第一章 黄昏の姫君 3

「姫様、お湯をお遣わしになりますか」

「ええティリア」

 窓から庭の様子を見ていたマリエンフェルデは庭から目を離さないまま答えた。マリエンフェルデの宮の、ここが寝室である。入り口の正面に彼女が今しなだれかかっている小さな窓があり、左奥には衝立、無論衝立の向こうはベットである。そして向かって右の隅から小さな通路を通って行くと、広い石の部屋となっており、ここは浴場である。丸い浴槽と、壁から突き出た獅子の口より湯が流れでる仕組みになっている。その中にゆっくりとその完璧なまでの肢体を沈め、マリエンフェルデはふう、と息をついて縁にもたれかかった。金の髪が砂金のように湯にたゆたい、ゆらりゆらりと流れている。

 その脇に香油を流したティリアに、マリエンフェルデはそっと目を開け顔を上げた。

「ふふ……別れ際の国王の顔を見た? 溶けてしまいそうにみっともなかったわ。あれではまとまる商談もまとまらなくてよ」

 くすくすと笑い強烈に夫を皮肉る様は、つい今し方まであどけない無垢な笑いと妖艶な囁きでもってして国王を惑わしていた少女と同じ人間とは、到底思えぬ。壷から香油を注ぎながら、ティリアはこれもまた口元に笑みを浮かべうなづき返した。

「完璧に私の虜ね。他愛がないとはまさにこのことだわ。見てておいで、その内に朝事の会議にまで私を連れていかないと気が済まなくなる」

「そうでしょうとも姫様」

 ティリアも強くうなづき返しながらマリエンフェルデの腕に香油を擦り込み始めた。ティリアは羶からマリエンフェルデについて来たただ一人の侍女である。つまりは専属女官であるといっていい。

「父君に報告をするまでもない……今にあの色惚けじじいをたらしこんでやるわ。それが私の使命ですもの」

 静かに湯が流れ出る音が続いている。しめやかな空気の中、マリエンフェルデの押し殺した笑いと香油の香りがからまるようにして流れ続けている。

「もっと香油を……」

「姫様。他の妃たちはいかがいたします?」

「ふん、あんなの取るに足りないわ。どうせたかが子供と高を括っただけに違いないもの。 私をただの子供と思ったら大間違いよ」 

マリエンフェルデの口元に強烈な嘲笑が浮かんだ。

「ふふ……楽しみだことティリア」

「……」

 ティリアは答えず、黙々と口元に笑みを浮かべ、湯女に撤している。

 二人の会話は、立ち篭める湯気の中に消えていった。



 口々に悔しがっては若く美しいマリエンフェルデを罵る侍女たちを、リンカニアはさもうるさげに扇で払い退室を無言で命じた。癇に触ったというのなら、マリエンフェルデの第一王妃の自分に対する敬意のかけらも見られない態度より、そんなマリエンフェルデに対して口々に罵倒の言葉を自分に聞かせる侍女たちに対してであった。

「カストゥエラ」

「はいリンカニア様」

「……頭が痛い…………もう休む」

「ですがリンカニア様」

「カストゥエラ」

 リンカニアはふっと笑って女官の期待をたしなめた。

「陛下が来なさるはずもない。どうせ今宵は政談でどの宮にも行かれまい」

 そう言うとリンカニアはカストゥエラが止めるより早くサラサラと衣擦れの音をさせてベットへ向かって行ってしまった。カストゥエラは唇を噛んだ。

 リンカニアが悔しくないはずがないのだ。

 彼女は幼少より未来の正妃として育てられてきた。間違いもなくその立場にいるリンカニアではあるけれども、その人一倍高い誇りゆえに、また悋気のかけらも人前で見せることができない悲しさをカストゥエラは知っていた。第四王妃トリゴリアは目に見えて毎度毎度嫉妬を露にする。それは愚かしくみっともないことではあるけれど、また見る者には嫉妬する女というものは可愛く見えるもの、男とて、嫉妬されて悪い気はしないものだ。 そうして態度を表に出せば可愛がられもしようし、いちいち嫉妬する己れを表に出す自分だとて楽であろう。

 リンカニアはそれができない。誇りが高すぎて、カストゥエラの目の前、ましてや浅はかにも正妃の前で新しい妃に対する愚痴を洩らすような侍女たちの前で、どうして地団駄を踏み両手を床に打ちつけて嫉妬する有様を見せ付けることができようか。それは一見羨ましいようにも見えるけれども、本人にとっては辛いに違いないのだ。

(いいえ……)

 きっとリンカニア様は、辛いということにさえ気付いておられない……カストゥエラはそう思った。それがいかに悲しいことか、リンカニア自身も知らないのだ。


       

       満眼の春光色色新たなリ

       花は紅柳は緑に総て情に関す

       鬱結せる心頭にこの事を将て

       黄鷽に付与して幾声か叫ばしまんと欲す



 いずこからかスキエルニエビツェが歌う声が聞こえてくる。それを耳にして、カストゥエラは一人胸を詰まらせた。

(皮肉な……)

 彼女はため息を一つつくと、退室するため扉に向かっていた。

 初めて聞く歌であったが、おそらく内容からみてこの歌は女性の詩人が創ったものではないかと、カストゥエラは考えた。

 例年と同じように、目にもあやなる春の訪れ。だがその中に、ともに美しい時を過ごしてきたあの人はそばにいない。景色が変わりなくすばらしいだけに、思い出のあとに襲ってくるのは、我が身にまつわる喪失感ばかり。私に代わり、あの鴬に、この欝いだ胸の内を歌ってもらいたい……。

 今のリンカニアを皮肉っているようないないような気がしたのは第一王妃専属女官のカストゥエラであったのなら、仕方もないことだろう。

 ポロロロォォォ……ンンンン…………

 妙なるリュートの音を背に、カストゥエラは無念の思いで扉を後ろ手に閉めた。



 一方アルマンソラは気楽であった。別段第一王妃のような特有の責任感や孤立感がないためか、自分の宮に帰り、専属女官のグイネスと興じる話題も宴の楽しい内容ばかりであったから、マリエンフェルデに対する危機感も何もあったものではないようだ。しかし何にしても王宮は退屈である。気軽に外出はできないししたとしても欝陶しいほどの護衛が辺りを二重三重に取り巻く。花一輪手に取るにも彼らの槍をかいくぐらねばならぬのである。欝屈した気持ちが退屈しのぎに取って代るのにそう時間はいらない。

「ふふ……明日から楽しみが増えるわね」

 ベットに横になり肘をついてアルマンソラは満面の笑顔になって言った。女性の陰湿で欝屈したものとはまったく縁のない女なのである。後になってわかることだが、マリエンフェルデに対する嫌がらせも、トリゴリアのそれとはまったく桁の違う可愛げのあるものばかりで、孫に対して祖母が謎かけをするような、宝物の隠し場所を探させるような、そんな一種の冒険のようなことばかりをしたので、しまいにはマリエンフェルデもそれを楽しみにするほどであった。

 アルマンソラは特別いつも国王リンドハーストの寵愛を受けていたいとは思わない。それなりに愛してもらえればそれでよいと考えている。

 国王は妃を娶った以上彼女たちの生活に責任を持つので、彼女としては国王が宮に通わずとも、日々の楽しみはそれなりにあるのでよいといっていいのかもしれない。そういう意味では、彼女は女の業というものから限りなく遠い存在であった。



    軽く飛んで風を仮らず

       軽く落ちて地に委せず

       繚乱として晴空に舞い

       人をして無限の思いを発せしむ



「いつ聞いてもいい声ね…………ねえグイネス」

「はいアルマンソラ様」

 専属女官の自分の憂いなどどこ吹く風でそんなことを言う妃に、それでもグイネスは答えた。ベットにうつぶせになって肘をつき窓のほうを向いているアルマンソラをいいことに、グイネスの眉間には苦悩と苦渋が浮かび上がっている。彼女は主人ほど事を楽観視していない。ただでさえ国王の宮通いが遠退いているというのに、このままではあの町人の娘にだって負けてしまうかもしれない。それだけはどうしても避けねばならないことだ。 そのためグイネスは、アルマンソラが考えているのとは別に、あのあどけなさの残る小娘に仕向けるべき悪意の塊を色々と考えている。無論それはアルマンソラのあずかり知らぬところで、また知られないように自分が一存ですることだ。もしこれが公になってしまえば世間がアルマンソラを非難することは間違いがないからだ。しかしそんなグイネスの胸の内を察したのかあるいはずっと気付いていたのか、はたまた未だ知らずただ釘を刺しただけなのかもしれぬが、アルマンソラは窓の方へ顔を向けたまま低く、しかしグイネスが聞いたこともないような厳しい声で言った。

「グイネス」

「は……はいアルマンソラ様」

「言っておくけど……」

グイネスの身体が強張った。アルマンソラはこちらを向いて、彼女の目を見てぴしりと言った。

「勝手な真似は許さなくてよ」

「は……はい」

 グイネスは慌てて一礼し、退室していった。後に残るは、上機嫌でベッドに横たわるアルマンソラのみ。


 第三王妃の宮は到って平和であった。

 ダエトは終始笑顔で宴を過ごし、帰って来てからもあの幼い第五王妃のことをしきりに褒めそやした。ギリアンは池に咲く蓮を船に乗って採り、部屋に飾ろうと宮に戻って行った。

「ダエト様、蓮の花が……」

 扉を開け言いかけたギリアンははっと口を閉じた。

 主人は窓に寄り掛かり彼女が今まで見たこともないような虚ろな瞳で庭を見下ろしていた。開け放したその窓の外から、この世のものとは思えない美しい艶声が響いていた。



       早に嬋娟たるに誤らる

       妝わんと欲して鏡に臨んで慵し

       恩を承くるは貌に在らず

       妾をして若為に容らしめん

       風暖かくして鳥声砕け

       日暖かくして花影重なる

       年年越渓の女

       相懐う芙蓉の採りしを



「-------------」

 ギリアンは身体がこわばるのを感じて立ちすくみ、重く息を飲んでその歌声を聞いていた。聞いたことがなくともわかった。この歌は、昔の宮女のことを歌ったものだ。

〈 年若くして目立って美しかったために身を誤って宮中に召されてしまった。お化粧しようと鏡に向かうけれども、億劫になってしまう。

 天子の寵愛を受けるのは美貌によらず、運しだい。この私をどうやって装わせたらいいというのだろう。

 春風は暖かく、鳥の声はさかんにはじけるように聞こえ、日は高くのぼって、花々の影が重なる。

 毎年、越の谷川の乙女たちが、蓮の花を摘んでいたことを 懐かしく思えるばかりだ>

 ギリアンは身体が震えるのを覚えた。越の谷川とはまぎれもなく二人が昔蓮の花を摘んだ川のことなのだ。偶然とはいえ、なんという恐ろしいことだろう。

 その歌から漂う宮女の居直ったような気持ちと、どうにもならない虚脱感が肌身に感じられてならない。

「あらギリアン」

 立ちすくむギリアンに気が付いたのか、先程の魂の抜けたような顔から一転して輝くような笑顔を見せたダエトが振り向いて自分に話し掛けている。

「あ、ダエト様……」

 ギリアンから蓮を受け取り、ダエトは自分でそれを活けにかかった。他の王妃は決してしないことである。

「……」

 どうにもならないほど悲しかった。望まれ、自分から妃になったとはいえ、元々平民出身のダエトが堅苦しい宮中でどれだけの思いをしているか、ギリアンは知っている。主人はたまたまそれを気にしない性格なだけだ。他の王妃が他国で聞くのと比べ攻撃的でないことが唯一の救いくらいで、結局ダエトは、あの国王リンドハーストに人生そのものを狂わされてしまったとしか言いようがないのだ。しかしそれでどうなるというのでもない。 逃げることはかなわず、ただこうして国王の足の遠退いた宮で一日を退屈をもてあまして暮らすだけ。

 妃たちはともかく一部女官たちにまで蔑まれる生活。今までの、素朴だが毎日やることが沢山あって、いつも胸踊らせる街の生活とは大違いだ。確かに宮廷の生活は、華やかで美しくて煌びやかだけれども、虚偽と欺瞞と見栄に満ち触ると切れるようなとげとげしいものに溢れている。さながらそれは氷のように冷たい。そんな世界で、やっていける人間とそれが性に合っている人間と、女には二種類ある。ダエトはやっていける人間だ。しかし決して性に合っているわけではない。正に彼女は、あの歌のごとく美しいがゆえに身を誤ってしまったのだ。ギリアンが何が悲しいかというと、ダエトがそんな素振りも見せず、また自分の知らない多くの場所で嫌がらせを受けているにも関わらず、おくびにも出さず日々笑顔でいることだった。

 ギリアンは悲しかった。

 身が裂けるほどに、胸が張り裂けそうに、悲しかった。



       一日千株花尽く開き

       満前唯だ見る白皚皚

       近く人語を聞けども処を知らず

       声は香雲団裏より来たる



 ジェローナは内心びくびくしていた。宴の様子だけを見ると、国王リンドハーストは主人トリゴリアに見向きもせず、子供といっても差し支えのないほど若いあの金の髪の小娘に完全に溺れていた。

 開け放した窓から春のすがすがしい風と、それに乗ってまるでその風そのもののような軽やかな歌声が流れてくる。しかしジェローナの危惧に反して、主人トリゴリアの気分は、まあ上機嫌というわけではなかったけれども、決して悪いわけではなかった。それだけでなく鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気で高杯の葡萄酒を飲み干している。それが却って、ジェローナには気味が悪かった。

 第四王妃トリゴリアは第一王妃リンカニアにひけをとらないほどの美女だ。幼い頃から一人娘として育てられその美しさと頭脳の明晰さをちやほやされて育ったものだから、挫折を知らずいつも自分が一番で生きてきた人間だ。だから誇りが高い。

 あのマリエンフェルデが来た時も、辺りを憚らずとはああいうもので、侍女たちの前でも隠し立てすることなく地団駄踏んで悔しがった。さすがに見苦しいと密かに眉を顰めたものだ。

 しかし、傲慢だが扱いを知ってしまえば彼女ほど楽な主人はまたいないのではなかろうかとジェローナは思ったりもする。聞きたくないことは聞き流してその通りですわトリゴリア様といえばすむことだし、ああ見えて結構気前がよく気が向けばの話面倒見もいい。 自分で思うのもなんだが、ジェローナは 自分ほどトリゴリアの扱いに秀でた者は他にはいないとまで自負している。それほど長く仕えているのだ。たいていの侍女女官たちはトリゴリアの傲慢さと我侭に我慢ができず辞めていってしまうからである。

 その美しさは、さすがに第一王妃リンカニアには及ばないが遠いものではない。後は好みの問題といったところだろう。気立ての良さには第二王妃アルマンソラには遠く及ぶまい。そもそも気立ての良いという言葉ほど主人に似合わない言葉もないと思うのだ。しかし恐ろしさでは誰も、足元には及ばないだろう。

 ジェローナは知っている。

 いつだったか、密かに国王リンドハーストが手をつけたトリゴリアの女官を、国王が寵愛の挙げ句に次の王妃にしようとした時、嫉妬と、プライド高いばかりに許さない余りにトリゴリアがその女官を殺してしまったことを。そして女官が苦しみながらなかなか死に致ることができないのを、あでやかな扇でもってしてその顔を殴り嘲笑で彼女を見送ったことを。トリゴリアは、自分より下のものは人間の扱いをしない女なのだ。冷徹というよりも、もうそんな人間的な感情を一種超越してしまった恐ろしい女なのだ。

「ご機嫌がよろしいようで」

「ふふふ……なぜだと思う?」

「さあ……わかりかねますわ」

「近くで見たら小娘じゃないの。とても政には関与できまい。妃が時めくには政もわからなくては。あんな小娘にはやりたいだけやらせておけばいいわ。聞けば王族の出身だというし、私の次の王妃なんだもの、構うことはないわ。それより私にはもっと別の狙いがある。あの小娘に皆の視線が集中している間に、やらねばならないことはしなくては」

 くつくつと笑うトリゴリアにジェローナは寒気を感じた。

「それからジェローナ」

「は、はい」

「あの小娘にも忘れず贈り物をしておくようにね。身の毛もよだつような贈り物を」

ふふふふふ、と忍び笑いをもらすその有り様に、ジェローナは空恐ろしいものを感じた。

そして思った、この主人にだけは逆らうまいと。


 あの宴の夜から数日、国王はある日こんなお布礼を出した。

 国内において、すべて青の襲を纏うことを禁ずる、と。

 青の襲を着ることが許されるのは、第五王妃マリエンフェルデのみ、と。

 確かにあの金の髪に青と呼ばれる緑色はよく映えるだろうし、あの森の緑の瞳に映しても遜色ないだろう。それを女官から聞かされたスキエルニエビツェは、あら、と呟いた。

 スキエルニエビツェは歌人である。歌い奏でる場所を保障さえあれば、他国の政に関与したり国王に忠言しようとも思わない。いつも風のように、なりゆきに任せるというのが彼女のやり方なのだ。

 そもそも衣装の色選びというのは、女たちの心楽しい専売特許であるのと同時に、季節に合わせて自分を彩るという古代からのならわしでもある。だから春夏秋冬、四季に合った色というものが決められ、合わない色を纏うことを禁忌としているのだ。禁忌といえば大層だが、それは例えば、公式の場に普段着で行くような非常識なものでもあったのだ。 そしてそろそろ春も盛え、日差しが暑くなり初夏を迎える寸前の暖かいのだか暑いのだかわからない季節になると、『青』と呼ばれる緑色の服の放つすがすがしさと見た目の美しさは例えようもなく人々に愛される。例え襲を着ることはなくとも、緑をこの季節に着るというのは庶民にとってのささやかな贅沢であったのだ。

 国王はそれすらも奪うのだという。そしてまた、面柳を思わせる衣装の着用を禁止した。 面柳を思わせる、というのはつまり、緑色の衣を一切着てはならぬという意味なのだ。そうすると春の襲だけでもかなりの数になってしまう。若草(表淡青・裏濃青)、柳(表白・裏淡青)、黄柳(表淡黄・裏青)、青柳(表濃青・裏紫)、花柳(表青・裏淡青)、柳重(表淡青・裏淡青)、薄桜萌黄(表萌黄・裏赤花)、壷菫(表紫・裏淡青)、早蕨(表紫・裏青)、青山吹(表青・裏黄)などが挙げられ、さらに言えば黄緑色(萌黄色)も緑に近く、厳密にこれすらも禁止するというのなら桜萌黄(表萌黄・裏赤花)、桃(表淡紅・裏萌黄)、躑躅(表蘇芳・裏萌黄)、藤(表薄色・裏萌黄)、葉桜(表萌黄・裏二藍)、なども挙げられる。

 しかも季節は春である。国王が春の襲だけを意図してこれを禁止したのならともかく、夏や他の季節にまでそれが言い渡される可能性はとても高い。夏の陽射しのきつい中卯花(表白・裏青)や蓬(表淡萌黄・裏濃萌黄)などの衣装を纏うと、見た目にも涼しげで緑の深い色合いが楽しめ、それすらも禁止されるとあっては、贅沢を知らない民はいったい何に心の慰みを求めればいいというのだろう。

 スキエルニエビツェは通常は王宮の雇われ楽師だが、旅をしていれば普通の生活をする。 貧しい者も嫌というほど見てきた。また彼らのために彼らと仕事をしたこともある。貧者と金持ちと、両方を肌で感じ間近で見てわかったことは、貧しい者は旨いものを知らずに死んでいき、金のある者は旨いものを食べ過ぎて死んでいくということであった。

 国王の気に入り、天下の楽師と言われようと、差し出がましいことは一切口にせず、自分はただ乞われるまま歌を歌ってさえすればいいのだと、彼女は平生から思っている。自分の仮の立場に酔ったりそれを誤解したり調子に乗ったりして周囲の反感をかい、暗殺された楽師は数多くいる。

 先日、とうとう国王の言い付けを最後まで守らなかったという科で神殿の者が皆殺しにされ、神殿には火が放たれたという報せを、スキエルニエビツェが耳にしたのはその日のことであった。最近は幼妻とのお楽しみの方が良いのか、めっきり呼び出されることもなくなった。別段国王だけでなく妃たちや要求があれば臣下の貴族たちの邸に行って歌うことが許されているので、それでスキエルニエビツェがまったく暇をもてあましているというわけではない。

 その日、国王の側近ともいわれているレリアック侯のもとへ赴いたスキエルニエビツェは、自分の歌を聞いているようでどこか気もそぞろといった侯に気付き、ポロン、とリュートの弦を爪弾きながら、

「いかがなされました? レリアック侯。ご気分がすぐれませんようですわね」

 沈鬱な顔でうつむいていた侯は、その言葉にハッとして顔を上げた。

「い、いや……」

 スキエルニエビツェは大きな黒い瞳をスッと優雅に細めた。

「……候……人は誰も聞いていなくても、例えそれが独り言でも、胸の内を吐いてしまうと心が晴れるそうですわ。私は今からリュートの弦を合わせますから、きっと侯が何を言われても聞こえないと思います」

「---------------」

 スキエルニエビツェは静かにリュートを弾き始めた。軽やかで優美なのに、芯の一本通った音である。侯の困惑した表情がまるで見えないとでも言いたげに、瞑想するようにあるいは何かに酔うかのように、じっと瞳を瞑って心持ち上を向いている。

「……」

 レリアック侯はそんなスキエルニエビツェを凝視し、それから噛みしめるようにしてぽつりぽつりと「独り言」を言い始めた。

 ポロォォォンンン……

 ロロロロ……

「……陛下が朝事にいらっしゃらないのだ」

 ポロ……

 一瞬リュートを弾く音が止まった。が、また何事もなかったかのように爪弾き始める。

「それだけではない、来月から徴税比率が上がった。五割増になったのだ。五割増といえば例えるなら今日米を五合買えたのに明日は一合買えるかもわからないという数字だ。既に聞いたと思うが神殿の人間も皆殺しにされ民は心の拠り所を失ってしまっている。それに例の衣装禁止令のこともある。彼らの不満は日に日に募るばかりだ」

 ポロ……ォォオオンンンン……

「……」

「税率が上がったのはこちらでどうにか調整をするとして、朝事に出られないというのは本当に困りものだ。その日の政の決定が下せない。加えて毎日のように妃殿下に……第五妃殿下マリエンフェルデ様に……目も飛び出るほどの金額の贈り物を山ほど贈られている。

 イオシスよ、……どうすればいいのか私にはわからない。死を覚悟して提言申し上げること自体には私は怖れはない。しかしここで私がいなくなるのは他の臣下たちにも影響が出てしまう。つまりは民にも負担が大きくなるということだ。このまま……このままずるずると下り坂を行くしかないのだろうか?……」

 ポロォォンンンン……

 リュートの音が止まった。

 長い沈黙の後スキエルニエビツェはそっと瞳を開け、そして静かに、

「ご所望の曲はございますか?」

 と聞いた。

「ああ……心の晴れるような……短くてもよい、美しい歌を聞かせてくれ」

「------ではこれではいかがでしょう」

 スキエルニエビツェは高い音をいくつか誘うようにして出しながらスゥ、と息を吸い、春の大気夏の湖水のような声で歌い始めた。

       春は風景をして仙霞を駐めしめ

       水面の魚身総べて花を帯ぶ

       人世思わず霊卉の異を

       競って紅纈を将って軽沙を染む



「…………」

 レリアック侯はリュートの音の最後の余韻が消え、まだ部屋のどこかに響いているのが完全になくなるまで、スキエルニエビツェのその声の織りなす見えない絹の帯が大気にとけこむまでじっとしていたが、やがて指でこめかみを押さえ、

「------すまぬ。下がってくれ」

 うめくように言った。

 スキエルニエビツェは言われるまま侯の邸から出、王宮に帰ろうとしていた。歌人であり楽師でもある彼女は平生よりあまり馬車を好まぬ。それは肌に触れ目に触れる光や風や自然のすべてを五感で感じられないからということにある。しかしそれでは不用心なのでたいていの場合、彼女が王宮から出て出張扱いで歌を歌いに出る場合、城の衛士が二人以上ついてきてくれる。

「イオシス殿。お済みですか」

 最近専ら外で歌うことが多くなったので、もう衛士ともいい加減顔見知りだ。

「ええ」

 スキエルニエビツェはにっこりと笑った。

 イオシスとは彼女の異名である。名前が覚えにくい、言いにくい、長いというので多くの者は彼女をスキエルと略して呼ぶが、イオシスとはまた愛称でもあり紫紅色という意味がある。脂燭色(表紫・裏紅)の襲が、まるで彼女のためにあるかのようにぴったりと似合うからであろう。

(……)

 彼女は一度だけ邸を振り返り侯の苦悩の顔と言葉を思い出してから、衛士を促し歩きだした。今日の彼女は唐衣といって袖や裾が幾分長いのだが、ひきずったりする程度ではなく、身長に合わせて地面すれすれの所でそれらが翻ったりする。たいてい外着はこれである。昔は小袖に袴を着たりもしたが、それはあまりに普段着過ぎていけない。その点唐衣は襲ほど畏まってはいないがかといってくだけすぎず、正装と普段着の中間の役目を果たすようなものだ。だから非常に使い回しがきく。

 そして今日の彼女の唐衣の色合いは白躑躅(表白・裏紫)である。清楚なのにどこかなまめかしく、ハッとするほどによく似合う。

 本来表と裏の色の美しさで衣装の艶を競うものを襲というが、別の衣装に関しても、―――――くだけて言ってしまえば小袖に袴でも-----襲の表と裏の関係は応用されている。女性の衣装は農作業だとか部屋着だとかそういうものは別として、表に出るような服はすべて表と裏の色合いを持つものとして表現されている。襲だけが表と裏の色を楽しめるというわけではないのだ。

 スキエルニエビツェは侯の言葉を思い出しながらなんとなく重苦しい雰囲気の街を歩き王宮をめざして歩いていた。

 朝事とは読んで字のごとく早朝に催される会議のことである。その会議で一日の政の方向が定められ、今後の政策の礎の一部となる。そのため国王になる者は幼い頃から朝事に対する姿勢だけは厳しく躾けられる。マリエンフェルデはそれすらも翻してしまったということだ。

 街がなんとなく荒み重苦しいものに包まれているのは、無論のこと衣装の規制のこともあろうが、それ以上に国王が政治に参加しなくなった影響があることは否めない。

 麟の悲劇はそれだけではない------むしろそれは、日に日に悲惨な形で具現していった。

 国王は毎日のようにマリエンフェルデに贈り物をした。

 十年に一度できれば運がいいという金色の繭からとった絹を全面に使った特大の絨毯、遥か宝霊から何万里を経て届けられた雲水晶の香炉。この雲水晶は現存するもので一番大きく、そして一番澄んでいるそうだ。マリエンフェルデの住む宮は、一言彼女が狭くて過ごしにくいと言っただけで大改築され、世界希少価値率でも上位を占める金色大理石と青色大理石で、あたかも彼女の容姿をひきたてるかのように一週間で第一王妃リンカニアのそれよりも十倍以上の面積と豪華さを誇るようになった。また特大の浴場も増設され、マリエンフェルデのためだけに、極上の香油が注ぎ足された湯が常時浴槽に馥郁たる香りを発して満ちていた。国王はそんな湯上がりのマリエンフェルデを、ともすれば食べてしまいそうな勢いで迎え可愛がり、彼女の造り上げる享楽と悦楽の渦へのめりこんでいくのであった。白玉の大きな壺が無造作にあちこちに置かれ、花に満ち、マリエンフェルデの庭には鶴と鹿が放し飼いにされた。国王は寝る間も惜しんでマリエンフェルデと睦み合い夜明けを告げる鐘が鳴ると短い夜を悲しんでマリエンフェルデの胸の中で眠った。

 この時代日中は圭表(日時計)で時間を知り番人がそれによって鐘をついていたが、夜は漏刻、または壺と呼ばれる水時計で番人は鐘をついていた。国王リンドハーストは時の短いのを大いに悲しみ、鐘楼をなくしてしまうとも考えたが、それは困るとマリエンフェルデに言われて渋々やめた。表では、そんな二人の生活を揶揄するように、あるいは祝うかのようにスキエルニエビツェの歌声が聞こえてくる。



       玉漏 銀壷 且く懐すこと莫かれ

鉄関 金鏆 明に徹して開く

       誰が家ぞ月を見て能く閑坐する

       何れの処か燈を開いて看に来らざる



「…………」

 第一王妃リンカニアはそれを苦々しい思いで聞いていた。手は微かに震え、唇を噛まずにいられない。

 国王リンドハーストは、変わってしまった。今まで、確かに好色ではあったけれど、決して度をわきまえない人間ではなかった。公私の混同をせず、平等な男であった。だからこそ彼女はずっとやっていくことができたのだ。しかし今の彼は違う。あの小娘にまるで精気を吸い取られてしまったかのように痩せ衰え、それでいて尚あの娘を求めようとしてやまない。りんかにあは再三にわたる提言をもとうとう聞き入れようとはせず、度重なる徴税の割増、神殿の人間の虐殺、職人たちに対する数々の難題と厳罰、そして何より彼女が我慢できなかったのは衣装規制令の一件であった。この令が発されてからしばらく、国王は誰の面会も受け付けようとはせず、一日中マリエンフェルデの宮に閉じこもっていた。 第一王妃の面会だと言っても、彼は出てこようとはしなかった。兵士を通して、そっけなく誰にも会うつもりはないとの返事が返ってきただけであった。それは、会う相手がリンカニアだとはわかっておらず、全然知らない相手からの面会を申し込まれた時のようにそっけないものだった。

 最初、彼女は何かの間違いだと思い、兵士に第一王妃からの面会だと言いなさいと言った。兵士はこの上なく申し訳なさそうな顔を彼女に向け、陛下は誰にもお会いにならないそうですと言った。それでも彼女はもう一度兵士を向かわせた、何かの間違いだろうと思って。しかし返答は同じだった。瞬間リンカニアは床が突き抜け、そのまま地の底にまで落ちてしまいそうな気分になった。それでも彼女は思い直した。そもそも他の妃の宮に別の妃が赴くこと自体がルール違反なのだ。これは自分が悪かった、そんな自分を諫めるつもりで陛下は、自分とは会えないと、こう言ったのだろうと。だから彼女は出直した。国王と彼女が、まだ新婚で他に誰も妃のいなかった頃、彼女を何よりも大切にし愛していたリンドハーストが彼女に贈った青山吹(表青・裏黄)の襲を来て。

 そうそれは、亜麻色の髪と明るい茶色の瞳の彼女のために、リンドハーストが選びに選びぬいて贈ったものだった。ちょうどマリエンフェルデが面柳の襲を着ることを喜んだように、またリンカニアが青山吹の襲を着ることを国王は、なによりも喜んだ。だからリンカニアにとって青山吹の襲というのは、ただの衣装ではない、在りし日々の、二人の絆を象徴するようなものでもあるのだ。彼女がこの時にこの色を選んで国王に提言に赴いたのはだから、あの時代の二人の侵されざる絆、それによって国王の目をなんとしても覚まし

たいというリンカニアの気持ちが表れているかのようだった。

 リンカニアはリンドハーストが珍しく自宮にいるというのを聞きつけ、もう一度よく確認してから、彼を訪ねた。

 あでやかな笑みを浮かべ、緑と黄色の襲を纏っている彼女は朝日の中では夢のように美しかった。リンカニアは努めて平静を装い、なるべく口喧しくならないように充分注意して、国王のもとへとやってきたのだった。

「陛下」

 朝日のなか幾分痩せたような感のある国王は、窓から茫然と城下を見下ろしていたが、彼女に呼び掛けられてちらりとそちらへ目を向けた。

「お久しゅうございます。今日は折り入ってお願いが……」

「リンカニア」

 しかし膝を折って頭を下げた彼女に返ってきたのは、聞いたこともないほど冷たい夫の言葉だった。歓迎されるとは思ってはいなかったリンカニアだったが、リンドハーストのこんな厳しい声は聞いたこともなかった。

「……」

「聞いておらぬのか。それとも聞かぬ振りか? 面柳を思わせる襲を着ることは禁止と申し渡したはずだ。いくらお主とて例外は一切認めぬ」

「-----陛下……」

 驚きのあまりリンカニアは絶句した。言葉が出なかった。なぜ?

 承知の上でこの襲を着てきたのは、あなたに昔の私とあなたを思い出してほしかったからなのに。この色目だけは特別、二人にとって意味のあるものだということすら、

 あなたは忘れてしまったのですか……?

 立ち尽くすリンカニアを苛立たしい視線で一睨みすると、リンドハーストは呆れたような怒りを投げ付けるようなため息を一つついてリンカニアの横を通り抜けた。

 何も言わなかった。

 何もしなかった。

 パタンと扉の閉まる音、階段を降りていく足音、そして彼が赴く先は、真っ白になったリンカニアの頭の中でも容易に浮かんできた。

 自分に挨拶もせずに却って陰で鼻で笑っているというあの娘、

 第一王妃、正妃の自分を軽んじ侮蔑し正妃としての誇りも立場もすべて奪ったあの娘、

 リンドハーストと彼女との間に築きあげてきた何十年間もの絆を崩壊させたあの娘、

 ------今リンカニアを、絶望の淵へと放りこんだあの娘の宮へと!

「…………」

 リンカニアは、その場にずるずると崩れ落ちた。

 


火樹 銀化合り

    星橋 鉄鎖開く

       暗塵 馬に随って去り

       明月 人を逐いて来る

       遊伎 皆穣李

       行歌 尽く落梅

       金吾 夜を禁ぜず

       玉漏 相催すこと莫かれ



 〈 燃え立つ樹形の燈架に、無数の銀の花が乱れ咲き、

   星のまたたく天の川のような城濠橋、そのたもとの城門も開け放たれている。

   舞いたつ土ぼこりは、馬の歩みにつれて、いつしか消え失せ、明るい月はどこまで も人のあとを追い掛けてくる。灯篭を見るあでやかな歌女たちは、まるで咲き誇る 桃や李の花のよう。歩きながら一緒に「梅花落」の曲を歌っている。

   今宵は、金吾衛の兵士も警備を解いている。

   水時計よ、この楽しいひとときに時間を刻むのはやめたまえ 〉


 水時計よ……。


 リンカニアは放心して、いつまでもそこに座り込んでいた。



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