第二章 紫星の風 2

 その子供は幼い頃親を亡くしていた。ただ亡くしたのでは、近所の人間かあるいは親戚が引き取りもしようが、彼はそれすらもかなわなかった。彼の悲劇は、そんな哀れな孤児を引き取るだけの余裕が周囲にないときに身内を失ったということであった。

 なぜなら彼が両親を失ったそもそものきっかけ――――それが戦争によってということであるからであった。彼は戦災孤児であった。幸運にも、―――――のちに彼はそれが幸運かどうかもわからなくなってしまったが―――――彼は一人の男に拾われた。辺りがあちこち火に包まれ、廃屋となってしまった自分の家の中で、一人泣いているときのことだった。突然乱暴に運命をねじ曲げられ、それに逆らう唯一の手段であるかのように彼は声を上げて泣き続けた。男は、そんな時やってきた。全滅したはずの村を、眉を顰め、ため息を連れて静かに厳粛に重々しく。微かな、もうほとんど途切れ途切れになった泣き声を聞きつけて、不審に、そしてもしやと思い彼は声を探してまわった。白い息を吐きながら、彼はやっと泣き声の在りかを見つけだした。嘆息は白い息となった。

 そして彼は男に拾われた。

 今となれば、それは自分にとって幸せなことだったのか? それとも不運の始まりだったのか―――――それすらもわからなくなってしまっている。しかしあの時助けられなければ、今の自分になることは絶対に実現不可能だったということだけは確かだ。そして思考がそこまで致ってまた考える、

 それは幸せの始まりであったのかと―――――。

 彼にとってこの疑問は恐らく一生ついてまわる、そして永遠に解けない謎であり続けるだろう。

 ……軍

 拾われたといっても雨露しのげる場所と三食を保証されただけ、その後はすべて自分の実力でここまでのしあがってきた。大変な苦労をして手に入れたものだ。それを幸せ、と一言では言えないところが彼にとっては辛いところであろう。

 ……ード将軍……

 目を空に向ければ、目を閉じれば、それらの苦労はまるで昨日のことのようにありありと思い出すことができる。これらの出来事を、大したことではなかったさと言えるようになるまで、自分はあとどれだけの経験と徳を積まなくてはならないのだろうか?

「ジラード将軍!」

 ジラードは側近の馬鹿でかい声で飛び上がった。

「な、……・なんだレイリ大佐……どうした」

「なんだではありませんよ将軍……私が一体何度お呼びしたと思っていらっしゃるんです」

「さあな」

 呼ばれて気が付かなかったのか……ジラードは幾分自嘲気味になった。

「軍議の時間でございますよ」

 大佐にそう言われてジラードは立ち上がった。

 廊下を歩くその姿は女官たちの憧れの的と聞いても誰も驚くまい。

 金茶色の髪は窓からさす陽の光によって上質の藁のような美しい透明感のある輝きを放ち、その明るい緑色の瞳は、時々きらきらと光る髪と共に彼が琳藍の人間ではないことを端的に示している。

 ジラード・デュッファヘルフ。その名だけでも彼がよそ者であることを充分に表わしている。にも関わらず、彼は国籍を琳藍にするとき、名前を変えることを厭った。どれだけ疎まれようとも、どれだけ嫌われ、蔑まれようとも、自分はこの名前の人間として生まれてきた、この名前で生きていく以外に、自分は手段を知らない、知りたいとも思わないと頑に拒否し、そしてとうとう将軍にまでなってしまった男だ。琳藍で最も若い将軍、それが彼のあだ名である。

 二十五歳で将軍にまでのぼりつめた男。

 しかし琳藍では彼をこのように評価する者は誰一人としていない。

 彼を嫉み彼を嫌う人間だとて、彼が先王に拾われたから若くして将軍になれたのだとは、憎まれ口であっても決して言わないことだ。それは彼が文字どおり底辺から這い上がってきた真の実力者であるということを知っているからに相違ない。先王は彼を拾いはしたが、それはあくまで慈悲をもってしたこと、それ以上彼をどうこうしようとか、援助しようなどとは一切しようとしなかった。それほど甘い男ではなかった。彼はあの時幼いジラードにこう言った、

 実力を以てして、いつか私のところまで辿り着けと。決して王に拾われたから恵まれた環境にいるのだなどと言われないような苦労をしろ。

 彼は王に拾われたから恵まれた環境にいるのだ、などと、周りにそんな憎まれ口をきかせる余裕もないほどの苦労をした。

 兵士の健康上の問題から不寝番は月に二度、二週おいてという規約に反し、彼は三日続けて年上の兵士たちから不寝番を替わらされた。王に拾われたからという理由で。馬を乗りこなすのが他よりも早く、優れていると上官に誉められても、裏では怪しいものさと陰口を露骨にたたかれた。王に拾われたという理由で。剣に長けていて、一度だけではあるが教官に勝った時すらも、あいつは王に拾われたからさ、そんな声が聞こえてくるのは否めなかった。彼はずっと実力とは関係なしに、ただ王に拾われたというだけで正しい評価を下されなかった。

 しかしいつ劣等感が彼を襲っただろうか。実力がないのに王に拾われたからという理由で優遇されているのならまだしも、むしろ逆で、実力は他の人間よりもずっとあるのだ。ただ王に拾われたという理由で、訳のわからぬ不当な評価を下されているに過ぎない。言わせておけ、彼はそう思い続けて生きてきた。じきに、王に拾われたからなどとその口から言わせないようにまでなってやる。彼はひどい苦労と努力をしてここまでやってきた。それは並々ならぬ苦労であった。今思い出すだけでも血を吐く思いがする。

 そして彼は弱冠二十五にして将軍にまでなった。それはまごうことなき彼の実力で、その頃には彼を王に拾われたからという理由で不当に扱う者はいなくなり、今までそうしてきたかつて同僚や先輩たちは、彼を見ると尻尾を巻いて逃げる野良猫よろしく、こそこそと逃げてしまうのだった。

 彼は自分と、今現在に満充分足していた。誰にも、負い目や劣等感を感じたことはなかった。―――いや、一人だけいた。

「―――この件は納得しかねるな……しかし私だけでは決めるわけにもいかぬ。

 ……ジラード、どう思う?」

 話し掛けられてジラードはハッとした。ぐっと拳を密かに握り、額に汗を浮かべてこうこう答える、

「……陛下のお望みのままに」

 国王アスンシオンは小さく息をつきながら片手に持っていた書類を見た。一瞬室内が沈黙する。

「――――そうだな……それでは可決だ。文句は言わせぬ。

 金がかかるというのなら、私の個人資産からいくらでも持っていけと伝えおけ」

 国王は立ち上がった。

「閉会だ」

 ザワザワ……

 国王が出ていった後の会議室のざわめき……そんなことにすら気付かないように、ジラードは己れの言葉を反芻していた。陛下のお望みのままに。その後の国王のため息。 

 ―――――あのため息は、呆れられたのだろうか、もしかして?

 頼りにならぬ奴、お前も所栓は肯定しかできぬ無能者かと、そう思われたのでは?

 ジラードは恐ろしくて額にじっとり汗を浮かべたまま拳を握り締めていた。その拳すらも、脂汗にまみれている。もっとよく考えて発言するべきだった、いつも思うのに、いつもそうして反省するのに、どうして前の過ちを生かせない?

 国王アスンシオンは、彼が幼少よりずっとずっと側にあった、唯一越えられない存在であった。

 普通の子供が銃十度教えられて出来ることを、ジラードは三度で出来るようになる。アスンシオンは一度で覚える。彼が剣で評価されればアスンシオンはそれ以上の評価を、作戦技術で成功すればそれ以上の緻密な作戦を、自分自身に抱く自信を、やっとつけ始めた途端にそれ以上の堂々とした態度で見事に彼の自信を打ち砕く。

 影のようにつきまとい、まるで彼にとって良いことが起こるたび、見計らってそれを奪いとるかのように。

 あの日国王に連れてこられた鍛練場……大勢の兵士や少年兵士にまじって彼がいた。

 どんな大人にも負けないあの気迫。あの威厳。

 自分はあの日から少しも成長していないかのように思える―――――彼に比べて。

 いつになったら、この強烈な劣等感から抜け出せるのだろう? 

 あの国王を気にせずに自分の足取りで歩いていけるのだろうか。

 押し潰されそうな敗北感でいっぱいになりながら、ジラードは廊下に出た。

 いつか彼を越えてみせる、そう思いを馳せながら……・。






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