第一章 黄昏の姫君 4


 そして信じられないことの数々は次々に、そのもの自体がそれぞれに秘め持つ悲惨さや悲劇や重要性には何の関係もなく、さりげない様子で度々麟を訪れた。

 国王はまず溺愛するマリエンフェルデの言葉に従い羶との国境線近くの警備を解いた。第五王妃曰く、羶とは協定を結び、こうして協定という名の自分がいるのだから、何も経費を無駄にすることはない、解いた警備の費用分こちらにまわせというのである。国王も、何をされても目尻を下げたままのマリエンフェルデの出身国に対して、物々しい警備をしくのは気が引ける、まるで、マリエンフェルデを愛していないようではないかと真顔で言い、その日の内に羶との国境警備をすべて解いた。そしてさすがに朝事のさぼりすぎだと反省し、出席するようにはなったが、膝に愛しのマリエンフェルデを乗せ、なにやら囁きあいじゃれあいながら会議を執り行なうといった有様で、臣下の者たちも呆れてものも言えなかったそうだ。

 もっとも国王リンドハーストが朝事に出るようになったのは、このまま政を自分がしないと出るものも出ず、マリエンフェルデとの享楽に満ちた生活を楽しめないからである。つまり民や国のことを考えてというわけではなく、ただ単に遊ぶ金ほしさに仕方なしに取りかかったというわけだ。だから極端に金になる仕事しか手をつけない。そして片端からそれらに手をつけていく。他国にこれらの評判は逐一伝わり、麟から遠ざかり商人もまた減った。税は日に日に重くなる。異論を唱える神殿を次々に焼き払い、提言する臣下たちを処刑せしめ、慈善として経営させていた孤児院や病院などへの援助も見る見る内に打ち切られていった。国は病気と飢えと貧困に喘ぎ、街は瞬く間に廃れていった。

 驚くべきは、それらを国王がしているのではなく、マリエンフェルデが国王にさせているということである。つまり、政に著しく干渉しているのである。

 他妃はっせいに、それぞれのやり方で国王を諭した。。彼女たちもまたそれらの権利を持ち、責任を負う立場にあった。第一王妃リンカニアは正妃らしく、正面から正論で物事を伝えた。アルマンソラはゆっくりとやわやわと諭した。ダエトは、やり過ぎはよろしくないでしょうとだけ言った。トりゴリアは感情に任せて火がついたように抗議した。それもまたリンドハーストには気に入らなかったのであろう、むっつりとして肘をつき、ろくに返事もしないままぷいと退室してしまった。昔の国王は提言や忠告を素直に聞き入れ、間違っていることは素直に認め、また自分からも助言を請うという、好色という「男」の部分を抜いては、つまり「公」の者としては、できた男であった。

 一人の女が国を変えた、というのは、案外言い過ぎではないかもしれない。とにかく今の麟は無駄遣いだというので警備兵の城下の巡回も城内の警備も最小限以下のところにまで減らし、警邏に咎められる心配のなくなった城下では、ならず者たちが肩で風をきって歩き、強盗殺人強姦の類いは日中街のどこで起きても不思議ではなくなった。そんな居心地のいい国のことを聞きつけた近隣の国の悪者たちはこぞって麟に集結し、益々危険な国になった麟には、益々商人が寄り付かなくなった。そしてまた一個の国としての信頼を地に落としめてしまった麟と次々に手を切る国が続出した。マリエンフェルデの事を悪く言う者は直ちに悲惨な死にを遂げ、宮廷内の人々は自分の身を護るために罪のない同僚たちを讒言して生き延びた。今や王宮は、死語となった正義、欺瞞に満ちた、互いに騙し合わなくては生きてはいけぬ場所、第一王妃の権威と共に信頼の二文字も完全に失墜した場所となった。夜毎繰り広げられる狂宴は暗澹たる城下をあかあかと照らし、人々はそれを見てため息をつくばかりであった。金貨が宙を舞い、宝物が足の踏み場もないほどにあちこちに散らばり、同じ頃に飢えと病に息絶え絶えになる者が、恨めしげに目の前で霞む城に手を伸ばしては死んでいった。一年で麟は今や完全に近隣で独立した国となり、森は枯れ、小鳥も寄らぬような国となった。そんな近隣の悲惨な状態も尻目に、最高の楽師が歌う声は相反するかのような美しい声で森に響き渡りつづけた。

 この日スキエルニエビツェはマリエンフェルデの宮に赴いて請われるまま歌を紡ぎ続けていた。そしてこの日彼女が感じた事、それは、マリエンフェルデがただの十六の無知な娘ではなく、とてつもなく才知に長けた、その若さの数倍の知性と教養と数々の機知を備えた人間だという事であった。今まで一年、輿入れからたったの一年でここまで麟を変え落としめてしまった妃であるから、若いことも手伝ってさぞかし傲慢で無知で無教養で我侭で風流を心得ない小娘だと思っていたら、まったくそれらが逆であったということに、スキエルニエビツェは多少驚いていた。それは、近くに、とても近く、口元のちょっとした歪みも見えるほどに近くなくては、わからないことだった。遠目やちらりと見たというだけでは、人間を推し量れないほどにマリエンフェルデという人間は濃く、深かった。嬌声ばかりを上げ気まぐれで政にまるであやつり人形をいじくるかのような調子で関わっているかと思えば、近間で話し、声を聞き考えを聞き、その冷静さに触れてはまるで泉か湖のよう。請う歌の題の数々などは、到底他の妃も遠く及ばぬような豊富な知識。

 羶がよくもこんな娘を手放したものだ、そう思った。

 それとも羶では彼女が基準で、他の人間もみなこんなに教養が深く思慮にも機知にも長けているというのだろうか。だとしたら羶を訪ねたことのないスキエルニエビツェは、大層な失敗を今日の今日まで繰り返していたということになる。指が求めるままリュートを奏でながら、スキエルニエビツェは退廃して居心地の悪くなってきた麟を辞し羶へ赴こうかと真剣に考えていた。

 しかしまたこの稀代の美女にして海より深い知識を併せ持つ姫君から離れるというのも為し難い。これから麟がどうなっていくのか、亡国という二文字が頭をよぎったりもするが、どのようにしてそうなるかをしかとこの目で見届けたい。経験こそが歌に生命を与え声に艶とより一層の信憑性を具えるということを、スキエルニエビツェは楽師の常で知っていた。彼女は麟に留まる事にしたのである。

「ねえ」

 しどけなく脇息に寄り掛かりながら陽の光を浴びこちらに話し掛けたそのマリエンフェルデの声とその美しさに、スキエルニエビツェはハッとした。

「翔龍に行ったことはある?」

「西の都ですか……何度か」

 スキエルニエビツェはにっこりと笑って言った。タイプこそ違うが、この世に三人の美女を挙げるとしたら内二人は間違いなくここにいよう。

「私はまだなのよ。一度行ってみたいわ。さぞかし賑やかなんでしょうね」

「それはもう……都の賑わいというのは、地方であろうと中央圏であろうと他の国の持たない一種独特のものがあります。比べものにならない、比べられないほどですわ」

 スキエルニエビツェはそう答えた。西の都を翔龍、東の都を鳳鸞といい、翔龍の城を龍城、鳳鸞の城を鳳城という。

「いつか行ってみたいわね……」

 フッとマリエンフェルデが緑の瞳を伏せた。たった一瞬のようにも、ずっとそうしていたようにも見えた。

 おや……スキエルニエビツェはふとその瞳に哀愁のようなものを感じてホロロロロ、とリュートの調子を変えた。

「それではこんな歌はいかがでしょう」


 

       鳳城 達夜 九門通じ

       帝女 皇妃 漢宮を出ず

       千乗の宝蓮 朱箔捲き

       万来の銀燭 碧紗篭む

       歌声緩やかに過ぐ 青楼の月

       香霞潜かに来る 紫陌の風

       長楽の晩鐘 帰騎の後

       遺簪堕珥 街中に満つ



「……きれいな歌ね」

 薔薇水を飲みながらマリエンフェルデは呟くように言った。 

「あいにくこれは鳳鸞を歌ったものですが」

「そんなのいいわ。同じ都なのだもの」

 それから二人は色々なことを歌や曲をまじえて語り合い、時が重なるだけスキエルニエビツェはマリエンフェルデのその見識の深さと頭の良さに内心舌を巻いた。

「こう見えてもね、割に羶では質素な生活をしていたのよ。祖母の教育の賜物なのかしら……功名富貴の心を放ち得下して、すなわち凡を脱すべし。道徳仁義の心を放ち得下して、わずかに聖にはいるべし。とか……

「むしろ渾噐を守りて聡明を退け、些の正気を留めて天地に還せ。

 むしろ紛華を謝して、澹白に甘んじ、個の清名を遺して乾坤にあれ。っていうようなのが形になったような人だったの

「-------今はそんなことを言う権利もないわ」

 これが巷で噂されたった十六の小娘よ浅はかな少女よと嘆かれている本人と同一人物なのだろうか? 本当に?

 若く美しく、意外にも聡明な妃の質問は続いた。

「どこの出身なの」

「愁蓮ですわ」

 年齢と出身地以外、あまり多くのことを知られていないスキエルニエビツェであるが--------しかし人は言う、

 その美しい声を聞けるだけで充分と。

「姫様」

 と、羶から唯一マリエンフェルデに同行してきた侍女ティリアが、頭を下げこう言った。

「陛下がお待ちでございます」

「あらそんな時間? 行かなくちゃ。ごめんなさい引き止めちゃったわね」

「とんでもございません楽しゅうございました」

 こんなことを自分が言うのも変かな、スキエルニエビツェは思いながらも、マリエンフェルデが相手だと思うと素直にそう言ってしまう。するとマリエンフェルデも溶け入ってしまうような笑みを浮かべ、

「ありがとう。また呼ぶわね」

 と言い、頭を下げて見送るスキエルニエビツェを後に、艶然と立ち上がって国王リンドハーストのもとへと向かった。

 マリエンフェルデのいなくなった部屋はまるで光が失せたようで―――― スキエルニエビツェは彼女がいなくなって初めて、その凄まじいまでの存在感に圧倒されていたということに気付いた。

 スキエルニエビツェはふう、と息をつくと、夢のように過ぎたマリエンフェルデとの時間に思いをめぐらしていた。それはまるで天上にいるような、そんな素晴らしい時間であったように思う。そしてスキエルニエビツェは、ここに致って初めて国王リンドハーストが彼女に夢中になった理由を思い知った。女で、年齢がこんなにも近い自分でさえ魅了してやまないのだ。異性にはたまらないだろう。

 しかしスキエルニエビツェは多少ではあるが気になることがいくつかあった。

 -----------姫様、ねえ……

 いくら羶から同行しているとはいえ、既に麟の第五王妃として揺るぎない地位を持つマリエンフェルデに対して、今更姫と呼ぶのはどうだろうか。

 そしてなにより気になったのは、彼女のあの言葉。功名富貴の心を放ち得下して、すなわち凡を脱すべし。道徳仁義の心を放ち得下して、わずかに聖にはいるべし。それから、むしろ渾噐を守りて聡明を退け、些の正気を留めて天地に還せ。むしろ紛華を謝して、澹白に甘んじ、個の清名を遺して乾坤にあれ。

 この二つは質素に生活し、地位名誉などには目もくれずに生きていけば、天地と気を一つにできるといったような例えで、その言葉の後今ではそんなことを言う権利もないと言った。瞳を伏せ。それは、贅を尽くした今の生活を厭っているということなのでは? そんな風になってしまった 自分を自ら蔑んでいるのでは?

 何かある。スキエルニエビツェの直感がそう訴えかけていた。

 そしてその「何か」が何かわかるまで、スキエルニエビツェは麟にいるつもりでいる。






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