第二章 紫星の風 4
河の治水の話は、その日国王と側近だけを交えた会議でも取り沙汰された。とりあえず話だけは聞いておいて、それから大勢で策を練るほうが効率的だからである。しかし国王アスンシオンはここでも猛反対をくらう。
その発想があまりにも突飛で斬新で、凡人には少々理解しがたいというのが理由であった。
アスンシオンの案はこうである。
河というものは必ずしも直線を描いて流れるものではない。大きくうねったり曲線を描いたりして流れるものだ。流れが激しかったり曲線が理由でその部分から洪水になったりするのだから、その部分を石垣や竹垣などで壁を作って流れを変え、増水やそれに伴う洪水を未然に防げばいい―――というのが彼の草案であった。
これは数十年のちになって『アスンシオンの治水堤』と呼ばれて何百年もあちこちの国の河を洪水から守るものとなり、後世の人間から尊敬と感謝の気持ちを集めることになるのだが、何にせよ今現代では非常に非凡な考えであった。素晴らしい案である。しかし、その素晴らしさを理解できる人間が残念ながら彼の周囲に一人もいないというのが、アスンシオンの不幸の一つでもあっただろう。
「無理がありすぎます」
側近の一人が眉根に皺を寄せて苦々しげに言った。
「そんなことは無理に決まっています、陛下」
「失敗したら大事ですぞ」
「どこが大事だというのだ。きちんと考えて垣を作れば失敗したところで被害はない。私は幼い頃から洪水に苦しめられる民の姿を見てきた。それでどれだけ彼らの生活水準がおとしめられているかも。彼らのそういった苦労や舐めてきた辛酸が報われた試しはないと言うのはどういうことだ。私はどうしても彼らにいま少し幸福な生活をしてもらいたい。今幸福ではないというのではない、もっと上の幸福を追求できると言っているのだ。そのためなら少々の苦労や出費を厭わない、それが国を統べる者の役目ではないのか」
気まずく黙り込み、困惑してお互いの顔を見合わせる者、困った国王だとあからさまに不快な表情を浮かべる者、顎に手をやって今の彼の提案をもう一度前向きに検討している者。室内を占める人間の表情は実に様々であった。
「……」
本当は優しい方なのだ。スキエルニエビツェは部屋の隅に座りその様子を見聞きしていてそう思った。巷で聞くような恐ろしい、という印象とは程遠い。
( ―――……――― )
スキエルニエビツェは伏し目がちになって昨夜のことを思い出していた。
アスンシオンは昨晩、スキエルニエビツェを奪った。それまで、男を知らない身体ではなかったけれど、スキエルニエビツェははっきりとした好意をアスンシオンに抱いている。この優しさと類い稀なる知性と、そしてその影に潜む重く暗い影……。
「―――――」
しかし熱い想いではない、実にそこはかとない想いだ。淡い淡い、今にも消えてしまいそうだが、しかしちゃんと存在する、それはその心に暗い暗い影を落としたアスンシオンと、あたかも風のように流れ流れて己れの感情のままに放浪を続けてきたスキエルニエビツェにふさわしい想いであった。それは恋以前、アスンシオンが彼女をどう思っているかは別として、平生から特定の誰かに特別な感情を抱かないスキエルニエビツェには珍しいことであった。
「行くぞ」
スキエルニエビツェはアスシンオンの声で我に返った。
会議が終了したのである。最も、側近の面々の表情を見ていると、納得のいかないまま国王に一方的に解散を命ぜられたという感がある。
ざわざわと室内に残って話し合う彼らを尻目に出ていくアスンシオンを、スキエルニエビツェは慌てて追った。
今年の夏―――……・どうやら波乱含みだとスキエルニエビツェは思った。
そして六月に入り、琳藍は梅雨を迎えた。この時点ではまだまだ幾つもの問題点が残るので試験的に一部の増水地点に竹垣や石垣などを設置することになったが、国内の評判は決していいとは言い切れなかった。国王の側近連中の、この案に好意的な面々ですら半分も理解できないというのに、一体民のどれだけがアスンシオンの考えを理解できただろうか。それどころか、洪水に備えて色々としなくてはならぬ準備や食料の保持など、忙しい時期に訳の分からぬ重労働をさせられて、不満は募る一方だったようだ。ここでどれだけ国民からの信頼を取り戻せるかが、国王としてのこれからの基盤ともなるべき大事業の一端を任うことは、宮廷では誰の目にも明らかであった。
今回試験的に垣が設けられたのは洪水の起こる数十箇所の内、琳藍に近い場所と麓に近い場所、そしてその中間地点の三箇所であった。洪水が起きるのはいつと決まったわけではなく、全く自然のきまぐれによる。しかし決まっているのは一回だけではなく、必ず二度三度と分けて訪れることであった。いつ来るかもわからない洪水に、琳藍城下の者はともかく他地区の国民の経済的負担と心因的な不安は相当なものであった。アスンシオンは若かりし頃、お忍びで歩いた城下とその他の地区の洪水で苦しむ者たちの姿を実際にその目で見、その耳で苦情を聞いたりしていたので、親身になってこの事業に取り組むのは当然かもしれなかった。
洪水に対する不安さえなければ、彼はいつも思う。
洪水に対する不安さえなければ、民は経済的にもっと安定した生活ができるはずだ。それが続けばもっと別の事に力を入れる余裕ができるはず。そうすればひいては国が豊かになることにも繋がる。己れのためではない、国が豊かであること、それがどれだけ民にとって幸せであるかは、わかっているつもりだ。
美しい楽師の創り上げる幻想的な音色を聞きながら、アスンシオンは池の蓮をじっと見ていた。ふと目をやると、口元に笑みを浮かべてスキエルニエビツェがリュートの演奏に熱中している。こちらの視線に気が付いたのか、手を止め顔を上げる。
―――――こうして、自分の視線を恐れもせず受けとめた者は、目の前にいるこの女一人だ。
―――――母でさえ。
瞳を閉じると、いつも先程のことのように浮かぶ、完全に目蓋に焼き付けられたあの情景とあの声。自分を罵る女の恐怖と怒りと憎しみに満ちた顔。
そして瞳を開けると、自分の方を伺い見るかのような女の顔。彼女を見ているとほっとする。全てを与え、全てを受け入れ、全てを共に過ごしてくれるような黒い瞳。何事もなかったようにこうしてリュートを弾く物腰。
ポロン……
ポロ……ォォンン……
ロ……
「怒ってはおらぬのか」
ポロ……
リュートがはたと止んだ。
スキエルニエビツェは顔を上げ、瞳を見てこう問う。
「何をでございますか?」
そしてまた、ゆうべ彼に抱かれたことなどなかったかのように、何事もなかったかのように、リュートを弾く。
ポロォォォンン……
アスンシオンは自分が心の底からくつろぎ、安心しているのを感じていた。ここに来るまでに致っていつもいつも誰かに追い続けられていたような気がする。傷を負い、疲れ果て、それでも尚休むことを許されず、知らず知らずの内に無限の砂漠地獄に彷徨い出てしまったような。
ポロロロ……
心に染みいるこの音色……これを得て、初めて休むことを許された気がする。安らぎと慈愛。
蓬(表淡萌黄・裏濃萌黄)の襲を纏ったこの女を、自分はずっと待っていたような心持ちさえするのだ。
夏深まり、この山の上の琳藍にも雨の匂いが濃く立ち篭める時期が近付いてきた。
洪水はある日突然やってきて、今までがそうであったように同じような被害と苦しみと悲しみを琳藍の各地に残していった。しかし例年とたった一つ違うのは、国王の発案で試験的に設けられた三箇所の垣が、いずれも破損はしつつも、被害を最小限に食い止めているということであった。民は理解出来ないながらにも納得し、少数ではあるがこの考えを受け入れる動きが見えてきた。しかしまだまだ問題は残っていた。設けた垣が、洪水が終わった後に破損していたり完全に壊れていたりするようではだめなのだ。まだまだこの案には欠陥が多いが、しかし来年の洪水まで一年、その日までに今年よりさらに機能的なものを造り上げることが可能とわかっただけでも、この実験は成功であった。
アスンシオンは自ら部下を従え被害箇所を歩いて周り、河の流れの場所による特徴や被害を詳しく書き留めさせた。
山は所々崩れ、樹が倒れて岸に打ち上げられ、大理石の原石が剥き出しになっている様はなんともいえないむごたらしさで、崩れた家屋やその側で茫然と座り込み無気力に山を見上げる子供に致っては、胸が張り裂けるようだった。親共々を河に流され、すべてを失ったのだろう。そんな子供たちは少なくなかった。アスンシオンは宮廷に戻り洪水孤児の統計を取らせ、然るべき措置をするよう側近に命じた。何よりも率先するべきことと厳命するのも忘れなかった。
その後、三度に渡って増水と洪水がやってきたが、その度ごとに新しく設けられた垣は堤として実に機能的に働き、数十箇所の被害箇所の中でも一番被害の少ない場所であり続けた。しかしやはり問題は、その度ごとに壊れるということであった。来年へ大きな課題を残して、琳藍の長い夏が終わろうとしていた。
十月――― 。
治水工事の衝撃から立ち直れないまま、ジラードは暗澹たる思いで廊下を歩いていた。どうにもならぬ劣等感、目に見えて明らかな才能の違い、今のジラードは、抱えきれぬ巨大な岩の塊を背負わされ、その重みと苦しみに必死に喘いでいるようなものだった。
「ジラード将軍」
粘着質な声がして振り向くと、予想に違わずハールツェル大臣がいた。彼は反国王派の人間だが、その頭脳の明晰さは反国王派だからといって無視できないものがある。先王の代からの大臣で、これまでに何度も彼の案をとって政策に容れてきた。そういう味では先代も今の国王も、非常に公平な人間であったといっていい。抜け目のない茶色の瞳と、腹黒さをそのまま髪にしたような黒い髪、たぷたぷの顎は不摂生な生活を端的に物語っているかのようだ。奸智に長けており四十二歳というその年齢を時々忘れてしまうほど、自分の目論みには実に素早い動きを見せる。
「ハールツェル大臣……何の御用ですかな」
眉を寄せ、ジラードは聞いた。この男は、確かにずば抜けた才能の持ち主だがどうも好きになれない。裏表があるというか、何を考えているかわからないところがある。いつも何かを画策し、人を陥れようだとか、ひょっとするとその標的は今度は自分ではないかと考えてしまう、油断のならない部分があって、非常に気疲れのする人物である。
「いやいや、非常にお見事でしたな……あの国王の発案は」
「―――――」
この男は何を言いたいのだ―――――ジラードは密かに身構えた。
「なかなか誰にでもできるということではありますまい……そう思われませんかな?」
ジラードは悟った、この男は自分を挑発している。乗ってはいけない、乗ってしまってはいけない。
「さすがは先王の御子息でいらっしゃる。貴殿も何かとご助力を請われることもおありでしょう」
「…………」
ジラードは耐えた。彼が先王によって拾われ、将軍になるまでのことは、宮廷の人間なら誰でも知っている。それを種に挑発しようとしているのだ。
「私も先程見てきたのですよ、問題の堤を。まだまだ欠陥はありますけれどね。あれは近い未来素晴らしいものになる」
「…………」
拳を握る―――――知られてはならない、この焦り、この苦しみ、圧倒的に感じてしまっているあの国王の存在を。
「……ところで、」
ハールツェル大臣の瞳がジラードの知らないところでキラリと危険に光った。
「貴殿は、何か発案はなさらないのかな? ここらで一発我々の度胆を抜くような案を出して頂かなくては、いつまでたっても国王陛下を抜くことはできませんなあ」
「!」
脂汗――――― 。
ジラードは全身に氷水をかぶったような幻覚を感じた。
知っている! この男は、自分が国王に感じている焦り、あの強烈なまでの劣等感を知っている。知ってしまっているのだ!
ジラードはそこから立ち去ろうとした。自分は国王に、あの神が彼の為あれとわざわざつくりあげたような完璧なあのアスンシオンに何より劣等感を感じ、必死になって追い抜こうと無駄なまでの努力をしていることを否定するために、今ここからこの場所を立ち去らなくてはならない。この奸計極まりない男に、自分の弱みをすべて見抜かれてはならないのだ。しかし身体が動かない。足の裏に根が生えてしまったかのように、身体が微動だにしないのだ。石になったのか? 自問する。脂汗が額を伝い、顔を通って顎を這う。身体の震えを拳を握って抑える。それもいつ限界に達するか甚だあやしい。喉が干涸びた井戸のようにからからになる。唾を飲む。 飲もうとてそれすらもない。ジラードは全身汗まみれになってそれでもようやく残っている最後の余裕でハールツェルの言葉を一笑するかのように口元を歪めた。
しかし甘かった。ハールツェル大臣は既に、憶測ではなく完全に悟った上で彼の弱点を見極めていたのである。
「ふっふっふっ……将軍―――無理をなされてもこのハールツェルはごまかせませんぞ」
「な……何を―――……」
「これはあなたの為にもなることだ。国王が小さな失敗をすれば、そこにつけいる隙が生まれる。そこを突こうというのですよ」
「な……!」
ジラードは反論しようとした。国王がどれだけ自分に劣等感を抱かせようと、尊敬しているのは確かだ。いくら先代からの恩があるとはいえ、尊敬もできない人間に仕えるほどジラードは自尊心のない男ではない。しかしハールツェルはすべてを呑み込んでいるかのように片手を上げて制止し、さらに言い募った。
「何……立ち直れないほどのものではない。ほんの少しです。そこであなたの発案を出せばよいのです。国王がどのような状態であれ、あなたは彼に勝つことになる」
「しかし……!」
「どのような窮地であろうと躱せずして君主とは言い切れませんぞ将軍。それに、国王はあなたを敵視はしていない。あなたが発案したところで、あちらはあなたに何の負い目も感じますまい。あなたは彼に勝ち、立場は今のまま。非常においしいと思いますがね」
ジラードは目を細めた。
「しかしあなたは反国王派の人間だ。私とあなたが組んでも今あなたが話されたものが私に本当に有益だとして―――私はともかくあなたには何の利益にはなりますまい。どういうおつもりかは知らないが、お断わりする」
「ふっふっふっふ……そこはそれ……それによって私の利益にもつながるということで……」
「―――――どういうことだ」
「細かいことはあちらで……」
二人の影は廊下の向こうに消えていき……やがて扉の中へ、吸い込まれるようにして見えなくなった。
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