第二章 紫星の風 5

 琳藍に秋がやってきた。山々に囲まれ、また琳藍の王城と城下も山の上にあるため、この国の秋は非常に美しい。世の人々は春と秋の美しさを比較し、歌競いなどすることも多いが、琳藍ではほとんどの人間が秋を好む。古い本にも、

『春日は気象繁華、人をして心神駘蕩ならしむるも、秋日の雲白く風消え、蘭芳しく桂馥り、水天一色、上下空明、人をして神骨ともに清らかならしむにしかず』

 とある。春の景色はにぎやかで華やかで、人の心をとろかす。だが、秋ともなれば、雲は白く流れ、風はやみ、蘭やモクセイの花が香って、昼は空も水も青一色に澄みわたり、夜は月の光が空中にも水中にも身も心も清らかとなる。この趣に比べれば、春はとうていおよばない。そんなような意味のものである。水天一色、上下空明というのがなんともいえず美しい言葉である。そして、そんな美しい言葉で彩られる秋の化身のような女が、琳藍にはいる。

 荘厳に厳粛に、寒い夜蒼い光で夜を征しごつごつとした岩のような全身からくまなく無機質な光を放つ月、その月の銀を彷彿とさせる銀の髪と、海から出でさらに海すら負かしてしまったような深い深い青の瞳。歩くたび動くたび、その髪は河の浅瀬のようにさらさらと美しい音を微かにたて、波のように優雅に線を描いてたなびく。

 琳藍のどこで採れる極上の大理石よりもさらに白い肌は、雪のようだとも、人知れぬ森の奥の秘め滝のしぶきのようだとも称される。三日月のような眉と、意志の強さを強く現わしたそのきりりと引き締まった唇は、今までに多くの男たちを魅了し、またそれらを戦わせてきた。多くは敗者に、ほんの限られた者が勝者に。高貴さを漂わせる額は確かに美しく、女官の誰かが水晶の彫刻が動きだしたと呟くほど。視線が宙を舞えばとらえられたものはすべて深い青に染まり、あたかも貴重な宝玉を見ているかのような胸の高鳴りを抑えられない。

 誰かが言った、彼女は琳藍の秋の化身だと。

 ウィラミナ・ティクレック―――――彼女を知らぬ者は琳藍には一人とておらぬ。

 流れるような身のこなし、舞うような動きは、壮年の将軍だとて 見惚れずにはいられない。さらに月そのものを思わせる終始凛とした態度は、どんな者をも怯ませる。

 ウィラミナは琳藍王宮の女官である。しかもただの女官ではない、高等女官といって、ふつうの女官よりもさらに上の上をいく女官である。その業務を主に国王や重鎮などの世話とし、また政でも意見を求められることは少なくない。

 であるから、高等女官は国の財産とされ、結婚は許されるが国外に出ることを禁じられている。 当然外国の人間との結婚も許されない。招かれた国賓が女官を気に入ってその女官を貰い受けるということはたまにあることだが、高等女官はそれすらも許されないのである。

 そしてその高等女官であるウィラミナは、日常の業務をそつなくこなし、女官たちを采配し、その美しさに高慢になることもなくその才能で国を左右しようとすることもなく、非常に人格的に優れているとして宮廷内での人気は高かったが、そんなウィラミナがただひとつだけ狙っていることがあった。それは彼女の野望と呼ぶべきものであったといってもよい。

 野望はただ一つ、それは国王アスンシオンに抱かれるということであった。あの男を自分のものにする。

 自分の美しさを鼻にかけないウィラミナではあるが、それは自分が美しいということを知らないというわけではない。どころか、重々承知している。自分を争って広大な家屋敷を賭けた男もいれば、高官の位を賭けて路上の生活となってしまった男もいる。街を歩けばお互いのやりとりに夢中でざわめいていた道の人々はいつのまにか喋ることも忘れ、固唾を呑んで自分を見つめているのだ。夢を見ているような顔つきの者、なにやら恐ろしい顔で睨む女、口をぽかんと開けたままにして放心してしまう者……。それはいつになっても変わることはない。高等女官となった現在では、宮廷の外に行く時は必ず大尉以上の兵士が三人護衛とされるのでそんなことはないが、昔は街を歩いていると、よく酒場で酔った男などが彼女を我がものにしようと路地裏に引っ張り込んだものだった。そのたびに誰かに助けてもらっていたから宮廷に上がるまで彼女の身の貞操はなんとか守られていたが、それだけでもウィラミナという女が、いかに美しいかがわかるというものだった。

 本人もそれをよく知っていた。ただ彼女の凄い処は、これだけ美しく、万人を魅了してやまない容姿を持つというのに、少しもそれを鼻にかけず、高慢にならず、終始謙虚な態度を崩さないということであった。なぜならば、そういう態度でもとらないことには、周囲が敵だらけになりついには彼女にとって好ましくない状況が訪れやすくなる。無駄な争いはないほうがよいに決まっているということを、この女は知っているのだ。そんなウィラミナの処女を奪った男はリコルディという軍人で、当時大佐であった。宮廷に上がって間もない頃、外出の護衛に一度ついてきたのだが、彼の自分を見る瞳、その他の男が自分を見る時とはどこか違う目に、ウィラミナは興味を覚えた。 彼はウィラミナを美しいとは認めていたが、それは青いものを青いと認めるのと同じようなもので、それ以上の興味を彼女に抱いていなかった。或いは、自分にはかけ離れすぎたその美しさに、高い高い場所に咲く一輪の花のようにしか感じなかったのかもしれぬ。今となってはそれすらわからない。彼はウィラミナを抱いた翌月に戦死したからである。彼女が十八の時のことであった。

 その後も色々な男たちに抱かれてきたが、決して手当たり次第というわけでも、多くの男たちというわけでもなかった。彼女が選ぶ男は、年齢・容姿・社会的地位、すべてがばらばらであったが―――一つだけ共通していた。彼女を一人の女としてとらえ、愛し、そして最初は何の憧れも期待も抱かずに彼女と接する男であった。だからウィラミナは、一個の人間として以上に自分に興味を抱かない男たちに興味を抱く。最初の男もそうであったが、当初彼女を護衛の対象としてしかみなしていなかった。大切なのは間違いないが、それは護衛を必要とするほどの人物であるからであって、それが自分の仕事だからであった。他にも終始無愛想でぶっきらぼうな態度で彼女と接した旅の戦士、五十年間仕事一徹でやってきた老騎士、精巧な時計を造ることに命を燃やす職人、様々な男たちと恋をしてきた。ウィラミナは、自分が美しいからといってのぼせ上がらず、見た瞬間から恋をしてしまう男ではなく、美しいことは美しいが自分とは何の関係もない、そんな態度をとる男を選んできたわけである。彼らはまず自分の生き方を率先し、何よりも優先してきた者たちばかりだ。自己の美しさを自覚してから向こう、終始男たちの強い独占欲を剥き出しにした視線にさらされてきたウィラミナは、自分を見て最初に自分を欲しがったり、恋してしまう男にはうんざりしていた。器だけを愛されても嬉しくなかった。一目見てあなたに恋をしたのです、そんなことを言われても、それでは一目見た瞬間に無視された自分の才能や人格はどうしてくれるのだ。家屋敷を賭ける男、自分の地位を賭ける男、そんなものは賭けなくていいから、誠意と真心を賭けてほしい。

 そんなウィラミナが国王に抱かれたいと思うようになったのも不思議ではなかった。

 しかしそれは今までの男たちと重ねてきた恋の遍歴とは少々内実の違うものであった。

 アスンシオンのあの剃刀のような冴え渡った美しさ―――。

 巷では恐ろしい顔で通っている。自分も少し前までそう思っていた。切れ長の瞳、彼の視線が右から左に動くだけで空間が裂けてしまいそうな思いをしたこともあった。小山のような身体に圧倒され、身が竦む思いをしたこともある。無口で、物静かで、逆にいつ崩れるかわからない雪山の雪のような気がしていたものだ。

 しかしウィラミナはある日気が付いた。恐ろしい、そう思っていたのは先入観や思い込みで―――――確かに鋭い容姿ではあるが、よく見るとアスンシオンの整った顔立ちは美青年といってよいものだ。美とは一つではないということを、ウィラミナはよく知っている。次第に彼女はアスンシオンに興味を抱いていく――――― 。

 聡明な発想といつも民を気遣う優しさ、観察が進むにつれ国王として理想の形をとっているアスンシオンに対する興味が募っていく。

 見目美しくそれでいて勇ましい国王の姿を見ていてウィラミナは思った―――――。

 自分とあの国王が並んだら、さぞかし絵になるだろうと。最初から完成されるために、ただそれだけのために創られたかのような神秘的で幻想的な風景がそこには生まれるだろう。そして国王のあの優しさの裏にある厳しさを、自分が隣にいることで完璧にしてしまおう。あの方は民のことを気遣って優しく笑みを浮かべるよりも、冷徹に政をし、政敵を非情ともいえるやり方で倒していく氷の魔王のように頂点を歩くほうが似合っている。あの方の容姿、物腰、あの小山のように思える高い背丈ですら、そのために生まれ創られてきたものなのだ。そのためにはあの方にひけを取らずに美しい自分が必要だ。あの方に近づく者に対する扉となり壁となり、あの方を取るに足らぬ普通の人間にしてしまうのを防がなければならない。人と接すれば接するほどあの方はその魔力を失いただの人間に近付いてしまう。俗に触れ、信仰が薄らいでいく若い僧のように、人間に触れ人間になっていってしまうだろう。自分はあの方と同じくらいのこの美しさで周囲を圧倒してあの方が俗である人間に触れるのを拒み、自ら戸口となって彼がその魔性を落としめ

ないよう取り次ぎ役となるのだ。妃など関係ない、そんなものにはなりたいとも思わぬ。

 女としてあの方を支配したい―――――。

 今まで受け身で独占というものを見てきたウィラミナが、初めて誰かを独占したいと望んだ。

 ウィラミナはこう思っている、

 きっとあの方もそれを待っていようと。あまりにも凡人とかけ離れ過ぎているために、なかなか本領を発揮できずに苦しんでいらっしゃる。今正に、自分のような仲介する者、聖と俗との間にたち両者の仲を円滑にする者が必要だと。きっと待っていらっしゃるに違いない。

 そして今度こそ本当の意味で彼は魔王となり、君臨するのだ。

 ウィラミナの考えは尽きなかった。

 そのためにはまず自分と彼とが親しくなり、一体とならなければならない。例え彼が魔王の素質を持っていなくても、あんな剃刀のような鋭い美しさを持つ男になら、抱かれてみたいと思うウィラミナだった。

 そんなある日―――――。本宮へと続く吹き抜けの回廊を歩いていた時のことである。 庭に誰かいた。普段庭に立ち入る者などいないので視界の端に映ったその異物は、簡単に興味を覚えさせる材料となった。

「?」

 そして次の瞬間ウィラミナは驚愕した。全身が鉄か鉛にでもなったかのように重くなってその場に釘づけとなった。


       夜久しうして眠る無く 秋気清し

       燭花頻りに剪って 三更ならんと欲す

       鋪床涼は満つ 梧桐の月

       月は梧桐の欠けたる処に在りて明らかなり



 目の前の光景はとても信じられなかった。ウィラミナは柱の陰からそれを信じられない思いで見つめていた。知らず白い手に筋が浮かぶ……・こんなに固く、拳を握り締めたことなどない。

「美しい歌だ」

「歌は美しいものですわ」

 あの流れ者の楽師と―――――アスンシオン。

 なんということだ! ウィラミナはぎり、と奥歯を噛んだ。それは、あの二人が一緒にいるからという理由ではない。アスンシオンが笑っている! あのようににこやかに、あのように屈託もなく。

 いつものように愛想の一つとしてでしかとらえられないような申し訳程度の口元の笑みではない。あのような笑顔は見たことがない。いや見せたことがないのか? とにかく第三者にあんなに気を許すだなんて……彼はそんな人間ではないはず。しかもただの第三者ではない、流れ者の楽師ではないか。

 こんなことでは……ウィラミナは思った。こんなことでは、彼の生来ある魔性と神秘が失われてしまう。彼はいつも独りでいるべきなのだ。独りでいるからこそ、その美しさも鋭さも恐ろしさも増す。彼は、あんな風に笑ったり、誰かと楽しそうに語り合ってはいけないのだ。あくまで孤独で、そうやって毒を強めていって、今に一睨みで生命を奪うだけのものにならなくてはならないのだ。そういう人間なのだ。人と語らう時があるとしたらそれは、あくまで必要最低限の時だけ。例えば商談だとか、軍議だとか、国賓を招いた時など。とにかくそんなことはあってはならないのだ。アスンシオンは自分の知らな内いに自分の素質と天性を濁らせてしまっている。

 もしかして、あの方は自分の持つ魔性と天賦の才能に気付いていないのか? だとしたら自分が助けて差し上げなければ! 早くしなければ手遅れになってしまう。手遅れになってからでは遅いのだ。

「くっ……・」

 歯噛みすると、ウィラミナはその場から走り去った。ここにいても仕方がないことを、この賢い女はわかっていたからだ。途中誰かとすれ違ったが、挨拶も忘れて彼女の頭の中は策略でいっぱいだった。

 


 そしてこの時、彼女とすれ違った誰かこそ、琳藍の将軍では最古参、今年六十二歳にして今だ現役の軍人、ユラデュラ・レッスルデイヴである。彼は若い頃から宮廷に仕え、そしてまたアスンシオンに剣術を教えた張本人でもある。早くに父を亡くしたアスンシオンにとって、このユラデュラ将軍が彼の中で占める位置は非常に大きいといえる。

「…………」

 ユラデュラはウィラミナの走り去った方向を振り返り、彼女にしては珍しいことだと思いを巡らせ、そしてまた歩きだした。しかしその表情はどこか沈鬱で、小春日和といってもよい外の陽の光の明るさとは好対照だ。ため息をついてユラデュラは、もっと風にあたろうと回廊から庭へ出た。

「―――――」

 老将軍はまぶしさに目を細める。外はこんなにも明るかったのか。

 そして何より、あの美しい二人が何の屈託もなく語り合うその輝かしさに、将軍ユラデュラは目を細めたのだった。

 あのお方は、あのようにして笑う方であったろうか。ふと疑問がよぎる。

 ユラデュラはアスンシオンの幼い頃―――――生まれる前から彼を知る、現在では宮廷内で唯一の人間である。アスンシオンは、幼い頃から不幸な少年時代を送ってきた。父を早くに亡くし、従兄や叔父と熾烈な後継者争いを続けてきた―――――本人の意志とは関係なく。そしてその恐ろしいまでの鋭い容姿に母親ですら恐れをなし、面と向かって彼を罵った。その時の、アスンシオンの次第に水が凍っていくような、見る見る内に堅くなるその表情を、ユラデュラは忘れることができない。あまり笑わないお子だ、そう思ったことだとて何度となくある。あの方は、あんな風に見る者のこころ和らぐような笑顔を持っていたのか。こんなに長くお仕えしているというのに―――――少しも気づかなかった。

 アスンシオンの意外な一面を今更知ったということも手伝ってか、ユラデュラの心は益益重苦しくなった。

 実は、先の夏の洪水の折、アスンシオンが提案した竹垣の堤のことなのだが―――――ユラデュラはどうしても納得ができない。国王の民を案ずる気持ちはよくわかる。しかし結局それも運命、洪水が天意ならば、またそれによって生命を失う者も天意によって死んでいっているのだ。それを助けたいと思う気持ち、ひいては洪水をどうにかしようとか食い止めようとか思うことは、天のすることに対する反乱ではなかろうか。ユラデュラはそう思えてならないのだ。

 そして彼だけではなく、会議に参加する者のほとんどがそういった意見であったことも無視はできない。国内の評判もよくなく、堤をつくったことによる被害の少なくなったこととは別のものとして、自然のものに手を加えるのはどうにもよくない気がする、恐ろしい、果ては傲慢だとも言う人間が多い。傲慢とまでは思わないが、やはりユラデュラは洪水をどうこうしようという考えは反対だ。

 その反面、毎年それによって苦しむ民をなんとかしたいというアスンシオンの気持ちも痛いほどよくわかるので、その相反した気持ちに彼は両挟みになり、それで沈鬱な面持ちであったという訳である。ごく少数の賛成派も、アスンシオンの考えを理解したというわけではない。その方が誰もが幸せになれるという考えのもとに賛成しているのであって、アスンシオンの革新的な考えが理解できる者は、恐らくいないのだろう。

 ユラデュラは思った―――――もし堤を造ることが天に対する反逆だという自分の考えと、心から尊敬する主君の苦肉の策の、どちらかを選ばなければならないとしたら、自分はいったいどうすればいいのかと。

 彼は六十二歳の今日まで、己れの信念を守り、貫き通してきた。

 今の自分は、その信念を守ってきたから在るといっても過言ではない。つまり彼にとって信念を貫く事は、存在を守り主張していくことでもある。生きていくには絶対必要なことだ。それを曲げてまで、自分は果たして主君に忠義を尽くすことができるだろうか? 

 自分が己れの信念を貫いて生き、その自信の上にあってこそ自分は軍人であり、だからこそ主君に仕えられるというのに? 自分を持っているからこそ忠実になれるというのに、その自分を捨てて、果たして大丈夫なのだろうか――――。


   濃露繁霜 著けども無きに似

       幾多の光彩 庭除を照らす

       何ぞ須いん更に蛍と雪とを待つを

       便ち好し 叢辺 夜 書を読まん



 明るい陽射しを避けるようにして、ユラデュラはそこから立ち去った。今の陽光は、彼にはあまりにも眩しすぎ、明るすぎた。



 アスンシオンの国内の評判は、留まるところを知らないかのように悪くなっていった。

 将軍や側近連中ですら理解できない竹垣堤を、どうして民が理解できようか。いつの時代も守られている者というのは、今与っている恩恵に気が付かず、却って庇護者を攻撃したがるものなのだ。しかも彼らはまた臆病でもある。洪水で死者が出たり国の経済が大きく左右されるのは確かに辛いことだが、だからといってその洪水をどうにかしようなどという考えは言語道断、そんなことは天の意志に逆らった行為、そんな事をしてしまえば、琳藍は今度こそ天の怒りをかいどうなるかわかったものではない。きっと滅亡よりもひどい苦しみを、誰にも等しく与えられてしまうに違いないのだ。ならば毎年悩むほうがよほどいい、敢えてそちらを選ぼう、彼らの考えはこうである。

 そしてまた同時に、そんな恐れ知らずのアスンシオンの考えを、彼がわざわざ民のために考案したということもよくわかっていないままひどく批評した。悪し様に罵る者も少なくなかった。

 そしてそんなアスンシオンは、誰にも理解されず、強力で恐ろしく、強力で恐ろしいがために孤独な、まるで空の紫星のようだと評されるようになった。これは空に浮かぶ七つの星のなかで最も輝きが強く、そして一番強力だと言われる星である。紫星は宇宙の中心だともいわれているので、例えられればそれなりのものだが、しかし例えられようがあまりにも悪い。



 〈 国王は紫星のように気高く、

         強く、恐ろしく、そして孤独 〉―――――。

 琳藍に冬がやってきた。

 山に囲まれたこの国は、秋の最高の美しさで彩られ冬になっていよいよその荘厳さを増す。琳藍の冬は旅の価値あり、とわざわざ他国で言われるほどである。雪に囲まれ、普段嵐のような激しい流れですべてを呑み込む河の流れも、静かに静かに凍っていく。その静けさたるや、絶句息を呑むとしか言い様がない。多くの詩人が冬の琳藍を訪れては美しさに涙し、数多の詩を作り上げてきた。

 スキエルニエビツェはこの日、冬の五つ衣藤(上から紫・淡紫・淡紫・白・白・朱)を纏い、国王アスンシオンと共に彼の部屋にいた。アスンシオンはスキエルニエビツェが紫を着ることを殊更に好む。確かに、白い肌に紫が上からかかると、なんともいえずに凛としていて、見惚れる。この男の趣味の良さはこういうところにまで及んでいるのだ。であるから、春の襲は白躑躅(表白・裏紫)を特に好んでもいた。


       庭上の一寒梅

       笑って風風を優して開く

       争わず 又た力めず

       自ら百花の魁を占む



「…………」

 〈 庭先の一本の梅の木、

   寒さの中に風雪にもめげず、笑うがごとく花開く。

   競うのでもなく、また努めるのでもなく、

   それでいて、おのずと多くの花の魁となっている。 〉

 多くの魁―――――。

 アスンシオンは窓から見える白梅の木を見ながら遠くをみていた。

 山を越え空を越え、すべてを越えて何も見ていない瞳。

 自分は幼い頃から国王としての器を要求されてきた。幼いということは、何の言い訳にも理由にもならなかった。

 先代の一人息子、ただそれだけで闘争に巻き込まれ……従兄とも叔父とも戦ってきた。 幼いゆえに己れの意志など周囲には関係なかった。何の関係も……。


 『 なんて恐ろしい子なの! 』


 アスンシオンは瞳を閉じた―――――。つい先程のことにように鮮明な女の罵声。自分を見る目は、侮蔑と嫌悪と憎しみに満ち満ちて。

 美しく冷たく華麗で、残酷な

「陛下? いかがされました?」

 スキエルニエビツェの声が鼓膜に響く。明るくて朗らかな。このように静寂を纏ったように静かな時もあれば、まるで春先の蝶か兎のように溌剌としていることもある。

 アスンシオンは指を彼女の顎に這わせた。頬に触れ、首に触れる。そして肩に手をまわし、そっと引き寄せる。スキエルニエビツェは柔らかく瞳を閉じてされるがままになる。

「私は白梅が一番好きだ」

 ぼそりとそんなことを言う。

「ふふふふ……だから年寄り臭いといわれるのかな」

「あら、そんなことはありませんわ。私も花の中では梅が一番好きですもの」

 花は桜と人は言う。桜は賑やかすぎる。桃は咲き方に情緒がない。その上、散り方も見苦しいとといったようなことをスキエルニエビツェは言った。

 アスンシオンはふふふ、と低く笑った。

「珍しいな……お前がそんなに多弁になるとは」

 女は不思議そうな顔をした。それから、

「きっと陛下のせいですわ」

 少女のように……アスンシオンの腕の中で、スキエルニエビツェは言う。静けさと、落ち着いた瞳の光が、そして相反して時折見せる屈託のない笑顔、溌剌とした声が、彼女を四十の熟年にも十七の少女にも見せる。

 スキエルニエビツェを解放し、アスンシオンは瞳を閉じ、肘をついて小さくそうか、と呟いた。口元には笑みすら浮かんでいた。

「では我々の好きな梅の歌をもう一つ所望しようか」

 スキエルニエビツェは大輪の花が咲いたような笑みを浮かべ、はい、とうなづいた。

 ポロ……ォォンンン…………


   牆角 数枝の梅

   寒を凌ぎて独自に咲く

       遥かに知る 是れ雪ならざるを

       晴香の有りて来たるが為なり



〈 土塀のすみの梅の木の数本の枝が、

  寒さをものともせず、自分ひとりだけ花を咲かせた。

  遠くからでも、それが雪ではないとわかる。

  どこからともなく、ゆかしい香りが漂ってくるからだ。 〉



 アスンシオンは肘をついて梅の木を見ながら歌を聞いていた。

 美しく冷たく華麗な―――――我が母。

 その手で我が子に毒杯をまわした母―――――。



 スキエルニエビツェがそのことを明確に知ったのは次の日のことだった。

 それはふとしたきっかけだった。スキエルニエビツェと親しくしている侍女が、たまたま母の代から王宮に仕えていて、それで詳しい話を知っていたのだそうだ。

 誤解されやすい方なのです、……母君にあんなことをされたのですもの

 スキエルニエビツェはそれで衣装を畳む手をはたと止めた。

「―――――母君に? ……何を?」

 侍女ははっとした顔になり、それから口をつぐんだが、相手が彼女ならばと思ったのであろうか、それとも、既に男女の関係となっている二人のことを見越しての事だろうか、口篭もりながらも話し始めた。

「……先王が早くに亡くなられたのには理由があるのです。あまり知られていないのですが……先王は現国王陛下がまだ王子であられた時に、王子……現陛下を助けるために亡くなられたのです」

「どういうこと?」

「―――――お二人が河に出られた時のことです。流れが急な場所へ誤って行ってしまい……先王は溺れた王子を助けるために河に飛び込まれ、王子を岸に上げるのが限界で、御自らはそれで力尽きて溺れてしまわれたのです」

「―――――」

「泳ぎの得意な方であったと……聞いています。よほどに急な流れだったとか」

 スキエルニエビツェはその光景を想像してみた。

 自分のせいで父が早い流れに飛び込み、自分を岸に上げるまでが精一杯で父が死んでしまった―――――それを自分で知っている。

 アスンシオンのあの影……なんとなくわかる気がする。

「先代の国王夫妻はそれは仲がよろしくて……王妃さまの取り乱し様は、それは凄かったといいます。前からあまりお優しい母君とはいえなかったようですが、その日から益々ひどくなられたそうです。王妃様が陛下を罵るところは、見ていられないと母がよく申しておりました。まるで地獄のようだと。その罵り様は尋常ではないと。恐ろしくて恐ろしくて、それが始まると皆物陰に隠れて耳をじっと塞いでいたそうです。聞くに耐えない……そんな形容がぴったりだと、申しておりましたわ」

「…………」

 自分が愛していた夫を死に致らしめたからといって、実の息子をそこまで憎むものなのだろうか? 愛していた男との子だからこそ、一層慈しむのでは?

「――――― 」

 しかしそれは価値観の相違には違いない。自分がそうだからといって、必ずしも万人がそうだとは限らないのだ。そして聞くところによると、何度も何度も公然とアスンシオンを殺そうとしていたという。毒杯をまわしたり、寝間に蠍を放ったり、稽古用の剣の、目釘という剣と柄とをつなぐ釘を一本外していたりなど、実際それが理由でアスンシオンは何度か生命の危険にさらされたという。

 スキエルニエビツェはようやく悟った。

 アスンシオンのあの瞳に宿る底無しの絶望と虚無―――。

 幼い頃より何よりの安らぎの園であったはずの母という存在に、正面きってひどく罵られ、憎まれ、果ては殺されかけたことが数度もあったのだ。何より愛し、何より慈しまれる存在であるはずなのに、こんなにも憎まれている。嫌われている。

 実の母に殺される!

 幼いアスンシオンの心に、それはどれだけの影を落としたことだろうか。不安でない時など一瞬でもない、振り向けば殺される、部屋へ行けば殺される、その椅子に座れば殺されるかもしれないのだ。

 母に! 幼いアスンシオンの心は一時たりとも安らぐ事がなかっただろう。それは実に十一年間、父王の死した日から即位の十六歳まで続いたという。

 よく狂わなかったものだ、スキエルニエビツェは思った。人間は生命の危険にさらされるという極度の緊張状態にいると正気を失う。

 緊張が長く保たないからだ。そして緊張という鎧を奪われ、恐怖に打ち勝てなくなって狂う。アスンシオンの強靭な精神力―――――それがものをいったに違いない。 しかし幼い頃から王位をめぐって凄まじい抗争を続けてきたアスンシオンが、一方で母に生命を狙われているというのは、いかな思いであっただろうか。それがどちらかだけならばまだよかっただろう。心が疲れても決して自分を安らぎに導く者はいない。夜が明ければ血を分けた者たちとの醜い争いを繰り広げなければならぬ。

 彼らが自分に毒を盛らないとも、母が自分に毒を盛らないとも限らぬ。それでは今持っているこの杯、これはどうだ? 毒が入っているのか? 入っているのならどちらだ?  叔父か従兄か、それとも母か? 食事の度、眠る度、椅子に座り庭に出る度、アスンシオンはそれらの恐怖と戦ってきた。たった五つの時分から。

 朝起きる。着替える。服に毒針が仕組まれていないか? 大丈夫。顔を洗う。盥の水も安全か確認が必要だ。歯を磨くにも、異常がないか確かめなければ。前に一度毒が塗られていたことがあった。

 量が少なくて助かったが、強運に救われただけに過ぎない。口を濯ぐ前にも、器と水とにそれぞれ異常がないか確認する。顔を拭くための布も要注意だ。部屋を出るとき、ノブにも気をつけなくてはならない。引き戸の時は、開けた途端に刃や仕込み槍が飛び出ないように用心しないといけない。庭に出るとき、或いは庭に通じている吹き抜けの回廊を通る時は、必ず五人以上の信頼できる兵士を置いておかなくてはならない。いつ誰が抜き身の剣を引っ下げて襲ってくるかわからないからだ。椅子に座る時は必ず指で押してみて何も入っていないか確かめる。香を新しく薫く時は誰かに必ず確認させる。最近読む本の位置が、置いた時と微妙にずれていたりしないか? 読書に手袋は欠かせない。紙に染みついた毒が、皮膚から吸収されるかもわからない、めくりにくいページを思わず指で舐めてしまうかもしれない。食事に毒味検分役は不可欠だ。それで十九人が生命を失い、七人が人事不省に陥った。入浴も油断ならない。入り口に三人、着替え場に三人、最低でもこのくらい配置しておかないと、こちらが一糸纏わぬ姿を向こうはよく狙ってくる。そしてやっと一日が終わり、眠りにつくからといって気を抜いてはならない。ベットに入る前に、天井やベットをよく見て、蠍や毒蛇がいないかを確認する。枕の色は変わっていないだろうか? 変わっていなければ大丈夫だ。毒針が入っていないかも確認する。そして眠る―――――枕の下の抜き身の短剣。

 外を兵士に守られているからといって敵が入り口から来るとも限らない。バルコニーから来ることもある。そしてやっと一日が終わり、また朝が来る―――――。

 慣れた頃に油断がやってくる。慣れたと思う度窮地に陥った。

 そんな生活をアスンシオンは、実に十一年間続けてきたのである。もっとも、即位は十六歳だったが、英雄や天才は早くから器が違うとはよく言うもので、十四歳の頃には、彼は叔父と従兄との抗争に勝ち、両者とも今はこの世の人間ではない。同時に長老や大臣たちを味方につけ、成人と共に即位した。しかし、彼にとって辛いのは、従兄や叔父との熾烈な戦いよりも、それが終わってからも尚安らぐことのない母の悪意、お前を愛していますよと珍しく優しく言った傍から、平気で毒針の仕組まれた服を着せようとする母の激しい剥き出しの憎悪ではなかったのだろうか。あれから多くの年月が経ち、多くの者は死んでいった。今それを実際にその目で見その耳で聞いた者はただ一人ユラデュラ将軍ひとりとなってしまった。

 自分は母にも愛されない―――――無条件で愛を注いでくれる唯一の人のはずが、憎まれ嫌悪されている。無条件で愛をくれるはずの人間にすら憎まれる自分の、何と価値のないことよ。

 深い絶望―――――。ああ……生きながら奈落の底に落ちていく気分だ。真っ暗できっとどこかを殴られてもわからない程に暗い。

 何の光も音もない……・

 光も

 音も……

 アスンシオンは飛び起きた。全身が汗に濡れている。見ていた夢のあまりの気分の悪さに手を額にやり、眉根を寄せる。鼓動が早まっている。ふと顔を上げると、誰かいる。

「―――――陛下? いかがされました?」

 アスンシオンは一瞬それが誰かを忘れた。彼女は窓から差し込む青い光を背に、白い肢体を浮かび上がらせている。

「…………」

 その光の中で微笑む……スキエルニエビツェ。

「……お前か…………」

 汗を拭いながら、アスンシオンは弾む息をおさえて呟いた。

 夢……なんと嫌な夢か。もう忘れてしまったと思っていたのに。

 奈落へ落ちていく夢。愛する人間に蔑まれ、愛する人間に憎まれる。愛する人間に嫌悪され、愛する人間に裏切られる夢を。

「陛下?」

 スキエルニエビツェがそっと覗き込む。その美しい身体。美しい瞳。それにもまして負けることのないその心。

「汗を……悪い夢でもご覧になっていたのですか」

 側にあった布で自分の汗を拭いながら、スキエルニエビツェは聞いた。その手を取り、言葉に答えずに、アスンシオンは言った。

「起きていたのか……」

 スキエルニエビツェは闇の中でふっと微笑む。

「月が美しかったので」

 ふと窓に目をやると、確かに凄い月だった。生きているかのようにおおきく、蒼いのにどこか銀色で。人を喰ってしまうような美しく恐ろしい月だった。



 『 母上? 』



 どこかで杯が割れる音がした。いや、幻聴だ。

 アスンシオンはため息をついた。裸のせいか肌寒い。大分前から起きていたのだろう、スキエルニエビツェは普段肌着とされる薄衣を一枚羽織っている。

 突然身体を奪った自分を怒っていないのか、尋ねた自分に何のことだと答えた。そんな彼女を愛した。

「…………母が死んだ夜もこんな夜だった」

「……」

「凄まじいほど月が近くて……青かった」

 アスンシオンは夜着を上から羽織って窓に歩み寄り、月を見上げた。

 瞳を閉じると思い出す―――――ゆっくりと床に落ちる杯、血を吐く母。そして倒れる。 杯が割れる。一瞬の静まり、そして蜂の巣をつついたような凄まじい騒ぎ。その中に立ち尽くす自分。憎まれていた、蔑まれていた、それでも自分が母を愛していることに気付いた一瞬だった。

「母は……よく私に毒杯を回したものだった」

「―――――」

「皮肉なことに……死んだ直接の原因は杯に盛られた毒だった」

 スキエルニエビツェはアスンシオンを見上げた。その背中……紫星といわれるほどに孤独な背中だ。そこには万人を愛しながらも誰にも理解されない淋しい男の姿があった。

 国王でもない紫星でもない一人の男。

「…………」

 スキエルニエビツェは窓辺に歩み寄り、その背中にそっと寄り掛かった。

 その暖かさ……アスンシオンは救われた思いがした。

「……もう休まれた方が」

「……わかっている。わかっているが――――― もう少し」

「……」

 二人の夜は長い。

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