第二章 紫星の風 3
会議を終え、庭に出た国王アスンシオンは、池のほとりの四阿で本を読んでいたのだが、その内に疲れ、春のうららかな陽射しと耐えられないほどの暖かな風に負け、枕にもたれかかりうたたねをしてしまっていた。
竹間 門は掩されて僧居に似たり
白荳 花は開く片雨の余
一榻の茶煙 偶睡を成し
覚め来たれば猶お把る読残の書
そんな国王の目を覚ましたのは、リュートを弾きながら歌い近寄るスキエルニエビツェの歌声であった。ひどく心地の酔い目覚めであった。
「お前かスキエルニエビツェ」
「ぴったりの歌でございましょう?」
彼女はにこやかに言った。今日のスキエルニエビツェの衣装は(表白・裏紫)。春の衣装では最も彼女が気に入っているものだ。
「ふふふ……そうだな」
口元に薄い笑いを浮かべ、国王アスンシオンは起き上がった。そんなに長く眠っていたというわけではないようだ。斜め向かいにスキエルニエビツェが座り、でたらめに、しかし確実に美しい即興の旋律をリュートで造り上げながら、次の歌までの時間を楽しませてくれる。
そんな彼女を見つめ、口元に手をやりながらアスンシオンはじっと何事か考えているようだった。あるいは見とれていたのかもしれぬ、次の言葉を聞きさえすれば。
「……白躑躅がよく似合う」
「―――――え?」
演奏に熱中していたスキエルニエビツェはそのあまりにも小さな声を聞き取ることができず、手をとめてアスンシオンを見た。足を組み直して若い国王は再び言う、
「白躑躅(表白・裏紫)の襲がよく似合う」
「そうですか? ありがとうございます。わたくしも春の襲のなかでは一番気に入っている色ですわ」
いいさしてふと顔を上げ、スキエルニエビツェは国王アスンシオンが自分を見つめているのに気づいた。当初恐ろしく思えたその面立ちも、見慣れてしまえば、そして彼の人となりが掴めれば、何のことはない、昔、心の優しい少年将軍がその美しく優しげな容貌を隠して戦に望むとき、恐ろしい獅子の仮面をつけていたという故事を思い出すだけのことだ。見かけは恐ろしげだが、このアスンシオンという若い王は、非常に高い知性と理性を持ち合わせている。時々スキエルニエビツェでも驚くほど歌について詳しく、吟遊詩人のように歌を歌うことを生業としていればともかく、そんな世界とはまったく縁遠い世界の人間が知り得ているとは考えがたいほどその知識は細かい専門分野に及んだ。背が高いので立ち上がるとドキリとするが、山のような不動の静けさを含んだそのたたずまい、森のような瞳の落ち着いた光を目にすれば、もう何の不安に駆られることもない。振る舞いは至って優しく正に紳士の一言で、本当にこの人は国王なのだろうか? 手を取られて見上げながら考えてしまうこともしばしば。終始無表情だが笑みを浮かべるとなると春の木漏れ日のようなやわらかい微笑がすうっと滲み出るかのように穏やかに笑う。物腰は洗練されていて、その足の運びだけでも、スキエルニエビツェのような素人にすらわかるほどの剣の使い手とわかった。
確かにその姿勢、その視線、隙のない動きは武人そのものだが、剣すら帯びない平生は、それすら忘れてしまうほどの知性と気品が嫌味なく漂う。どうしてこれで城下で耳にしたような悪評がたつのかと、スキエルニエビツェは思ったものだった。
琳藍に来て一ヵ月、スキエルニエビツェは毎日国王に呼び出されては、時折戸惑うほどの豊富な数の歌を所望され、ここに来てよかったと実感する己れを冷静に理解していた。 そう思うことなど滅多にないということも、もうこの女にはわかっていたはずだ。
そしてもう一つ―――――。
スキエルニエビツェが国王アスンシオンを見ていて気が付いたことがある。
それは、時折彼が見せる言い様のない『影』であった。穏やかな表情にふっと浮かぶ憂えげな眼差し―――――……それは間断なく彼を狙っていた。まるで幸せの絶頂にいながら、心では家に帰って待ち受けている日常の慢性的な不幸のことをちらりと思い出したりするような、そんな何気ない表情ではあるが、とにかくその悲しげな瞳や、一瞬、ほんの一瞬だが顔に浮かべられる何もかもに絶望しきったような諦めの入り交じった顔は、到底普段の彼の輝かしさからは想像もできないほどに大きな絶望が感じられてならない。
悲観は、もうとうの昔にそのような俗っぽいものは捨ておいたとでもいわんばかりに見られない。悲観というのは一種思い込みのようなもので、自身その境遇にあることに酔っているふしが多分にある。しかし絶望は違う、スキエルニエビツェは考える。
絶望というのは、もうそこに何もないということ、何の希望もなければ光もなく、ただ魂だけを奪われたあとに立ち尽くしどうにもできず、また「どうにか」しようという気概すらなくしてしまう状態だとスキエルニエビツェは平生思っている。
アスンシオンに感じるのはそれなのだ。
もう、ここから這い上がろうとか、なんとかしなければこのまま自分は生きたまま心を死なせ朽ちていくのみだと思ったりとか、そういったものが感じられないのだ。諦め。ただそこに感じられるのは巨大な虚無と絶望のみで、そんな瞳をしているアスンシオンを見ると、他人事ながら思わず胸がえぐられるのは、スキエルニエビツェだけではないはずだ。老成したような、また悟ったような一種の悲壮感と静けさを纏い、アスンシオンは毎日を生きている。ひとたび目にすれば、途方にくれ青ざめ、立ち尽くして手の施しようのなさにまた己れも絶望してしまうような、そんな表情をアスンシオンはするのである。
しかしいつもというわけではない。むしろそんな彼の一面に気づくのは王宮の中でも一握りの人間のさらに一握りだろう。普段のたたずまいが穏やかで、その知性や教養や人格のすぐれた所を知っていて、考えられないような絶望的な表情を一瞬の何万分の一たらずの一瞬に浮かべるからこそ、ぎくりとして今見たものこそ幻ではと疑いたくなってしまうのだ。そう、その表情は、あまりにも彼に似付かわしくない。毎度の戦に勝ち、毀誉褒貶はあれ正しい政を執り、世の叡知と栄光と名誉をすべて持ち合わせているかのような国王アスンシオン。その彼に絶望などとは、太陽の神が泥のマントを纏うような似付かわしくなさ。西と東ほどの極端な相対がますます彼に影を負わせている。そう、一瞬見せる絶望の表情はまさに彼が背負い身に纏って離すことのできない影―――――。
「しかし陛下!」
激しい抗議を含んだその声に、スキエルニエビツェはぎくりとして我に返った。
場所は会議室である。今スキエルエビツェは、アスンシオンに連れられてやってきた会議室の隅、入って右の角に寄り掛かってリュートを携え座っている。当初は大臣や長老などの面々が眉を顰め囁き合い、流れ者の楽師の良い言いなりになっているのではという声も声高に口にされたものであったが、そんなものはどこ吹く風、会議の内容がどんなものであろうと口元に浮かべているのか浮かべていないのかわからない表情を崩さず、気ままにリュートを爪弾く彼女の姿は、最近では逆に慣れられてしまっていないように扱われている。
「そんなことでは早期解決にはなりませぬ!」
スキエルニエビツェは首をすくめた。激しく抗議しているのは反アスンシオン、つまり反国王派の筆頭のハールツェルという男で、女官たちの評判もあまりよろしくない。が、彼をずる賢い、計算高い、冷徹などと言う者はいても、愚か者だとか馬鹿者などといった声は一切ない。それだけでも、悪評高くとも才能は人より高いということは推して知るべきことであった。
「だからどうだというのだ。まずは民の安全。予算がそれによって大幅にくわれようとそれで民の命一人分が救われるのなら仕方ない。国というのは民あってのもの、国あっての民と思っては決してならぬ」
ハールツェルの猛烈な抗議にもひるむ様子さえなくアスンシオンは言い返した。鉄面皮とは正にこのこと、彼そのものが強烈な盾で、どのような弓矢剣の攻撃も跳ね返してしまうような頑としたものを感じる。これだけは譲らないといった姿勢がそれだけでも見て取れることができた。いったい何のことを話しているのだろう? アスンシオンが会議でこのような態度にでることはまずない。ちらりと思ったスキエルニエビツェであったが、大臣の誰かの言葉ですぐに理解できた。
「琳藍において河川事業は非常に重要な事柄のはず。あまり結論に急いでもなりますまい……そうですな陛下?」
「その通り……そして毎年の増水の季節はもうすぐそこまでやってきている。こうして毎年手をこまねくよりもよい方法があるはず……治水のための案は考えてある」
ざわ……
室内が一瞬ざわめいた。
この時代、自然というものは人にとって侵しがたく動かしがたいもの、河が増水して氾濫し、それによって人命が損なわれようとも、天意であるから仕方がないという考えがまだまだ強かった。そんな中で河の増水をどうにかしようというアスンシオンの意見は、実に画期的であるとも言ってもよかった。アスンシオンは長い会議に疲れた意志を示すかのようにため息を一つつくと、小山を思わせる長身をおもむろに起こし、
「今日はこれで閉会だ。堂々巡りの意見が多すぎて話がまとまらぬ」
「陛下。治水の案というのは」
「発想だけでまたせ理論には至っていない。今年中には無理だろう」
言い置くと、アスンシオンはそれ以上の質問を一切許さないかのようにさっさと会議室を出ていってしまった。彼が出ていった後の会議室は正に堰をきったかのような大騒ぎであった。蜂の巣をつついたような、とは、こういうことをいうのだろうか、スキエルニエビツェが思ったほどであった。彼女のような旅の空で生活する者にはわからないような、そんな重大な問題が琳藍にはあるようだった。
一見、山の上にあるので戦を仕掛けられにくく、他国よりもずっと頭痛の種がないように思っていたのだが、それはやはりよそ者の考えであったようだ。琳藍の人間にとって河の氾濫の問題はスキエルニエビツェが考えていたよりもずっとずっと深刻であるらしいことは、ここ連日重ねて似たような問題で会議が続けられていることからも充分把握できた。
「いやはやまったく……」
「とんでもない考えをされる方ですなあ」
「うむ。明日また改めてその案というのを詳しく聞こうではないか」
長老・大臣たちが口々にそう言いながら会議室を出ていくのを、スキエルニエビツエはじっと待っていた。
スキエルニエビツェはおおかたの人間が出ていったのを気配で感じ取って、顔を上げ部屋に誰もいないことを確認しようとした。
「……」
しかしそこで彼女は立ち尽くす一人の青年を見つける。
ジラード将軍である。
話に聞いたところでは、彼は将軍たちのなかでも最も若く、しかも幼い頃先王に戦地で拾われたという非常に変わった経歴を持つらしい。そんな彼のことを恵まれた境遇、どう考えても贔屓されて今の地位にのしあがったのだろうと陰口を叩くものも多いらしいが、世の中そんなに甘くないということを、スキエルニエビツェも当のジラード将軍も、そして陰口を叩いている連中もよくわかっていた。
ジラードは拳が白くなるまできつく握り締められているのを自身気付かなかった。顔面は蒼白で、肩が小刻みに震えている。唇は血の滲む程噛みしめられ、奥歯は、砕けてしまうのではないかと思われるほどにぎりぎりと音をたてていた。
―――治水事業だと!
なんという斬新な案なのだ。自分はそんなこと考えもしなかった。
どれだけ予算を少なくできるだとか、住民の居住区制限だとか、そんなことしか考えていなかった。誰でも考えることだ! だからこそ自分はいつまでたってもいつまでたってもあの太陽のように堂々として生まれながらの王者のような男に勝つことができないのだ。いや、もはや勝ち負けの問題ではないことは彼にもよくわかっていた。だがしかしそれでも、どこかで一度だけ、この人生にたった一度だけでいい、彼に対する優越感が爪の先の十万分の一でいいから自分の中に満たされれば、自分はあの小山のような太陽の化身の陰にいると卑屈にならずにすむのだ。いるだけで彼はジラードの劣等感を強烈に煽った。国王アスンシオンがジラードに対してそういう態度を一度でもとっただとか、アスンシオンがジラードを嫌っているとか、現実はまったく逆で、ジラード本人もよくわかっているのだが、あの鋭い、剃刀のような緑の瞳に無表情に見据えられ、恐ろしいまでの端正な顔に正面から見られると、もう逃げ場がない、徹底的な裁定の場に連れてこられたような恐怖に近いものが彼の心の内に生まれ出で、脂汗をかく幻想まで感じてしまう。自分は国王を好いている。尊敬もしている。できなければ仕えることはできない、常々思っているのだから、それは確かなのだ。凄い人間だと思う。しかしそう思うのと同時に、ここまで大変な偏見と共にそれに伴う嫌がらせを受けながらも将軍にまで昇りつめたジラードを、一瞥で奈落の底まで落とされたような強烈な劣等感に落としめてしまう男でもある。幼くして両親をなくしてしまうのに加えて周囲からの強力な圧力に耐えてきたジラードという男は、二十五歳の男にはない屈辱や圧力やその他の不愉快なものに対して堪え忍ぶ力が備わっている。そんなジラードを、こうまで簡単に暗闇の底まで突き落としてしまうのはこの世界広しといえど国王アスンシオン以外誰一人として存在しないだろう。
そんな彼を現実に引き戻したのは透明な張りのある声であった。
「ジラード将軍? いかがなさいました?」
気遣わしげな声はすぐ側で聞こえた。はっとしてジラードがそちらへ目をやると、スキエルニエビツェが近くまで歩み寄ってこちらを見ている。心配そうに眉を寄せ、首を心持ち傾げている。
「ご気分でも?」
「い、いや……なんでもない。考え事をしていただけだ」
ジラード将軍はスキエルニエビツェをじっと見つめながら答えた。
腰にからみ床を這う艶やかな黒い髪。襲の上にそれは、衣装には決してない彩りとして艶を添えている。
この楽師は、権力の象徴だ。
金だけでは彼女を一所に留めることはできない。風流を解さない人間には決して仕えないという。気の向くままに旅を続け、その天鵞絨の喉をあちこちに披露しては、自ら伝説を作り上げていっている。目の前の美しい女ですらアスンシオンの人柄に惹かれて琳藍に滞在しているのだと思うとなんだか無性に腹がたってきて、ジラードはそれ以上何も言わずに会議室を出ていった。それを見送って、スキエルニエビツェは窓から庭を見渡すと、ため息をついて自分も出ていった。
季節は五月、むせ返るような緑の木々に木漏れ日が光る短い期間を過ぎ、琳藍は間もなく梅雨を迎えようとしている。
水を渡り 復た水を渡り
花を看 環た花を看る
春風 江上の路
覚えず 君が家に到る
誰に聞かせるというわけでもなく、糸のようにか細い声で歌うと、サラサラと衣擦れの音をさせて部屋を出ていった。
スキエルニエビツェが初めて琳藍に来たのは春のことである。四月、春真っ盛りの頃であった。そしてその時入国に際して耳にした国王に関する良くない噂の数々が、ほとんどは彼をよく知らない者のちょっとした言葉が伝えられる度にどんどん尾鰭がついていってとんでもなく誇張されているということがわかってきた。しかしそれだけで済まされない問題もあった。わざと国王アスンシオンの悪い噂を流している者がいるらしい。それが誰かは特定することはできないが、反国王派の人間であることは確かだ。汁をこぼしただけで侍女を手打ちにしたという話もその一つで、アスンシオンは構うな、誰にでもあることと受け流しただけなのに、いつの間にかとんでもない話となって城下に広まっている。
しかし、どうやらアスンシオンが幼い頃母親に毒杯を回されたということだけは曲げようのない真実のようであった。
―――――もしかしたら、その事があの方に影を落としているのかもしれない。スキエルニエビツェはちらりと思った。幼い心に、母親に確実に愛されていない、どころか憎まれていると明確に悟る事は、深い傷を負わせ谷底に突き落とすようなものだ。
深い絶望 ――――。
もしそれらの体験が積み重なって、太陽の王者のようなアスンシオンの一瞬見せる虚無と絶望に満ちた表情が在るのだとすれば、全てが納得できるような気すらした。しかしそれだけで、果たしてあそこまで深い絶望感を感じるものだろうか? 彼ほどの人間が、それだけと言ってしまっては何だが、それごときで簡単に絶望する者はもっと繊細で、そしてこの歳までやっていけないはずだ。父親が早逝しているからだろうか? それによって幼心に国王の重圧に耐えられなかった? しかしあれだけの器の人間は、大抵幼少時代も並みの大人よりはるかに大人のはず。
―――――一体アスンシオンの身に何があったのか?
スキエルニエビツェは知る由もない。
五月も終わりに近づき、湿った風が吹くようになってきて、宮廷内にもぴりぴりとした空気が濃くなってきた。それほどまでに洪水はこの国で大きな悩みとなっているのだ。どんなものか見てみたいと思うのと同時に、それを目にするのが恐ろしいようでもあった。
ポロン…………
三日月の美しい夜、風流を好むアスンシオンは灯りを点けず月灯りを燈として窓辺に座り、リュートを弾くスキエルニエビツェを肘をついて見つめていた。
菱は浮萍を透す 緑錦の池
夏鶯千囀して薔薇を弄す
尽日 人の微雨を看る無く
鴛鴦相対して紅衣に浴す
「…………」
肘をついたまま、どこか遠くへ目を馳せたまま、アスンシオンは微動だにしない。夏には程遠く虫の声も聞こえぬ。ただどこかでしんしんと、空気と空気がこすれ合う音がわずかに聞こえるのみ。気持ちの良い夜風が池の顔を撫でくすぐったがる子供のように微かな水音をたてる。リュートの音と透明な声はどこまでも響き、山をぬって天空の彼方まで届いているかのようだ。
…………ンン……
遥か彼方の山の向こうで最後のリュートの余韻が消えて、アスンシオンはいつのまにか伏せていた瞳をそっと開けた。目の前には夜の闇から切り取ったような艶やかな黒髪を全身にからみつかせて佇む女がいる。夜の闇より尚黒く、尚静かな。
瞳は穏やかな光をたたえ、見入ってしまうような優しい微笑みが微かにだが浮かべられている。
魅せられる―――――。
「―――陛下?」
「――――― ……・・」
アスンシオンは視線を一瞬下にやり、それから庭の池に目を馳せた。そろそろ蓮が咲き頃なのか、一つ二つ固い蕾を割って咲いている。それがわずかな風が吹くたびに微かに揺れる。
「陛下……?」
アスンシオンは目を閉じた。
「誰もが私を陛下、と呼ぶようになったのはまだ幼い頃だった」
「―――――」
「最初は何のことかわからなかった。しかし日が経つにつれ……幼いながらにもわかってきた。徐々にだがな。倍以上の歳の人間が私に頭を下げ、歳の近い者たちは突き放した瞳で見るようになった」
淡々とした語り口は別段何を訴えたいというわけではなく―――……思ったこをを口にしたまでのこととでも言いたげだった。瞳は遠く、口元は己れを嘲笑するかのようにわずかに歪められている。嘲りとも微笑ともつかぬ笑み。
スキエルニエビツェは再び陛下、と呼ぼうとして口を開きかけ、そのままつぐんだ。恐らくずっと陛下と呼ばれ続け、自分の名前を呼ばれた事のほうが少ないに違いない。微かに厭っているのかもしれぬ、名前ではないこの名前を。
「近くへ」
する……流れるようにスキエルニエビツェは側に寄った。月の光が二人を照らし、一瞬息を飲むほどの美しい影を彩る。
自らの、透き通るように白いその手を取られ、ごつごつとした二つの手の中にすっぽりと入り、やがて若き国王の頬にあてられそっと唇が触れても、スキエルニエビツェはこの男を嫌がっていないことに気づいていた。
とく、とく……わずかに鼓動が高まる。熱い視線を感じるのでふと顔を向けると、アスンシオンの緑の瞳が自分をじっと見つめていた。炎の中で燃え盛りながらも尚緑に燃え続ける緑柱石のように、熱い瞳で。
切ない光に一瞬胸がしめつけられる思いがし、その直後、アスンシオンの長い腕が彼女の方へと差し伸べられ、そう思った時にはもう、スキエルニェビツェは小山のような大きな身体にすっぽりとおさまっていた。
「―――――」
スキエルニエビツェは瞳を閉じた。すべてに身を任せるように力を抜き、風の音に耳を澄ました。
ほと……と、微かな音をたてて、池の蓮が静かに開いた。
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