第一章 黄昏の姫君 8 

 一ヵ月経った。時は既に十月、秋も盛りという季節である。マリエンフェルデはトリゴリアの件ののちも引き続いて調査を続け、ダエトを狙う者が完全に消え失せたことを確認していた。トリゴリアの監禁と共にそれらが霧消したということは、またトリゴリアの見えない罪を何より確かに実証してもいた。そして同時にマリエンフェルデは茶会の準備を始め、一ヵ月かかってやっと人を呼べるだけの支度が整おうとしていた。

「……」

 マリエンフェルデは瞳を伏しがちにしてしみじみと言った。

「……人を呼ぶ茶会の支度って、案外大変なものね」

「姫様……」

「悪いことしたわ、ほんとに」

 ティリアにはマリエンフェルデの気持ちがわかった。もう少しちゃんと下調べをしていれば、相手に無礼な真似をせずとも済んだ。

 あちらはさぞかし気を悪くし残念に思ったに違いない。

 そして今日は、その詫びをする日である。マリエンフェルデはかつて行くといって反古にした茶会の詫びのしるしに、今度は自らが采配してダエトを茶会に招いたのだ。自分がしてもらった時のように、侍女女官たちも含め。第三の宮からの返事は喜んで応じるというとのものだった。マリエンフェルデは仕返しにすっぽかされるのを覚悟して、当日の朝まで奮闘した。相変わらずリンドハーストは彼女を溺愛していたが、今までのように朝から入り浸れる状態でもなくなっていた。朝事には出ていたが、最早その内容の半分はマリ

エンフェルデのいいなりであることを知る臣下の者は数少ない。夜は夜で、仕事が終われば真っ先に第五の宮へ通うことは城内の人間ならば誰でも知っていることであった。マリエンフェルデにはこれで充分だった。あれだけ彼女に溺れ、一時とはいえ朝も夜も関係なく彼女に夢中にさせることが本来の目的の一部であったのだから。

 一時といってしまえば簡単だが、それは実に一年も続き、事実上麟のすべてを失わせてしまったといっても過言ではなかった。

 マリエンフェルデはリンドハーストに頼んでこの日一日スキエルニエビツェを借り受け彼女に共にいるよう頼んだ。スキエルニエビツェは趣向を知って直ちに承知し、一旦本宮へ赴き着替え、簪笄も整えてやってきた。

 さて午後-----。ダエトがしきりに渋い顔をして暗に嫌がるギリアンや宮の女達と共に第五の宮に言葉どおりやってきた。

「まあ……」

 庭に通されたダエトはまず最初に感嘆ともつかぬ声を上げた。

 それは、宮殿で一番美しいといわれるマリエンフェルデの庭のなかでも一番美しく風情のある場所であった。理想的な弧を描いて池にかかる橋、その周りに幻のように咲く蓮、池の上流には方亭があり、そのしつらえも見事としか言いようがない。七宝の細工は城下の職人の苦肉にして生涯最高の出来、息を飲んで目をこらすごとに味わいが変わる。風もないうららかな午後の日差しを浴びて、柳や李の木が輝いている。枯れ落ちた葉、色は変われど未だ落ちぬ葉、常緑の葉、それぞれが入り交じって絶妙ともいえる美しさを造り上げている。これはもう、ひとつの理想郷としか言いようのない美しさ、洗練された一つの宇宙ですらあった。

 そしてその方亭でマリエンフェルデはダエトを待ち受けていた。

 そこに辿りつくまで、第三の宮一行を迎えたのは優雅なスキエルニエビツェのリュートの音。ダエトは無論のことギリアンや他の女官たちも、夢心地であったと後に上気して語る。

 この日マリエンフェルデは少女らしい紅葉(表赤色・裏濃赤色)の襲を纏い、池に映る姿も麗しく金の髪に負けないほどの輝く笑顔でダエトを迎えた。客として訪れたダエトは萩重(表紫・裏二藍)とこちらは落ち着いた色合いでしっとりと秋の庭を訪れる。そしてスキエルニエビツェは紫苑(表紫・裏蘇芳)の襲。黒い髪にはこういったしっとりとして渋い色も似合えば、ハッとするほど明るい色もよく似合う。それは黒い髪のおかげというよりはスキエルニエビツェの持つ独特の雰囲気であるといえよう。

 ポロォォンンン……

「ようこそいらっしゃいました」

 マリエンフェルデはダエトの姿が庭に現われた時から立ち上がって彼女を待ち、方亭に彼女がやってきて真っ先にそう言った。

 ロ……ォォンン……

 そしてダエトを座らせ、侍女女官たちも座らせると、自分も座りティリアに合図してさっそくお茶の支度をさせた。

 オオ……ポロロロロォォ……ン

「まず一番先にお詫びしなくてはなりません」

 マリエンフェルデは神妙な顔つきになって言った。

「先だってのこと……・無礼なことを致しましたわ」

 この時のマリエンフェルデは演技でもなんでもない、素直な彼女の心である。麟を訪れて向こう、誠心誠意をもってして自分に接する人間がいるとは、彼女は思ってもみなかったのだから。

「いいえ……聞けば随分とおひどい目に遭われたとか。ああなされるのも、無理のないことでした」

 主人のそんな言葉にギリアンはほっとする思いだった。間違っていたのはダエトでなくギリアンの考え------ギリアンは浅はかにもマリエンフェルデを無礼千万と罵っていたが-------よくよく考えれば、マリエンフェルデがトリゴリアにダエトがされたようなことをされていてもおかしくはなく、実際されていたからこそ主人ダエトが茶会に呼んだのにも関わらず、国王に寵愛されているという、無欲な主人に代わって嫉妬していたギリアンは、何も見えていなかった。自分はダエトには生涯かなわない、ギリアンはこの時しみじみと思った。

 賢くいつも冷静で先見の明に長けているという処では、ダエトとマリエンフェルデは驚くほど共通している。だから、この二人が打ち解けるまでにさほど時間がかからなかったというのは、想像に易い。スキエルニエビツェの風のように軽やかな歌声に聞き入りながら、二人は語り合った。

「まあ……それではあなたは麟の方ではないの」

「国籍は移してしまったから麟の者ですが、血でいうとまったく違いますわ」



 

   高松 疏月を鳴らし

       影を落として地に描くが如し

       徘徊其の下を愛し

       久しさに及んで寐ぬる能わず

       風に怯えて池荷捲き

       雨を病んで山果墜つ

       誰か余が苦吟に伴える

       満林絡緯啼く



「わたくしの父は商人でしたの」

「…………」

「仕事の関係で麟に移り住んだのですわ」

 そしてそれが彼女にとって一生の過ちになったとは、彼女は言わなかった。彼女は運命に逆らわず、訪れたことをあるがままに受けとめる。だからダエトは今の自分を不幸だとも哀れだとも思っていない。ただ、時々この不自由な生活からそっと抜け出したくなるだけだ。

 それから二人は色々なことを語り尽くすほど語り合った。互いの趣味や考え、相手の生き様の高雅さに舌を巻き風のような生き方に感心する。数時間後には二人は、十数年もずっと付き合いを続けてきた無二の親友のような心を互いに抱いていた。マリエンフェルデは、麟に来て以来というよりは、生まれてこの方、これだけ腹を割って何かを語り合える人間がいるとは思ってもいなかった。彼女にとっては何よりの驚きであり戸惑いであり嬉しいことでもあった。

 ダエトのような人間が存在していることすら驚きであるのに、彼女のように雲雀を思わせる女性が後宮にいるのもまた信じられないことだった。

 彼女はいてはならぬ鳥籠のなかに閉じ込められている、マリエンフェルデはそう直感していた。


  

   一夜 新霜 瓦に著いて軽し

       芭蕉は新たに折れて敗荷は傾く

       寒に耐うるは唯だ東籬の菊のみ有りて

       金粟の花は開いて 暁更に清し



 重陽の菊にちなんだ美しい詩が重い霞のように辺りに滔々と流れていった。スキエルニエビツェの朗々たる歌声……これほどの歓待もないだろう。重陽というのは九月九日のことを言い、陽(奇 )数の最も大きい「九」が重なることによる。この日は邪気が発散するので、高い所に登って邪気払いの菊酒を飲むというのがならわしなのだ。九月は菊の花が匂わんばかりに咲く季節。今は十月でそれは一月も前のことだが、しかし菊の名残りは未だ庭のあちこちに残っている。そういった季節の美を見逃さない機微に長けた吟遊詩人にとっては恰好の材料であったろう。

「麟の者ではないといえば、アルマンソラ様も同様ですのよ」

 ダエトは微笑を浮かべながら新しく淹れた香茶を飲みそう言った。

「……第二王妃の……?」

「ええ。あの方の実家……母方は、国外の人間だと聞きました。今より三代遡って麟に定住したとか」

「…………」


    罪は三代まで


「-------------」

 マリエンフェルデは緑の瞳を伏しがちにした。

 彼女の頭の中をこの時めぐった考え―――――誰に予想ができただろうか、そう、ティリアですら。

 二人は日没近くになって空気が冷たくなってきたのを理由に屋内へ入った。日が暮れても話は尽きず、長時間の滞在は無礼と考え帰ろうとするダエトを、マリエンフェルデはなかなか帰そうとしなかった。最早そんな他人行儀なものの下に支配される二人ではなかった。第三の宮の侍女女官たちは主人と共に第五の宮で食事をし、夜も遅くなってから自分たちの宮へと帰っていった。非常に気持ちのよい時間であった。

 侍女たちが部屋の片付けを終え、夜中になってやっと静まった部屋―――――その部屋の窓から庭を眺め、マリエンフェルデはある決意を抱いて静かに佇んでいた。

「ティリア」

「はい姫様」

 マリエンフェルデは長い沈黙のあと振り向いた。

「今から言うものを至急用意してちょうだい」



 十一月。森の王国麟の情勢はもうこれ以上行く所がないかのように堕ちるところまで堕ちていた。

 ある日の宴では国王はついにやってはならないことをしてしまった。

 これまで第一王妃リンカニアは、どんなに自分がないがしろにされても、自分には正妃という立場が残っている、それだけが救いだという一念で乗り越えてきていた。彼女を支える唯一にして最大の武器だった。そう思うことで彼女は自身救われていた。

 しかしその日の宴で、国王リンドハーストはリンカニアの上座にマリエンフェルデを置き、臣下の者たちの猛反対にも耳を貸さずにそのまま宴を最初から最後まで続けてしまった。アルマンソラとダエトは思わず顔を見合わせ、リンカニアは真っ青になってわなわな震える唇を噛みしめていた。それが彼女に残された最後の砦だった。

 そしてある日を境に他妃たちは宴にも呼ばれなくなった。

 国王は惜しみなくマリエンフェルデの欲しいものを買い与えた。

「マリエンフェルデの欲しいもの、すべてマリエンフェルデの元へ」

 という言葉が巷では囁かれるほどだった。毎日どこから来たのかと思うほどの商人たちが王宮に出入りし、品物を持って王宮に入り、出る頃には金貨の袋を荷車に乗せていた。羽根や頭からすべて金剛石を嵌めこんだ白鳥の置物が王宮に運ばれたときは、なんと金貨が一千枚積まれたという。荒廃していく麟の城下、きらびやかな第五の宮。そこからは終始嬌声が絶えず、そして今や執政の必要すらなくなってしまった麟の国王は、またかつてのように朝から幼妻の元に入り浸っているという。

 その朝――――マリエンフェルデは本宮の寝室から窓を見下ろしていた。第五の宮だけではない、彼女は本宮にすら赴いて国王と夜な夜な睦みあっていた。衝立の向こうにはさすがに毎晩励みすぎて疲れがきたのか、深い眠りに落ちている国王リンドハーストがいる。 マリエンフェルデは寝乱れた金の髪を乱暴になでつけ、落ちていた自分の襲の一枚だけを羽織って窓に歩み寄った。朝の寒い空気も、彼女の若さの前には威力を発揮することが出来ないのか、マリエンフェルデの大理石のような白い肌はわずかに赤みを帯びてこそいるが、鳥肌すらたててはいない。まぶしい秋の朝の陽の光の下で、スキエルニエビツェが庭の石に座って歌っていた。折しも第三の宮ダエトも、姿は見えていないがその歌声を耳にしている。


        故国の山水 清暉多し

        帰らんと日い帰らんと日いて 猶お未だ帰らず

        一夜 晧鶴の背に乗じて

        遠く明月峰頭に向かって飛ぶ



 〈 故郷の山川は清らかな光の中に。

  帰りたい、帰りたいと思いつつ、今日まで帰れないでいる。

  ある夜、夢の中で白鶴の背に乗り、

  はるかに天翔て、明月に照らされた月山の峰へと向かった。 〉

 


マリエンフェルデはカーテンをぐっと握り締めて唇を軽く噛み、ダエトはそっと目を瞑り微かにうつむいた。



  帰りたい、帰りたいと思いつつ---------。



 麟はマリエンフェルデが来てから二年目の正月を迎えようとしていた。

 烈十七年である。

 その日の夜遅く、マリエンフェルデは密かに寝室の窓辺に止まった鳥を見て駈け寄り、

「ご苦労様。手紙は?」

 幾分興奮してマリエンフェルデは鳥の足環から丸められた書簡を取り出しそれに素早く目をはしらせた。

「……」

 強い決意の光が文面を追うに従ってその緑の瞳に宿っていった。

何度も何度も読み返しそれを暗記してしまうと、それでも口の中で何度か諳じて呟いた。それからその書簡を近くにあった蝋燭にくべて燃してしまうと、再び鳥を放ち、階下に向かって一目散に走っていった。

「ティリア!」


「姫様……長うございました」

「そう? 私には短かったわ。二人でこれまで頑張ってきた……。思ってたよりずっと、……ずっと短かったわ。十年近くかかるって覚悟してたのに。男なんて所詮こんなものなのかも」

「姫様……」

「私は自分のこの身の上を悲しんでなどいないわ。ましてや犠牲者だなんて。私は誇り高い羶の王女。今まで、そしてこれからもずっと」

「そうでございますとも」


 興奮を押し隠すように、二人の密談は夜中まで続いていたようだ。



 半月が経った。相変わらずリンドハーストはマリエンフェルデに飽きることも知らず溺れていたが、その裏側で、マリエンフェルデは着実に準備を押し進めていた。

「返書……」

「はい」

 マリエンフェルデは疲れた顔で窓の桟に乗って呟いた。ティリアが紙と筆を持って彼女の言葉を一言一句残さず書き留めようと待ち構えている。

「元第四王妃トリゴリア……生きたまま生皮を剥いでおしまい。ああ……鏡も忘れないようにね。せいぜい醜くなっていく自分を見せ付けてなかなか死なないようにしておやり」

「他の妃はどうなさいます?」

「……」

 マリエンフェルデはしばらく考えてから自分の意見を機械的に言った。当初それは、驚くべき内容だったが、ティリアは異論も唱えず、黙々とそれを書き留めているに終始した。 本国はマリエンフェルデの決定に反対することはできないだろう。

 マリエンフェルデは立ち上がって窓を開け、冷たい風に身をさらした。ティリアの放った鳥は彼女の目の前を飛んでいき、本宮の庭を越えて飛んでいった。どこからかリュートが聞こえてくる。そして、きまぐれにそれに合わせて歌う楽師の声も。

 いよいよ決行------。

 時は明日の朝……。

 頭上を飛んでいく鳥を影で認めたスキエルニエビツェは、リュートを奏でる手を止めずに静かに歌を紡ぎ続けた。



       目に見えぬいずこか

       耳に届かぬいずこかで

       何かが起ころうとしている

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