甘えさせていただくと低く、強く言った。

 琳藍はすんでのところで滅亡の危機を免れた。

 そのリドルグ伯の食糧援助は一月から三月まで続き、同時進行で経済援助も続いていた。ほんの一、二度劉深に戻って色々とやらなければならないことをする以外は、リドルグ伯はほとんど琳藍に滞在していた。その目で琳藍の完全な復活を確かめなければ戻るわけにはいかないというのである。アスンシオンはこの律儀な男と懇意にできることを誇りに思い、彼を心から敬った。大理石の輸出が再開され、外貨を取得して食糧面のみ完全に立ち直った琳藍は、これも物資の苗や種を蒔き終え、秋にそなえて万全の体勢をとり、ようやく春らしい春を迎えようとしていた。嵐が残していった爪痕は深く、経済が本格的に立ち直るのにはまだまだ時間がかかりそうだったが、毎年の洪水で打たれ強くなっている琳藍の人間にとっては、そう痛いことでもなかった。

 早咲きの蓮が花開き、谷の緑がきらきらと光る季節になってようやく、琳藍は経済の立て直しに成功した。元々、世界有数の大理石の産出国でもあるし、気が付くと空が夏の暑さに輝く季節になっていた。河原は何事もなかったかのようにまた青鈍色の大理石を含んだ水となって流れ、谷間の緑はさらさらと風に当たっては涼しげな音をたてた。

 その緑を見下ろしながら、アスンシオンとリドルグ伯は窓辺に立ち日差しに照らされて静かに佇んでいた。

「申し訳ないリドルグ伯……借りをつくってしまいました」

 口火を切ったのはアスンシオンの方であった。

「あなたのおかげで民が飢えず一人も死に致ることなく春を迎え今こうして夏を迎えている……本当に感謝してもしきれない」

「いえいえ陛下……私が日頃お世話になっているお返しをしたまでのこと」

 ゆら……と樹の枝がだるそうに揺らいだ。一瞬反射した強い光に目を細め、物憂げな夏の日の午後、二人の男はしばらく黙ったまま佇んでいる。

 今季節は八月の末、先月のはじめに劉深は琳藍への全ての援助を終了した。そしてそれが公である以上、琳藍は劉深にではなく個人の財で援助を成し遂げたリドルグ伯に礼を尽くさなければならない。

「陛下……私はね、この国が好きなのですよ。緑が美しく空が美しい。劉深も趣が違って美しいことは美しいのだが、この静けさは世界のどこに行ってもないものだ。何もかもが静かで荘厳で、ここに来ると心が和むのです。そしてまたあなたほど立派な方もそう見られない。優しさ、厳しさ、おおらかさ、静けさ、人を愛する心や人を思慮する心、知性と教養と……あなたはすべてができすぎているかのように素晴らしい。生まれるべくして生まれた英雄とでも言いましょうか……あなたのような方と懇意にしているというだけで私は誇りなのです」

「リドルグ伯……」

 目を細めてアスンシオンは呟くように言った。その、遠回しの礼はいらぬ、今言った通りの理由で私はあなた方に手を差し伸べたのだから。そう言われては、もう何も言えなくなってしまうではないか。完璧すぎる。



       水光澰艶として晴れて方に好し

       山色空濛として雨も亦た奇なり

       西湖を把って西子に比せんと欲すれば

       淡粧濃抹 総べて相宜し



 庭のどこかから、物憂げに、しかし涼しげに歌う声が聞こえてくる。アスンシオンは眉を寄せ目を瞑った。

「―――――…………」

 ああまるで―――胸が虚ろになっていくような気分だ

「美しい鳥をお持ちですな」

 リドルグ伯が庭の池を見ながら言った。

「大切になされよ」

 そしてそのまま、アスンシオンを残してリドルグ伯は退室した。

 残るは、絶望に打ち拉がれ真を貫かなければならぬ決断を強いられているアスンシオンただ一人。



 リドルグ伯は劉深に帰国した。

 その日以来アスンシオンの様子は少し変わっていった。いつも心をどこかに飛ばしたようになって、茫然としているというか、とにかく心ここに在らずといった感じであった。 それは何か大切なものを奪われたようにも見えたし、何か大切な事を決断するべきか、せざるべきか、考えあぐねているようでもあった。

 リドルグ伯は何も望まなかった。この国が好きだから、アスンシオンを尊敬しているからこそ、援助を申し出たのであって報酬や何かを目当てにしたのではないと。スキエルニエビツェでさえ、大切になされよとはこのまま大切に彼女を手元に置いておきなさいという意味だ。

 ―――――しかしそれでいいのか?

 一国の王が国が滅亡するほどの飢饉に襲われ、食糧ばかりか経済までも無償で援助してもらい、それで相手がなにもいらぬと言ったからはいそうですかと何もしないので、それで本当にいいのか? それで真がたつのか? リドルグ伯がいいと言っても自分が納得できない。

 アスンシオンは悩んだ。人を遠ざけ孤独なまま一人悩んだ。それは誰にも相談できぬ、人の上に立つ者特有の辛く苦しい悩みであった。

「陛下……―――アスンシオン様」

 気遣わしげに、スキエルニエビツェが寄ってくる。黙って彼女を引き寄せ、肩を抱き背中を抱く。愛している。愛しているのだ。やっと見つけた私の心の泉。長い長い放浪の末やっと見つけだした愛する女。私をあの常闇から救ってくれた白梅の精。

 アスンシオンが何事か悩んでいるのはスキエルニエビツェも知っていた。そしてそれがどういう悩みかも、薄々気づいていた。しかし自分からは何も言えない、言うことはできない、どちらを選んで言ったとしても、彼を傷つけてしまうことになるから。

 肌を寄せ合い、唇を重ねた後、アスンシオンは長い間眠れないようだった。スキエルニエビツェは、それに気づかないふりをしなくてはならなかった。そして夜半も大分過ぎた頃、スキエルニエビツェはそっと起き上がってその寝姿を見た。

 悩んでいらっしゃる……どうすればいいのか―――――。

 ふと顔を上げると窓の外が明るいので窺い見ると、夜空に月があかあかと光っていた。



 三度目の秋がやってきた。秋香る、琳藍の秋はそんな静けさを帯びた言葉がよく似合う。

 ホロン……

 ホロ……ン……

 ロォォン……

 重苦しい空気が部屋に漂っていた。どちらも口を開くことができない、さあ言うか、さあ言うかと互いに緊張しているのがわかる。

 胸が重く、心が重い。

 ホロ……

 す、とスキエルニエビツェがリュートを奏でる手を止めた。そして静かにアスシンオンを見上げる。その黒い瞳に、最早迷いも畏れもない。恐ろしいほど静かな、冬の湖のような静かな瞳。もうすべてを知り、すべてを悟った井戸のような目。

 二人の視線は二呼吸しても三呼吸しても、絡み合ったままだった。

 息をしているのかしていないのか、それすらもわからないほどこの時空気は凍りつき緊張し、気のせいか微かに耳鳴りがする。

「……」

 アスンシオンは辛そうに、そして悲しそうに、苦しげにそっと瞳を閉じた。

 自分にとっても、彼女にとっても辛い決断である。しかし私心を抑え、国王として男としてやらねばならぬことがある。瞳を開けアスシンオンは鉛の塊を飲み込んだような重い胸の痛みを抑え言った。

「すまぬスキエルニエビツェ…………―――――劉深へ行ってくれ」

 どこかでピン、と糸が切れるような音がした。それは二人の間の緊張の糸の音かもしれず、誰かが廊下で落とした針の音かもしれなかった。音すら消えたような真空の空気が部屋を取り巻き二人を取り巻いた。それでいて今にもぎしぎしと音を立てそうな切なく重苦しい緊張感。

 瞳と瞳は絡み合ったままだった。一方は辛いことを言い、また一方は辛いことを聞いたのにも関わらず、どちらからも目をそらそうとはしなかった。永遠にこの姿を我が瞳にとどめようとするかのように、二人は凍りついたように互いを見つめあっていた。

 そしてひとしきりしてスキエルニエビツェは言った。

「―――――…………すべて仰せのままに。

 …………―――――…………アスンシオン様」

 さらり、外で待ちかねていたように風がそよいだ。



 リドルグ伯は帰国して一ヵ月後に琳藍国王アスシンオンからの正式文書を受け取った。

 文面には短くこうしたためられていた、

 私の鳥をお渡し致します

 と。直ちに支度を整え、リドルグ伯は琳藍へ向かった。山間の琳藍から海の国劉深へ、美しい声を持つ楽師が疲れないようにと輿を携えて。

 出発の朝、二人は誰もいない玉座の間で別れを告げた。何も言わなかった。一言も口をきかなかった。しかしそれでよかった。

 何か言えば、行きたくなくなる、手放したくなくなる。

「…………」

 スキエルニエビツェはすっ、とアスシンオンに一枝の冬杏を差し出した。細い枝の先に杏が寂しげになっている。

「―――」

 アスンシオンはそれを黙って受け取った。スキエルニエビツェはうつむき、そして何も言わずにそのまま、逃げるように振り払うように歩み去った。

「…………」

 アスンシオンは手の中の細い枝、そしてその先になっている寂しげな果実をじっと見つめた。そしてその真ん中にしっかりと結わえられた一本の簪も。

「……」

 瞳を閉じ……アスンシオンは自室へ向かった。

 そこからは、琳藍の谷を一望できる窓があるのだ。



 ぎし、ぎし、という輿の音がスキエルニエビツェの重い心を一層憂欝にさせる。そっとため息をつき、そして腰につけた飾り玉を手に取った。これがアスンシオンの心なら、あの杏は私の心。

 スキエルニエビツェは簾をそっと上げて、もう大分遠ざかってしまった城を、幾重にも重なる谷の上に聳える城をそっと見上げた。

「…………」

 窓辺に一人、誰か立っている。谷に面した窓……見るとしたらこの谷しか見るものはない。もう小さくて顔形もわからない。髪は、遠い上に日差しでよくわからぬ。

 ただ……まるで緑の点のような二つの光が見える。琳藍のどの季節の緑にも負けぬ美しい濃い緑色。スキエルニエビツェの胸がきゅ、と詰まった。

 彼女は静かにリュートを取り出し、奏で始めた。



       牆角 数枝の梅

       寒を凌ぎて独自に咲く

       遥かに知る 是れ雪ならざるを

       晴香の有りて来たるが為なり



 届いただろうか? 聞こえただろうか? この歌をこよなく愛し白梅をこよなく愛したあの男の元まで。それすらもわからない。確かめたくとも、わからない。

 スキエルニエビツェはやりきれなくなって呟いた。

「今一曲……」

 ポロン……

 ホロン……

 ロォォ……ンン……



       早梅 高樹に発き

       迵かに楚天の碧に映ず

       朔水 夜香を飄し

       繁霜 暁白を慈す

       万里の贈を為さんと欲するも

       杳杳として山水隔つ

       寒寒 坐ろに銷落す

       何を用てか遠客を慰めん



 スキエルニエビツェは、谷に遮られ木々に阻まれても、城が見えなくなるまで、ずっとずっと見上げていた。

 城を、琳藍を、そして窓辺の影を。





 四ヵ月後―――――。

 翌年桔四年二月……。

 琳藍国王アスンシオン・ラランジェイラスⅦ世没―――。




 その日琳藍は史上稀に見る寒い日で……

 極寒の中での病死であったという―――――。

 整いすぎた容姿の恐ろしさゆえ、その才能の非凡さゆえ、人々に敬遠され遠ざけられ続けた。疎外感と孤立から闇の中を彷徨い続け、闇の中でまた力尽きた。

 紫星のように気高く、強く、恐ろしくそしてなによりも孤独と言われ続け、恐れられてきた。

 終始誰にも愛されず誰にも理解されず、絶望と虚無に満ちた、悲痛で孤独な人生であった。

 享年三十一歳―――――彼の手には、一本の簪と枯れはてた細枝がしっかりと握り締められていたという……。




《  紫星などより、紫星に吹く一陣の風でありたい―――。 》





 魁―――――第七星は孤軍の星なり。高貴の紫その光に宿り、冷たく光る様は最強にして最高の力を顕すものなり。故に又の名を紫星と云ふ。世の旅人は天空に輝く不動の紫を標として道を歩むものとす。


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