第一章 黄昏の姫君 9

  烈十七年一月二十日、それは突然に、そして計画的にやってきた。

 麟の国境線を全て押さえた羶の軍隊が、四方八方から粉塵を上げて麟を攻撃してきたのである。あまりにも突然のことだった。突然すぎて、リンドハーストは今までの怠惰な生活で勘がすっかり鈍ってしまったせいもあって―――なかなかすぐに対処することができなかった。国境に常時三人しかいなかった麟の兵士は簡単に数か月前から羶の兵士へと代わってしまっていた。あまりにも簡単な進軍の影に十代の少女の影が見え隠れしているのは否めないことだった。羶の兵士たちは容赦なく貧困に喘いでいた国民たちを惨殺していき、ついに王宮まで辿りつき殺戮と破壊を繰り広げていた。

 何者かが火をつけたのだろうか、煙があちこちから上がっている。

 第三の宮も大混乱だった。逃げ惑う侍女たち……しかしそれを見てダエトは一人冷静だった。

 これが自分の運命か……。ならばそれに従おう。所詮人というものは、自らの定められた運命には逆らえないもの、よしやそれから逃れられたとして、運命から外れてしまった人の運命の末路は悲惨なものが待っている。逆らうつもりはなかった、ここで死ぬというのなら、それが運命だったのだ。幸薄いと人は言うけれど、結構楽しい人生だった。

「ダエト様! お早く!」

「いいわ。ギリアン、あなただけお逃げなさい」

「……ダエト様?」

「見苦しい真似はしたくないわ。……定めなら従いましょう」

「----------」

 普段から主人の風のような生き方を知っていたギリアンであったから―――この言葉で彼女はダエトの言いたいことをすべて理解した。

「ダエト様」

「ギリアン。早く」

「……いいえ」

「---------」

「ダエト様がお逃げにならないというのに、どうしてわたくしが逃げられましょう。わたくしもお供致します」

「ギリアン……」

 ダエトは火の上がる本宮、時々窓に疾る羶の国章の入った鎧を纏う兵士の影を見て、目を細めた。

 なんという遠大な計画……あの方には本当に感心させられる。

 バタン!

「ひっ」

 ギリアンが短い悲鳴を上げた。羶の兵士が鍵を厳重にかけた扉を蹴破ったのである。煙の向こうから見えるは、両脇を羶の兵士にかためさせたマリエンフェルデ。

「-------------」

 ダエトはその凄絶な美しさにひとしきり言葉も出ない様子だった。

「マリエンフェルデ様……」

「まだ支度はできていないようね。-------あなたたちはここにいなさい」

 兵士に言い置き、彼らを戸口に残してマリエンフェルデは歩み寄った。

「ティリア」

 後ろからスッと出てきたティリアがマリエンフェルデに何かを差し出した。大きな大きな革の袋である。マリエンフェルデはそれを取り、無造作に床に投げた。

 ドサッという重い音がして、中から袋の一部がこぼれでた。金貨が数枚、そして何か文字の入っている……これは手形?

「これをあげるわ」

 マリエンフェルデは真っすぐにダエトを見て毅然として言った。

 恐る恐るそれをとったギリアンは、文字の書いてある何かを見て小さく叫んだ。

「これで八椿まで行きなさい」

「マリエンフェルデ様…………」

「あなた方は麟の人間ではないわ……これは大赦と思ってちょうだい。さ、早くお逃げなさい。じきにここも落ちる」

「……」

「そのお金で人生一からやり直すのね。今度はおかしな男にひっかからないようにして」

「マ……」

「そしてたまには便りをちょうだい。暇ができたら遊びに行くから。―――さあもう行って」

「ダエト様」

 ギリアンに促されてダエトは立ち上がった。

「マリエンフェルデ様。このご恩は忘れません」

「忘れていいわ。じゃあね」

 二人はマリエンフェルデの脇を通り抜けていった。下には二人の護衛のための兵士が待っている。王城の人間は皆殺しという命令が下っているため、二人が羶の兵士に勘違いされて殺されないようにとの配慮だ。そしてそれは、同じようにもう一人にも配慮されていた。

 第二王妃アルマンソラである。

 マリエンフェルデは同じように彼女の宮へ赴き、今まさに毒杯を呷ろうとしていた彼女から杯を奪って言った。

「竜淵までの手形と旅費よ。下に兵士が待っているわ」

「? ……」

「寄越す謎かけの文書ほど賢くないの、あなたって……逃がしてあげるって言ってるのよ」

「……私は麟の人間ですわよ」

「三代前は他国の人間だという話を聞いているわ」

 マリエンフェルデは冷ややかに脇息にもたれたままのアルマンソラを見下ろした。

「こういう言葉を知っている? 『罪は三代まで』。この罪っていうのは、血筋も含む一種の隠語なのよ。祖父が罪を犯し逃げのびたとしても、孫まで罪は残る。血もまた同じ。三代目ということは、まだ他国の人間ってことよ。あなたは運がいいわ。あと一代でも遅れてたら容赦なく殺していたもの」

 恐ろしいことをさらりと言って、マリエンフェルデは煙と炎の中アルマンソラを見た。

「あなたのおかげで退屈しないで済んだわ。だからこれはそのお礼も含めて。もうこんなに寛大になることはないでしょうね、。さあ行って。私ももう行かなくては」

 そしてまたアルマンソラも兵士に守られ専属女官グイネスと共に落ちのびた。

 逃げ惑う女たち、マリエンフェルデを見て裏切り者と斬りかかる兵士たちは精鋭の護衛の手によって次々と倒され、激しい炎と煙のなかマリエンフェルデはそんなことも意に介さないかのように悠然と廊下を歩いた。

 途中、そこで彼女はリュートを抱えたスキエルニエビツェと出会う。

「…………」

「……」

 ゴオオオオオ……

 ザザ……ァ……

 ひとしきり視線が絡み合い-----マリエンフェルデはふっと口元を崩して優美に笑った。炎に照らされ、その顔の凄まじいまでの美しさよ。

「……ごめんなさい、あなたのことを忘れていたわ」

「……」

「稀代の楽師を戦で殺してしまったとあっては私の名折れ。護衛をつけるわ。早くお逃げなさい。あなたは麟と羶には何の関係もなくただ巻き込まれただけなのだから」

「…………」

「……それともこのクズばかり住む国と心中するつもり?」

 マリエンフェルデは髪に挿していた簪をスッと抜き、また懐からも別に二本の簪を取り出してスキエルニエビツェに手渡した。

「マリエンフェルデ様……」

「これは私から……今まで随分あなたの歌に慰められてきた」

「……」

「いつの日か……私も都に行ってみたい」

 遠くを見つめマリエンフェルデは小さく呟いた。それはスキエルニエビツェにしか聞こえなかった。

「さ、もう行って。あなた達、彼女を途中まで護衛しなさい。他の人に代わってもらってついておいで。ゆっくり行くから」

 そしてマリエンフェルデはまた一人で歩きだした。

 マリエンフェルデは美しかった。

 纏う襲は氷(表白・裏白)、輿入の日に自ら持参し、唯一国王に贈らせなかった純白の襲。金の髪がそれに垂れ、緑の瞳は白と炎とを反射して爛々と輝いている。

 そしてまたその清冽なまでの白は自らの純潔を表しているようでもあった。身体は奪われようと心までは純潔と表したかのような、雪よりも更に白い白。

 追い付いた兵士と共に彼女が最後に辿りついた部屋、それは紛れもない国王リンドハーストの部屋だった。

「マママママリエンフェルデ」

 彼は抱えきれるだけの宝物を掻き集めている所だった。煙で顔は煤け、炎の熱さで汗まみれになり髪乱す様はあまりにも見苦しい。

「ははは早く、逃げよう、な……儂と一緒に……」

「まあ陛下」

 マリエンフェルデはこれ以上ないほどの冷徹な声で言った。 緑の瞳は凍り、吹雪すら思わせる残酷な瞳。

「おかしなことをおっしゃるのね。あなたはここで死にますのよ」

「なななな何の因果、で……」

 マリエンフェルデの表情が一変した。冷徹でも皮肉の入り混じっていた少女の瞳から、復讐する黒の天使のような恐ろしい顔に。

「十五年前の発巳の滅亡を忘れたか」

「---------------」

 ゴオオオオ……

 照りつける炎の明るさの中……リンドハーストの顔が一瞬凍りついてそのままになった。

「発巳の滅亡により恩恵を受けていた六公国は共に滅亡……何億という人間が死よりも辛い貧困と飢えに喘いで死んでいった。今の年号烈は発巳が滅びた呪いの記念。親交国であった羶は何千年かかろうともその記念を同じものによって塗り替えねばならぬ」

「……まさか------……」

 ゴォォォ……

 国王は絶句して言葉をうまくつなげなかった。

 マリエンフェルデはスッと瞳を細め、冷たく彼を見下ろして言った。

「そう……麟の滅亡で年号は変わる。これが羶の使命。私は羶の使者」

「マリエンフェ……!」

 それが国王リンドハーストの最後だった。斬りかかった兵士によって彼の五十二年の人生はあっけなく終わった。マリエンフェルデは死体を見下ろして息をしていないのを確認すると、大分火のまわってきた本宮を静やかに去るべく、依然悠々として廊下を歩いた。

 同じ頃、第一王妃リンカニアは国王と国と命運を共にすべく毒杯を呷っている。彼女は最後まで第一王妃だったといえよう。

 他の兵士たちと合流し将軍たちも引きつれ、マリエンフェルデは倒壊を始める王宮を悠然と歩いた。怯みも、臆することもなく。激しく燃え盛る炎の凄まじい音の影から、サラサラと衣擦れの音がもれる。

 煙の向こうから人影を見つめ、今まで冷たいまでに無表情だったマリエンフェルデの顔が一転して輝いた。

「マリエンフェルデ!」

 煙をくぐりぬけ駈け寄ってきた人影、それは彼女の最愛の兄、そして彼女の処女を奪った張本人。例え国命をかけた復讐のためとはいえ、十六の娘の純潔を卑劣漢に捧げることを厭った彼女の父が相手を誰とでもと許し、そしてマリエンフェルデは他人と交わるよりはいっそ肉親の方がいいと兄を選択した。たった一人の兄に対して肉親以上の愛を抱いている訳ではない、しかしそうすることを選んだマリエンフェルデの秘めた覚悟が、そこからも見て取れる。

「兄上……!」

 マリエンフェルデは駆け出して兄に抱きついた。しっかりとその首に手をまわし。

「ああ……」

「よくやった……さあ帰ろう……お前の故郷へ。-----羶へ」



  帰りたい、帰りたいと思いつつ、



「ええ……。私は麟の第五王妃ではなく……羶の第三王女。これからもずっと」

 その頬に触れ……兄は不敵に笑った。

 兄妹は兵士たちを従え、倒壊と炎上を続ける城を後にした。



  今日まで帰れなかった、

  我が故郷へ------------。







 ああ……。

 スキエルニエビツェはそこかしこから煙を上げる麟を小高い丘から見てかの国の滅亡を悟った。麟の黄昏、そして烈という時代の黄昏だ。

 寒い空気の中にきな臭い匂いが漂い、微かに生暖かい風が漂っている。赤い空は麟の上空だけ、後は、見上げる自分の顔も青くなるほどの素晴らしい寒空。白い息を吐きながらスキエルニエビツェは瞳に歓喜を浮かべてそんな美しい空を見ていた。

 ポロォォン……

   丘罏 郭門の外

       寒食 誰か家か哭する

       風 曠夜を吹いて 紙銭飛び

       古墓累々てとして 春草緑なり

       裳梨 花は映ず 白揚樹

       尽く是れ 死生離別の処

       冥寞たる重泉 哭すれども聞こえず

       薺薺たる暮雨 人帰り去る



「…………」

 胸が詰まる。

 あの姫君の未来や、いかなるものなのか。

 其は、黄昏の人。

スキエルニエビツェは立ち上がった。またしばらくは旅の空の暮らしである。

 さて次は、どの国へ行こうか。

 スキエルニエビツェは長い髪を簪でかきあげ、流れるけれども引きずらないようにしてまとめ、そしてまた、リュートを抱え煙を上げる麟を背後に歩み始めた。

 ポロン…………

       牡丹の妖艶人心を乱し

       一国狂うが如く金を惜しまず

       曷ぞ若かん東国の桃と李の

       果成り語無くして自ら陰を成すに



 歌声は風に乗り、炎上を続ける麟の上空にも小さく響き渡っていた。




 揺光---------揺光は全ての人間の願い星、努力だけで望みをかなえられないと嘆く者はこの星を見上げて祈るべ し。しかし断じて忘れることなかれ、この星に祈る願いは清けき願い万難 を排し てでもかなえたいと切望する者のみ許される。邪な願い己れの営利のための願い祈りし者は星の怒りをかい辿る運命は獣の末路を迎えその末期酸鼻を極め凄惨なものとなること努々忘れることなかれ。



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