36 トキヤ

 ミナばかり描き始めた俺のことを、鷹斗は特に咎めることもせず、ただ見守ってくれていた。ミナの父親はああは言っていたが、やはり一歩踏み出させてしまったのは俺だろう。

 ネストには日常の投稿をするのをやめた。淡々とミナの絵を載せた。フォロワーはいつの間にか千人を超えていた。

 絵の中でなら、ミナは生きていられるのではないかと思った。季節折々の花を描き添えた。でも、それはただの自己満足だった。

 俺は誰も来るはずのない公園で缶コーヒーを飲んだ。季節は進み、六月になろうとしていた。そんな時、彼と出会ったのだ。

 黒いランドセルを背負った彼は、俺より先にベンチに座っていて、下を向いて歯を食い縛っていた。ハーフパンツからのぞいた膝からは、血が流れているのが見えた。


「大丈夫?」


 俺はしゃがんで目線を合わせた。小学生なんかと会話をしたことがなかった俺だが、ためらいはなかった。


「……痛い」


 俺は辺りを見回した。この公園には水道すらない。ハンカチか何かを持ってきているわけでもない。


「おうちの人は家にいる? 送ってあげる」

「誰もいないよ」


 困った。しかし、声をかけてしまった以上、放っておくにも気が引ける。


「俺のうちで手当てしてあげる。おいで」


 パッと立ち上がった小学生は、迷うことなく俺の手を掴んだ。さすがに驚いた。見ず知らずの男の手をこんなに簡単に取るものなのだろうか。


「……行こうか。君、名前は?」

「トキヤ」

「そっか。俺は志鶴」

「シヅル? 変わった名前」


 帰りながら、トキヤは自分が小学一年生であること、学童保育は退屈で抜けてきたこと、両親の帰りは遅いことを話した。

 風呂場で血を流すと、傷自体はそんなに深くないことがわかった。ソファに座らせ、消毒して絆創膏を貼ってやった。

 さて、どうしようか。用事は済んだ。トキヤの家まで送ってやるのが筋かもしれない。しかし、彼は俺がローテーブルに置きっぱなしにしていた何枚かの色紙に気付いた。


「シヅル、絵、描くの?」

「そうだよ」

「同じ女の子ばっかり」

「大切な人だったんだ。もう死んじゃったけどね」

「ふぅん……」


 しげしげと見つめていたトキヤだったが、アジサイと一緒に描いたミナの色紙を取って言った。


「これ好き」

「ありがとう」


 それから、トキヤはランドセルから国語の教科書を取り出して言った。


「シヅル。音読の宿題、聞いてもらってもいい?」

「ああ……いいよ」


 トキヤはスラスラと抑揚まできちんとつけて教科書を読んだ。音読カードなるものがあったので、そこに二重丸をつけてやった。

 小学生になって、まだ二ヶ月かそこらのはずだ。それにしては上手いなと俺は思った。


「ボク、絵本描きたいんだ。でも絵、上手くなくて」

「まだまだこれから上手くなれるよ。俺だって、絵を描き始めたの最近だもん」

「そうなの? じゃあさ、お話はボクが考えるから、シヅルが絵を描いてよ」


 俺は新しいスケッチブックを取り出した。トキヤの考えているのは、チョウがハチと冒険をする話で、俺はスマホで画像を検索しながら、出会いのシーンを描いた。

 そうこうしている間に、鷹斗が帰って来た。


「兄ちゃん、その子誰?」

「トキヤくん。ケガしてたから、手当てしてた」

「……もう。犬や猫じゃないんだから。児童誘拐だって騒がれたらどうするの? 早く帰しなよ」


 そんな鷹斗の小言も懐かしいなと思いつつ、確かにまずい状況にあることは自覚した。だが、トキヤはソファを動こうとしなかった。


「シヅルの弟?」

「うん。鷹斗」

「いいなぁ、ボクもきょうだい欲しかった」


 鷹斗はトキヤに近付くと、腕をぐいっと掴んで立たせた。


「早く帰るぞ」

「帰っても誰も居ないもん」

「何時に帰ってくるんだよ」

「九時くらい」

「おいおい、遅いなぁ」


 一緒に時間を過ごしてしまったせいか、妙な情がわいてきた。


「鷹斗、メシでも食わせてやらないか? どのみちまだ帰ってこないんだったら」

「ボク、お金持ってるよ。毎日五百円もらってる」

「そういうことだし、どのみち今晩は夕飯用意してないし、なっ?」

「……メシ食ったら帰るんだぞ」


 三人でコンビニへ行って調達し、それぞれ好きなものを食べた。トキヤは鷹斗にも興味津々だった。


「タカトも絵を描くの?」

「いや、描かないよ。なんだよ兄ちゃん、絵、見せたのか?」

「一緒に絵本の構想練ってた」

「アレクサンドラトリバネアゲハはね、世界最大のチョウなんだよ!」


 鷹斗は鬱陶しそうにトキヤの話を聞いていた。食べ終わると、鷹斗は素早く立ち上がった。


「さっ、帰るぞ」

「うん……」


 トキヤを送っていった先は、新しく綺麗なマンションだった。名残惜しそうに何度もこちらを振り返り、彼はエレベーターホールへ消えていった。


「もう、兄ちゃんってば。お人好しにもほどがあるよ。いくら人と話してないからって、小学生連れ込むのはどうかと思うな」

「まあ、いいじゃないか。いい子だったし」


 これっきりかと思われたトキヤとの出会いだったが、その後も続くことになった。

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