第二章 紫星の風 7

 五月―――早咲きの蓮がちらりほらりと池に見える季節である。もっとも蓮の本番はやはり夏なので、夏の蓮の美しさに到底五月の蓮がかなうはずもない。それでいて初夏の美しい陽光に光るその姿は、また夏の蓮とは別の美しさを醸し出しもしている。

 将軍ユラデュラは、この五月の蓮が苦手である。この日も吹き抜けの廊下から庭に咲く蓮を見、沈鬱な表情をしていた。

「……」

 ふと顔を上げると、向かいの棟の窓から、やはりアスンシオンが蓮を見ていた。アスンシオンはユラデュラに気が付くと、何もなかったかのようにスッと窓から離れて姿を消した。

 やはり覚えておいでか……ユラデュラは気が重くなった。

 池に早咲きの蓮が開く頃、アスンシオンの母は死んだ。毒殺されたのだ。そもそもそれは叔父からアスンシオンに回されたものであった。知っていたのか知っていなかったのか母はそれを飲んでアスンシオンの代わりに死んだのである。ひどい苦しみようで、死ぬ間際まで辛い死であった。愛する夫を死に致らしめた呪われた子供だとアスンシオンを憎み

何度も何度もその手で殺そうとしていた。

 ―――しかし幼い彼は知っていただろうか。

 ユラデュラはふとそんなことを考えてしまう。いや、恐らく知らなかっただろう。恐らく長じてのちも、アスンシオンは知らなかっただろう、当事者であるがゆえに。憎しみの対象であったがゆえに。

 蓮を見ながらユラデュラは重いため息をついた。

 瞳を閉じると、その光景がまざまざと浮かぶ。従者が恭しく差し出した杯をアスンシオンが受け取り、相手が相手だけに断れない様子であるのを、母がこういって横から杯をとったその光景が。珍しく母の機嫌がよかったあの日。

 『あらアスンシオンいらないの? 

  それではわたくしが……』

 にこやかに言って杯を傾け……そしてゆっくりと倒れた。

 ユラデュラは深いため息をつく。まだ言えないでいる。母が息子を愛していたということを。愛されていないという絶望的な疎外感で、今の孤立したアスンシオンがいるということをわかっていながら。また彼の母が、叔父からまわされたあの杯が毒杯だと知っていて、わかっていて、それでいて断ることのできない相手だというのを知っていて、身を挺して息子を守ったということを。思えばそれが最初で最後の母親らしいことであり、ひどく不器用な愛情の伝え方でもあった。

 あの方はご存じない……平生あの方に毒杯を回し、またそれが露見するように仕向けたのも御母堂で、またあの方を守るためにあの時叔父上から回された毒杯を御母堂が敢えて受けたという事を……



 〈アスンシオン 陛下を奪い死に致らしめた憎い息子〉

 〈この身が燃え上がらんばかりに狂おしいまでに憎く恨めしい我が息子〉

 〈殺しても飽き足らぬほど憎い〉

 〈死ね……! 死んでしまうがいい呪われた子供〉

 〈お前は災難と呪いを呼ぶ忌まわしい厭わしい子供〉

 〈憎くて憎くて恨めしい息子〉

 〈殺してやりたい程憎く……〉

 〈―――――…………そして愛する息子〉



 ポロ……ン……

 リュートの音が静かに庭に響いた。

 あの楽師が、庭のどこかで歌っているのだ。



       寂寂たる幽荘 山樹の裏

       仙與一たび降る一池塘

       林に棲む孤鳥 春沢を識り

       閖に隠るる寒花 日光を見る

       泉声近く報じて初雷響き

       山色高く晴れて暮雨行なる

       此により更に知る 恩顧の渥きを

       生涯 何を以てか穹蒼に答えん


「……・・」

 沈痛な表情でそれを聞いていた老将の心は、いかばかりであったろうか。

「スキエルニエビツェ、とは一体どういう意味があるのだ?」

 突然何の前置きもなく、アスンシオンが空を見上げながら聞いた。

「さあ……わかりません。大した意味はないと思います。意味自体ないと思いますわ」

 アスンシオンは顔をスキエルニエビツェの方へと向ける。

「美しい名前だ。スキエルニエビツェ。……・宮殿の者はなぜお前をスキエルと呼んだりイオシスと呼んだりするのか」

「……私の名前を略せず全部お呼びになるのはあなただけですわ陛下」

 ホロン……



       碧玉 妝成りて一樹高く

       万条垂下す緑糸の篠

       知らず細景誰か裁出せしを

       二月春風 剪刀に似たり



 歌を聞きながらアスンシオンは自分の戦いに思いを向けていた。多くの敵と戦わねばならぬ、それは無知や無理解、あるいは無進歩であり、形がないだけ彼が苦戦を強いられることはわかっている。それでもやらなければならない。今こそ自分が国王になった意味を問うべき時、自分はこのために国王になったといっても、過言ではないのだ。そう、このために自分は伯父や従兄との骨肉相食む戦いを繰り広げ、母までも犠牲にして昇りつめたのだ。与えられた使命は果たさなければならぬ。

 平生物静かなアスンシオンの肌の下にはしかし、今までにないほどの熱い血が脈々と流れたぎっていた。



 夏になった。梅雨が本格的になる前に、もう一度堤の件について重臣たちと話し合わねばならない。相変わらず頭の固い彼らは難色を示し続け、会議は連日夜遅くまで続けられた。納得できない、国王の言うことが理解できない、そんな言葉を何度聞いたことだろうか。さすがのアスンシオンも苛々し通しだった。とにかく容認できない、その一点張りで

あったのだ。連日連夜、同じことが何度も何度も繰り返された。説明を繰り返し、質問と欠点のあらさがしの連続、それにいちいち答え、またそんなことはないと自ら地図を出し

て説明する。彼らの狙いはわかっていた。どれだけの説明をされようとも、納得できないと言い張り続ける。持久戦に持ち込んだのだ。いつしか国王も憔悴し疲れ果て、諦めることだろう、そういう魂胆からの粘りであったのだ。

 アスンシオンにとっての一番の打撃は、ユラデュラすらもわかってくれないという事であった。彼は真っ向から陛下、私はこの考えには賛成しかねますと渋い顔で言ったのだ。

 これは痛かった。あまりにも痛烈な心の動揺に、アスンシオンはその場で会議を終わらせ、部屋に引き篭もってしまった程であった。それを聞いてまた、ユラデュラも心をひどく痛めた。次の日から彼は病欠と称してこれ以上国王と衝突するのを避け、登城しなかった。



       西は横塘を過ぎて水は堤に満つ

       乱山高下 路 東西

       一番の桃李 花開くの後

       惟だ青青草色の斉しき有り



 蒸し暑い夏の日の午後、涼しい風のように吹き抜ける透明な歌声。それは、あたかも下界の大きな戦ですら天からしてみれば些細な事、当人が思っているほど事は大きくないのだと、諭すかのような歌い方だった。堤をどうこうしようと、所詮それも天の意志と。そしてそれを聞いて、アスンシオンはとうとう決断を下した。孤立してでも意見を押し通す決断をである。

 七月。噂を聞きつけて、遥か劉深の大貴族でアスンシオンとも懇意のリドルグ伯爵がやってきた。劉深は海辺の国で、両手一杯に広げた腕よりさらに広い海を臨むことができる

という。リドルグ伯は大いなる関心を堤に示し、アスンシオンの奇抜で斬新な考えをひどく褒めそやした。到着の翌日は、遠方からの旅の疲れを見せることもなく、堤の視察に自らついていったほどだった。アスンシオンの案内で見せられた堤はなるほど完璧で、しかも理論的だ。伯爵は感心してうなづき、

「素晴らしい考えです。成功には時間がかかりましょうが、そんなに遠い未来のことではないでしょう。そうすればあなたが毎年頭を悩ませている洪水もなくなり、多すぎず少な

すぎず水が循環して民も豊かに暮らせるというものです」

 アスンシオンはその言葉に珍しく口元に笑みを浮かべてうなづいた。海辺の人間は山の人間のように閉鎖的ではない。新しい考えは、人や自然のためによいことなら何でも取り

入れる。琳藍が海辺の国であったなら、アスンシオンの今の立場も少しは変わっていただろう。

 遠方からやってきた客とその従者が、その長旅の疲れを完全に癒した頃を見計らって、琳藍では盛大な歓迎の宴を催した。気付きにくく気付かれにくいことだが、到着の翌日やその次の日などは、疲れすぎて酒を飲んでもすぐに眠くなるし、にぎやかな宴の席にいても気疲れするばかりなのだ。そういうところまでをわかりきって宴を采配したアスンシオンの手並みはやはり優れているといってよかろう。



       乳鴨の池塘 水浅深

       熟梅の天気 晴陰半ばす

       東園に酒を載せて西園に酔い

       摘み尽くす 枇杷一樹の金



 涼しい風に乗せて庭からスキエルニエビツェの歌声が聞こえてくる。

「素晴らしい歌声の楽師をお持ちですな」

 にこにこしてリドルグ伯は言った。劉深でもかなりの大貴族だというのに、そんなところは少しも感じさせない、非常に人間のできた男である。

「スキエルニエビツェ・ガラードといえば私も知っているほどの楽師です。あなたはお幸せだ」

「―――」

 アスンシオンはこたえる代わりに薄く微笑んだ。ほう、とリドルグ伯は心中感心していた。昔の王は、誰にも理解されずに苦しい立場で、国民の幸福をいつもいつも切に思っているのに評判がいまいちよくなく、いつもいつも孤独でいた時の彼は、こんな顔は絶対にしなかった。突き放すような緑の瞳、剃刀を思わせるその切れ長の瞳は、視線を奔らせただけで空間すらも切り裂いてしまいそうだった。固い表情と張りつめた空気を持つ男だった。

 涼しい風がまた庭から吹いてきた。庭からは船遊びをしている人々の声が明るく聞こえてくる。しばらくすると見た目にも涼しい根菖蒲(表白・裏濃紅)の襲を纏ったスキエルニエビツェがやってきて、国王と国賓に恭しく一礼すると、リドルグ伯に何か希望の歌はないかと聞いた。

「お任せしましょう」

 にこやかにリドルグ伯は言い、どうぞ定座へ、と彼女を促した。思慮ある言葉にスキエルニエビツェは蓮が開くような笑顔で応え、いつも玉座の間で歌っている場所に座るとなめらかな手つきでリュートを奏で始めた。

 ポロ……ン



       梅子金黄 杏子肥え

       麦花雪白 菜花稀なり

       日長くして籬落に人の過ぎる無し

       惟だ蜻蜒蟯蝶の飛ぶ有るのみ



 それは一時の贅沢であった。宴はにぎわっており、やろうと思えばまたそれらを静めさせることすらできたのに、スキエルニエビツェは敢えて聞いている二人だけに歌を披露したのだ。身体が震えるほどの透き通った声を間近で聞いて、リドルグ伯もしばらくは口が

きけないようであった。真の楽師とは己れの声を制御し周囲の反応をも制御できなくてはならぬ。スキエルニエビツェの声は夏の夜空に吸い込まれるように透明なものとなって夜空へとけこんでいった。

 ほどよい夏の暑さ、時折吹く涼しい風、紺青の空には、けだるげに星が輝いている。

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