32 傷

 朝になっても鷹斗の熱は下がらなかった。もう一人で動けると言うので、午前中のうちに病院に行かせ、俺はミナに会うためにいつもの公園へ行った。

 約束の時間よりは早めに着いた。俺は缶コーヒーを買ってベンチに座り、それを飲みながら、セリフを考えていた。別れのセリフを。


「しづくん」


 ミナはホットレモンを持って現れた。俺の隣に腰かけて、顔のアザに触れてきた。


「これ……」

「うん。鷹斗に殴られた」


 まるでその一つ一つを癒そうとしてくれるかのように、ミナは小さな手をあてた。その温もりが心地良い。けれど、俺は突き放さなければならない。


「わたしのところに逃げてきたらいい。とりあえず、小さな部屋なら借りられるくらいのお金はあるから」

「いや、ミナ。今日は別れを告げに来たんだ」


 俺はしっかりと、ミナの丸い目を見た。


「最初は兄弟の情だったかもしれない。今もそれはある。けど、鷹斗のことを男としても見てる。そういう感情が全部ぐちゃぐちゃになって、一緒になって、存在してるんだ」

「でも!」


 ミナは俺の手を掴んだ。振り払うことはせず、続けた。


「俺は鷹斗を愛してる。だからミナ、君とは一緒になれない。これっきり、会わないようにしよう」


 小さく震えだしたミナは、俺の腕にすがりついて泣き出した。


「やだよぉ……! やだよぉ! そんなこと言わないでよぉ! わたし、頑張ったのに! しづくんのために頑張ったのに!」


 俺は拳を握りしめた。徹底的に冷酷になる必要があると感じた。


「俺はミナにそこまで求めていなかった。努力の方向がずれてたんだ。男に抱かれて稼いだ金で養われても嬉しくないよ」

「それでもお金はお金じゃない! そうしないと二人で生きていけないでしょう?」

「俺は鷹斗と生きていくって決めたんだ」


 ミナは自分の袖でぐしぐしと涙をぬぐい、俺の顔を見上げてきた。俺は真っ直ぐそらさずに、彼女の赤くなった目を見つめた。


「よく考えてよ。兄弟で恋人なんておかしいでしょ。わたしとだったら結婚できる。周りからも祝福される。ねえ、しづくん。弟さんとの未来に幸せなんてないんだよ?」

「いいんだ。鷹斗と二人、これまで通り、静かな生活ができればいい」

「いつかそれも限界が来るよ。しづくんは元々女の子が好きだったんじゃないの。だからわたしを抱いたんじゃないの」


 俺はとうとう目を伏せた。ミナのハイカットの赤いスニーカーが目に入った。しばらく俺が黙っていると、彼女は明るい声色を作って言った。


「そっか。そうなんだね。しづくんは客と同じだったんだ。お金を払っていなかっただけ。ようやくわかったよ」


 ミナは立ち上がった。そして、爪先で地面を蹴った。


「あーあ。また男に利用されちゃった。わたしって、本当に見る目ないね。仕方ないか。もういいよ。しづくんなんて要らない」


 俺はミナを見上げた。もう他人であるとでも言いたげに、彼女は俺を見下していた。


「さよなら、しづくん」


 好きだった、と言っちゃいけない。我慢しなくちゃいけない。


「さよなら、ミナ」


 ミナは行ってしまった。取り残された俺は、すっかり冷たくなった缶コーヒーの残りを飲み干し、空き缶を地面に叩きつけた。鈍い音がして、缶は転がった。

 これでよかったんだ。

 そう思うのに、あふれるものがこらえきれなかった。


「ミナ……ごめん……ミナ……」


 誰も居ない公園で、俺は長い間、嗚咽を漏らしていた。ようやくベンチを立つ気になれたのは、鷹斗から電話があったからだった。


「兄ちゃん? 今どこ?」

「公園……」

「話はつけたの?」

「うん。終わった。すぐ帰る。心配かけてごめん」


 とぼとぼと家に帰ると、鷹斗は青白い顔で玄関で待っていた。


「あんまり遅いから、駆け落ちしたのかと思った」

「そんなことしないよ」

「病院行ったついでに牛丼買ってきたよ。食おう」


 少し冷めてしまっていた牛丼をそのまま食べた。鷹斗は色々と検査を受けたそうだが、どれも陰性で、ただの風邪だろうという診断だった。

 俺もミナとの別れについて話した。最後は蔑まれて終わったと。


「じゃあ、本当にもうしないね?」

「うん。約束する」

「次に裏切ったら、僕死ぬから。死んで兄ちゃんのこと呪ってやるから」

「絶対にもう、裏切らないよ」


 すると、鷹斗は立ち上がって、引き出しからカッターナイフを取り出した。


「証が欲しい。上脱いで」


 言われた通りにすると、鷹斗は俺の胸の真ん中に刃を突き立て、下に真っ直ぐすべらせた。


「あぐっ……」

「ごめんね。痛かったよね。でも必要だから」


 鷹斗は消毒をして、ガーゼを貼った。


「兄ちゃんは弱いからね。こうでもしないとね。次に間違えそうになったら、この傷のことを思い出すんだよ。わかった?」

「わかった……」


 この傷は、鷹斗の傷だ。俺がつけた。これが膿まないように、俺は真摯にならなければならない。そう決めたのは俺自身。

 ミナは言った。鷹斗との未来に幸せはないと。俺はそうは思わない。誰からも祝福されず、後ろ指を指される関係だけれど、それでもいい。

 俺は、兄として、一人の男として、鷹斗を愛するから。

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