第一章 黄昏の姫君 6

  ダエトがマリエンフェルデの噂を伝え聞いたのは早くからであった。どの宮の妃も、必ず自分の女官を密偵として他の宮に送っている。それはアルマンソラにしてもリンカニアにしても、互いの宮に自分の女官を送っていることには変わりはない。無論他の三人の妃たちの女官もダエトの宮に入り込んでいる。どの妃もそれを知ってはいるが、あえて口に出さないだけ。そして入り込んでいる女官が誰かもわからないまま。しかしダエトは他の宮に女官を送り諜報させるようなことはしていない。露見すれば殺してしまう妃も―――トリゴリアのことだが――― いるし、そんなことをしても下らない、自分はなるべく平穏に暮らしたいと日々思っているので……女官たちが他の宮に潜りこんではいないが、それでも女官たちのする噂話というのは、宮から宮へ、また例え違う宮の女官どうしでも、顔見知りであったり知り合いであったりすれば、上の目のないところで愚痴や自分のいる宮の話などをしてしまうもなのだ。

 だからこそ情報もまた早い。最近マリエンフェルデに対する嫌がらせが頓に多いという話を、女官たちが話しているのをギリアンが小耳に挟んだのだ。やり口からしてどう考えてもトリゴリアの仕業であった。リンカニアはそんな子供じみたことはしないし、アルマンソラはもっと雅びな意地悪をする。体験済みなのだ。

「葡萄酒の瓶にはすべて砕いた玻璃が入っていたとか……」

「相変わらず新鮮さというか……独創性に欠ける方だこと」

 仕方がないとでも言いたげにダエトはため息をついた。トリゴリアに向けて言った言葉である。彼女がなぜ一連の仕業がトリゴリアのせいかとわかったかというと、自分がすべて同じ目に遭わされているからだ。

「……どうしたものかしらね」

「第五王妃様はさぞかし怯えなさっておられるでしょう」

 ギリアンも案じた様子である。

「あの方も誇りが高いから……まさか元王族の第五王妃様にそんなことをされるとは思わなかったけれど」

「ダエト様。第五王妃さまをご招待しなさったらいかが?」

「――――え?」

「女官の方も一緒に。天気の良い日にお茶会でも開いて、色々とお話をしたりすれば、第五王妃様も少しはお気が晴れるのでは」

 ダエトはしばらく庭に目を馳せていたが、それを想像してみたのか、次第に瞳が明るみを帯びてきた。元は庶民の女である。そういったことは好きなはずだ。

「そう……ね」

 振り向きギリアンと顔を見合わせると、

「楽しいお茶会にしましょう。気がまぎれるような、派手ではないけれど心の篭もったお茶会に」

 そして準備は進められた。

 とっておきの香茶、とっておきの茶器、すべてつつがなく済むように、清い水を見た後のようなすがすがしい気持ちになるような茶会に。マリエンフェルデの宮に使者も送り、無事了承の意を受け、当日第三の宮は浮き浮きとしてその時を迎えた。

 しかし、マリエンフェルデは来なかった。

「…………どうやらすっぽかされてしまったようね」

「ダエト様……」

「いいわ。仕方がないわね、あれだけの目に遭ったら、たいていは誰も信じられなくなるものよ」

 主人は物事を思い詰めないタイプである。別に傷ついた様子は見られなかったが、しかし残念だ。第五王妃も第五王妃である。来る気がなければ来ないと言えばいいのに。仕方なく茶会は第三の宮の侍女女官たちと過ごしたが、気持ちのいいものであった。それは用意したものが良いからという理由ではなく、他の宮の間者のような女官たちにも、気付いていても気付かぬふりをして平等に振る舞うダエトの普段からの気立ての良さから生まれたものであった事には、間違えようのない事実であった。

 であるから余計に、ギリアンは主人の心遣いを理解しない第五王妃に腹を立てた。

 元王族だかなんだか知らないが、どうせ浅はかな思いから急遽考えを変えたに違いないのだ。それだけ自分が時めいていることを知らせたいのかそれとも単に世間知らずなのかはわからないが、愚かな女というのは時に、虫酸が疾るほど不愉快な存在である。

 トリゴリアがいい例だ。主人ダエトはあの第五王妃を高く評価しているが、今度ばかりはギリアンは、この主人の見立ては間違っていると思っている。

 主人ダエトは、あの好色な国王によってその人生をすべて変えられてしまった。結局、どれだけ彼女が運命に逆らわず流れるままに生きようとしたところで、彼女がそれで幸せでないことには変わりはないのだ。現に今も、あの楽師の歌に故郷を思い、窓の外を見るふりをして遠い目をしているではないか。



   紅事闌珊緑事新たなり

       毎に時節に因って涙巾を霑す

       遥かに知る桜筍厨に登る処

       姉妹団欒一人を少くを


 マリエンフェルデが麟に嫁いできてから一年――――。

 この国は大きく変わろうとしていた。



「どうだマリエン。最近あまり来られなくて淋しい思いをさせているから、その詫びだ」

 国王リンドハーストは満面の笑みを浮かべてこう言った。

「儂がいなくて淋しかったろう」

 そう言いつつ擦り寄ってくる。マリエンフェルデはいつもの素晴らしい笑みを浮かべた。

「ええ。夜の独り寝は淋しゅうございますわ陛下。次はいついらっしゃいますの?」

「わからんのだよ。少々仕事を蓄めてしまったようでな……朝事に出向かんとお前に贈り物もできなくなってしまった」

「淋しいですわ。…………陛下……」

 マリエンフェルデの瞳がきらりと光った。妖しくなまめかしく、それでいて氷のように冷たい輝きを持つ瞳である。

「他のお妃の宮に行かれては嫌です」

 それでいてこんなしおらしいことを言う。男ならたまったものではないだろう。

「経費が足りないと言うのなら、国境警備隊の数を減らしてしまえばよいではありませんか。羶と麟に戦の文字は存在しませんわ。二、三人でも多いくらいです」

「うんうんそうか。そうだな。少し多すぎるな。早速後で通達しておこう」

 リンドハースト、今にも溶け落ちてしまいそうな顔である。うつむき加減でそんなことを言っていたマリエンフェルデの瞳が一瞬キラリと光ったが、それは下を向いていたため国王には見えなかった。

 何食わぬ顔をしてマリエンフェルデは顔を上げ、彼の持ってきた贈り物へと目を移した。

「素晴らしいものばかり……マリエンは幸せですわ」

 彼女はそう言って振り返った。リンドハーストは得意満面といった態である。この男は段々俗物に近くなってくる、マリエンフェルデはそう思った。それでも自分が羶にいる頃は、好色であることを除けば、なかなか評判のよい名君であったというのに。しかしその名君を俗物にまで落としめたのが他ならぬ自分だと思うと、笑いが込み上げてくるほど愉快だった。

 しかし彼女の真の目的はこんなことではなかった。まだまだなのだ。

「そうだろう。その香炉は遠く天祥から取り寄せた極上の翡翠で出来ている。陽に透かしてみると、影が緑色に透けて見えるだろう。

 そこまで質のいい翡翠でこれだけの大きさのものは世界に二つとない。

 そっちの織物は十人の織り子が三年がかりで作り上げたものだ。

 美しい金色と緑……年に数度しかとれないという絹糸を使った」

「ああ陛下」

 マリエンフェルデは勢いよくリンドハーストに抱きついた。親子ほども年令の違う二人だ。

「嬉しゅうございます。……でも困りましたわ」

 リンドハーストは顔色を変えた。

「一体どうしたのだね」

「こんなに素晴らしい香炉を頂いても、それに見合うだけのお香をマリエンは持っていませんもの。どうしましょう……香炉は使ってこそが華。これでは持ち腐れとなってしまう」

 マリエンフェルデは哀しげに顔を伏せ、哀しげな声色で小さく言った。

「そんなことかマリエン。気が付かなかった。至急ありとあらゆる香を取り寄せよう。好きなものを好きなだけ取り寄せるがよい。何か欲しいものはあるか? うん?」

 マリエンフェルデの瞳が一瞬だがまた光った。

「では……」

 しばらくして国王リンドハーストは第五の宮から出てきた。待ち構えていた臣下の者たちは、取りあえずは日中から睦みあうようなことがないようなのでホッとしていた。一旦宮に入ると、昼だろうが夜だろうが国王は夢中になると三日も四日も出てこないのが当たり前になってしまう。仕事だとか朝事だとか、そんなものは自分には関係ないと思ってしまうのだ。ただでさえ最近たまった仕事が山積みになって、やっと重い腰を上げ仕事にとりかかり始めた反動で宮通いができないというのに、また宮に篭もられてはたまらない。

「おお陛下」

「お待ち申し上げておりました。実は先だっての貿易の件ですが……」

 しかし彼らの言葉は国王がスッと上げた制止の手で遮られた。

「通達である。国境警備隊の数を常時三人までに繰り下げること。どの国境もそうだ。余計な散財はしたくない」

「へ、陛下……」

「それから。今から言う香を至急取り寄せよ」

 臣下たちは慌てて懐から懐紙を出し筆記し始めた。一つでも聞き逃しがあったら首をはねられてしまう。いや、他にどんな残酷な死が待っているかわかったものではない。

「紫砂の『落下梅』。『灰霞』。『桜柳』。『時司』。それから次から述べるのは産地が特に限定されているものではない。 『白鷺舞』そして『青月』。『雪霜』。『環林』。『海波の暦』。『天の毒』。以上だ。なるべく早く―――二ヵ月以内に調達するように」

「二ヵ月……!」

「陛下……! 紫砂の『落下梅』というと、金貨百枚の幻の逸品という……」

「他の香はなんとか致しますが『天の毒』は……二ヵ月ではとても!」

「? ……陛下…………いずれへおわしになります?」

 くるりと背を返した国王を不審に思った一人がそんなことを言うと、肩越しにリンドハーストはこう言った。

「戻るのだ。当たり前であろうが……貴様らの汚い面を見たら気分が悪くなった。一週間も仕事をしていたのだ。よかろう」

「陛下……!」

 制止の声も虚しく、国王は宮の奥へと消えていってしまった。

 臣下たちは青ざめた顔を見合わせた。これから二ヵ月の間に、この首をつなげるために他の業務を怠ってでも十種もの香を集めなければならない。どれもが高額で、しかも手に入りにくいものばかりだ。二ヵ月後、自分たちは果たして無事に生きていられるだろうか?

 彼らはそんなことを思いながらそそくさと廊下を走り抜けていった。一分一秒も、無駄にすることはできないのだ。

 そんな彼らを嘲笑うかのように、たたみかけるようなマリエンフェルデの笑い声が後ろから聞こえてきた。




 その謎かけは結局のところ最後の謎かけとなるのだが、それを知りもせず、アルマンソラも、またマリエンフェルデもいつものように送りまた受け取った。それは後年、マリエンフェルデが何度となく話しては思い出に浸っていた数少ない思い出の一つだが、彼女はその話をするときとても笑顔でいたという。

 同じようにやってきた箱の中には複数のものが入っていた。

 編み針と毛糸。

 食事のとき、肉を切る際に使う刃。

 船に乗るときに見るような、変わった結び目。


 文には一言、


    足りないものは何?


 としたためてあった。

 これにはマリエンフェルデ、ティリアと二人であらゆる文献を漁った。あまりにも考え事をし過ぎて食事が進まず、たまたま国王と二人で食事をしていた時心配されたほどだ。

 答えはみつからなかった。随分とあちこちの書物を調べたが、特にこれといって何らかの隠語であったり意味が含まれているものでもない。「足りないもの」というのというくらいなのだから、なにか合わせてみてはどうだろう、とふたりして色々やってみた。毛糸をほどいて刃で切り。それを編み針に結びつける。だからなんなのだ、という結果に度々陥った。

 そうこうする内、二週間が経ってしまった。

 もやもやした気分を抱えたまま、マリエンフェルデは窓にもたれかかってぼうっとしていた。なにも、解かなくてはいけないわけではない。わかせないのなら放っておけばいいのだ。しかし一度答えを知る快感をしってしまった以上、そして新たな謎がこうしてかけられた以上、どうにも気持ちが治まらない。悶々とした日々がすぎてゆく。ある日、庭の池の金魚がゆらゆらときもちよさそうに泳いでいるのを見て、マリエンフェルデはぱちん、と何かが弾けるかのように思いついた。

「ティリア、古語の辞書を持ってきて」

「古語、でございますか」

「そうよ。早く」

 いつもなら早くと言われれば思った以上に早く事を進めるティリアであったが、今回ばかりは勝手が違った。待っていれば時間が遅くかかるのは待つ者の常と知っていて尚、マリエンフェルデはどうしてこんなに時間がかかるのかと思うほどティリアは時間をかけてやってきた。

「お待たせ致しました」

「時間がかかったのね」

「はい。思ったよりも書庫の奥の方にありまして……」

 それは貴重な貴重な一冊であった。マリエンフェルデはある目的のために生まれたときから英才教育を受けて来たが、その彼女とて、今日の今日まで思いつかないほど、彼女の意図する古語というものは古く忘れ去られたものであった。死語、というよりは、死滅した、といってもよいほどだ。

「いい、まずは『編み物』」

「『編み物』でございますか?」

「そうよ。いいから早く」

 多少の苛立ちを込めてマリエンフェルデは急かした。ティリアは妹のような存在で、守ってくれ、助言をくれる存在だ。だが彼女は、時々その境界線を忘れて本当の妹のように振舞う。実際、そう考えているのかもしれない。

「…………Knitでございます」

 ここにいる誰もその字を読めない。その為字引きは全てたどたどしく、字を書くという形でおこなわれた。最初の編み物は、「編み物」と発音するようだと、目をしぱしぱさせてティリアが言った。発音記号がほとんどかすれて読めないという。

「次。『刃』」

 これは『knife』であった。

 マリエンフェルデは親指を噛みながらにやりとした。

「わかったわ。足りないのはこの文字よ」

 なんと発音するのかわすらないし、自分はこの辞書すら持っていない。本当は切り取ってしまいたいものだが、この城にある唯一の書物だというのなら、そんなことはしたくはない。マリエンフェルデはまたもや頭を抱えることとなってしまった。


 一方のアルマンソラは庭にいた。五月の日差しを満喫するには、木陰にいながら日向をながめるに限る。そして最近はついぞマリエンフェルデからの返事がないが、いきなり難しすぎたかもしれない、もしかして降参かな、と思っていた頃に、いい調子で第五宮から使いが来た。アルマンソラはわくわくして起き上がった。あのお姫様、若くて美しいだけでなく、頭もそこそこよろしいようだ。雅を理解するようだし、あのいちいち家柄を鼻にかけてがたがたとうるさい第四王妃よりも何倍も楽しい。アルマンソラ、退屈なのだ。

 運ばれてきた箱は大型で、だからなのか兵士が二人して持ってきた。ものものしいこと、とアルマンソラが思う側から、箱の包みがするすると解かれていく。

「あら……」

 中には辞書が入っていた。小さな古い本だ。それはしっかりと丁寧に専用の留め金で留められていて、ページが動かないようになっている。そしてそこに、留め金と共に大きな虫眼鏡が置かれている。このページを覗いてころということなのだ。

 どれどれと顔を寄せてみると、そこには辞書のあの文字の最初の綴りの部分、「K」の説明がなされているページであった。大輪の花がほころぶように、アルマンソラは微笑んだ。

 第二王妃、これで古語を少したしなむらしいとマリエンフェルデが聞いたのはその後のことであった。



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