35 さよなら

「ミナが……自殺した」


 帰ってきた鷹斗にそう告げた。


「えっ? 本当に?」

「うん。これ、冗談じゃない。親御さんと電話もした」


 俺はスマホの画面を見せた。鷹斗は床に膝をつき、ガクガクと震えだした。


「あはっ……あははっ……負けたよ。勝負に勝って試合に負けた。まさか本当に死んでみせるなんてさ。完敗だ。恐ろしい女だよ……」


 メッセージが届いてすぐ、俺はミナの父親と話した。俺は鷹斗とのことを伏せながら白状した。付き合っていたが、俺から振ったのだと。


「明日、ミナの家に行ってくる」

「そう。大丈夫?」

「鷹斗こそ、大丈夫か? 俺は妙に落ち着いてる」


 そうなのだ。ミナの父親に事情を説明しているときも、俺の頭はスッキリとしていた。だから、鷹斗のことは嘘をついて、すらすらと別れた理由まで言うことができたのだ。

 俺は自分が無職であること、ミナの存在はむしろ負担であることを言い訳にした。果たしてそれでミナの父親が納得したのかはわからなかったが、家に来てくれと言われたので、少なくとも拒絶されたわけではないようだった。


「僕は……大丈夫じゃないかも。だって、あの女は死ぬことで、僕と兄ちゃんを永遠に閉じ込めた。最低で身勝手で最大の方法だよ。あはっ、本当に凄い女だ……」


 その通りだ。俺たちはミナに囚われた。赦されることのない罪を植え付けられた。死人はこれ以上もう何も語ることはできない。彼女と対話をする機会は失われた。


「遺書とかはないみたいなんだ。だから、親御さんもなぜ線路に飛び込んだのかハッキリわからないっておっしゃってた。ただ、前の会社はうつで辞めたらしくて……彼女、薬飲んでたらしいんだ」

「兄ちゃんはそれ、知ってたの?」

「いや、知らなかった。知ってたら、もっと他にやり方があったかもしれない。全部兄ちゃんのせいだ。鷹斗は悪くない」


 俺は震えの止まらない鷹斗の身体を抱き締めた。収まるまで黙ってじっとそうしていた。


「兄ちゃん。僕も死んだ方がいい?」

「何言ってるんだよ。鷹斗は兄ちゃんを幸せにしてくれるんだろう? 生きろよ。生きて、兄ちゃんを幸せにしてくれよ」

「そっか……そうだったね。ねえ、しようか」


 俺たちはゆっくりとキスをした。生きている者同士の温かさがそこにあった。人は全員いつか死ぬ。俺も鷹斗も抗えない。けれど、今はその時ではない。

 生きるんだ。

 翌日、俺は送られてきた住所を頼りにミナの家に行った。来るのは初めてだ。うちと同じような一軒家だった。インターホンを押し、名前を言った。


「家内は伏せっていましてね……申し訳ない」

「いえ、お気になさらず」


 和室へと通された。仏壇に高校生の頃のミナの遺影があった。


「ろくな写真がありませんで。仕方なくこれを使いました」


 俺は仏壇に手を合わせた。遺影の側に置かれた小さな遺骨が、確かにミナが死んだことを表していた。俺はミナの父親に頭を下げた。


「美奈子さんが亡くなったのは私のせいです。申し訳ありません」

「顔、上げてください……」


 ミナの父親は苦々しく言った。


「あれは弱い子でした。仕事も続けられず、薬なんかに頼って。最後は人様に迷惑もかけて。志鶴さんのせいではありませんよ。あれの弱さが招いた結果です」


 いっそ罵倒してくれていればどんなに楽だっただろう。俺はそんなことを聞きたいんじゃない。しかし、ミナの父親は話し続けた。


「自殺なんて、本当にお恥ずかしいです。まあ、遅かれ早かれ、そうなっていたんでしょう。高校のときからどこかおかしかった。あれをそういう風に育ててしまった親の責任です」

「美奈子さんは……優しい人でした」


 ミナの父親のこめかみがぴくりと動いた。


「私はこの通り無職の身です。そんな私をありのまま受け止めてくれました。明るい笑顔を向けてくれました。彼女の存在で、私も救われたんです」


 沈黙がおりた。それに耐えきれずに、俺は口を開いた。


「そうだ。美奈子さんを描いた絵がありませんでしたか? 一度贈ったことがあるんですが……」

「いえ、そういったものは部屋にありませんでした」


 ミナのことだ。破り捨ててしまったのかもしれない。


「志鶴さんは絵を描かれるんですか?」

「はい、ほんの趣味程度ですが」

「もう一度、あれを描いてやってくれませんか。こんな昔の遺影ではちょっと、締まりがよくないので」

「いいんですか? 私は美奈子さんを……」

「あなただからお願いしたい。あれが最後までよすがにしていたのは、きっとあなたでしたから」


 願ってもないことだった。俺は何枚か練習を重ねた後、色紙にミナの笑顔を描いて、数日後に渡しに行った。ミナの父親はそこでようやく涙を見せた。

 もうこの家に来ることはないだろう。今度こそさよならだ、ミナ。

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