27 天使

 二月下旬。あーこさんこと峰岡亜子さんの個展、最終日だ。俺は髪を丁寧に束ね、鷹斗と一緒に駅に向かった。


「チャージしてあるから、そのままタッチして通って」


 俺は言われた通りに改札を抜けた。そこから電車に乗るのは三十分間くらいだ。日曜日の午前中。子連れが多かった。


「兄ちゃん、大丈夫?」

「大丈夫。身構えてたより、緊張しないもんだな」


 座席は空いていたので二人で並んで座った。ついいつもの癖で手を繋ぎそうになって、鷹斗に払われた。


「もう、兄ちゃんってば」

「ごめんごめん」


 俺はネストを開いて投稿した。


「今から弟とあーこさんの個展行きます」


 すぐにシホさんからハートがついた。俺はあーこさんの投稿を見直していた。今回の個展は「白い雲の隙間から」というタイトルだった。

 個展が行われているギャラリーは、わかり辛いところにあった。鷹斗がスマホを見ながら案内してくれた。仕事柄、新しい場所に行くのは得意だと言いながら。


「僕が一緒で良かったよね。兄ちゃん一人だったら、日が暮れてもたどり着けないところだったよ?」

「ははっ……そうだな」


 商店街の大通りを一つ外れたところに看板を見つけ、俺たちはその建物に入った。既に多くのお客さんが絵を見ていた。

 入口近くに机があり、パイプ椅子にころんと太った女性が座っていた。首からパスケースをさげており、そこに「あーこ」と書かれていた。俺は勇気を振り絞った。


「あの……あーこさん。志鶴です」

「あっ、志鶴さん!? ほんまに来てくれたんや。ありがとうございます!」


 あーこさんは立ち上がり、花の咲いたような笑顔を浮かべてくれた。


「こっちは弟の鷹斗です」

「どうも」

「初めまして! いやぁ、お二人とも美人さんやわぁ。ゆっくりしていってくださいね」


 鷹斗が先に作品を見に行った。俺はそれに着いていった。あーこさんの作品は、全て水彩画の天使だ。表情が豊かで、見ているこちらが温かい気持ちになるような絵だ。

 とても真剣な目付きで、鷹斗は絵に見入っていた。話しかけるのもはばかられるので、俺は黙って彼の歩みに合わせていた。


「兄ちゃん。この絵、欲しい」


 それは、二人の天使が、寝そべって頬杖をつき、見つめ合っている作品だった。片方はいたずらっぽい顔を、もう片方は困ったような顔をしていた。


「えーと……五万円か」

「出せる金額だよ。これ、寝室に飾ろう」


 鷹斗はずかずかとあーこさんに歩み寄り、購入したい旨を告げた。彼女はきゃっと叫び声をあげた。

 絵は展示後に自宅に届くようで、鷹斗が手続きをしていた。俺は、彼がこんなにもすんなりと絵を購入してしまうのが意外だった。


「ほんまに嬉しいです。志鶴さんと鷹斗さんの家に飾ってもらえるなんて」

「僕も届くのが楽しみです。本当にありがとうございます」


 ギャラリーを出ると、鷹斗が聞いてきた。


「兄ちゃん、疲れてない? 真っ直ぐ帰る?」

「いや、けっこう大丈夫」

「昼メシでも食って帰る? この辺だったらラーメン屋あるけど」

「いいな。行こう」


 店で食べるラーメンなんて十年ぶりだ。カウンター席しかない小さな店に鷹斗は向かった。鶏白湯ラーメンを推しているらしく、二人ともそれにした。

 白くて少し泡立ったスープのラーメンが出てきた。まずはスープをすする。とろりとしていて美味い。次に麺だ。ほどよい固さで、つるつると口の中に入った。

 厚切りのメンマも、半熟の味玉も、よく味がついていて、スープと調和していてとても良かった。


「ここの系列、美味しいんだよね。僕も会社の昼休みとかによく食べるよ」


 鷹斗は替え玉まで注文した。俺はさすがにそこまでは入らない。しかし、ギリギリまでスープを飲んだ。

 食べ終わって駅前まで戻り、屋外の喫煙所でタバコを吸いながら、俺は鷹斗に尋ねた。


「どうしてあの絵を欲しいと思ったんだ?」

「直感。お守りになると思ってさ」

「お守り?」

「うん。あの天使たちなら、俺と兄ちゃんを見守ってくれるような気がした。それに、寝室の家具をあらかた処分したろ。殺風景になっちゃったとは思っててさ」


 また電車に乗り、帰宅してすぐに、鷹斗は抱擁を求めてきた。立ったままぎゅっとしがみつくと、彼は鼻を首筋にこすりつけてきた。


「今日はありがとうな、鷹斗。兄ちゃんの用事に付き合ってくれて」

「うん。僕も楽しかった。また兄ちゃんと外出したい」


 唇を重ね、互いの身体をまさぐった。


「志鶴、今日はどうしたい?」

「鷹斗に……任せる……」

「ふふっ、そう……」


 俺は荒々しく鷹斗に抱かれた。肩を噛まれ、赤く痕が残った。どれだけ強く求められても、全て応えられるように、俺の身体は作り替えられていた。


「志鶴は僕の言うことだけ聞いてればいいんだからね。何も心配しないで。僕が全部示してあげるから」


 鷹斗の言葉は麻薬のように俺の脳に染み込んだ。しかし、快楽から覚めてしまうと、その言葉は足かせになった。結局、職探しなどできないまま、時は過ぎていった。

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