11 月

 鷹斗を会社に送り出し、俺はスケッチブックを取り出した。そういえば、自分は描いたことがなかったな。

 髪をとかしてから、玄関にある姿見まで行って床に腰をおろし、やってみた。どうしても、口がへの字になってしまった。絵を描いているときの俺は、こんな顔をしていたのか。

 夢中になっている間に、昼過ぎになっていた。俺は途中で鉛筆を置き、冷凍のチャーハンを食べた。

 少し間を置いてから絵を見直すと、改善すべき箇所がわかった気がした。俺は手を動かし続けた。


「できた……」


 初めての自画像は会心の出来だった。鷹斗に見せたら何と言ってくれるだろうか。いや、もっと他の人にも見てほしい。

 俺はネストというSNSにアカウントを作った。名前が思いつかないから、そのまま志鶴とした。

 写真を撮り、自画像を投稿した。アイコンもそれにした。これから新しく絵を描く度、ここに載せていこう。

 ネストを巡っていると、同じように絵を載せているアカウントをいくつも見つけた。刺激になる。俺は好みの絵柄の人を次々とフォローしていった。


「兄ちゃん、ただいま。今日も疲れたよぉ」


 俺は鷹斗の頭を撫でた。彼は手にビニール袋を提げていた。


「おかえり、鷹斗。今夜は何?」

「天丼にした。兄ちゃん、好きだろ?」


 温かいうちに、俺たちはそれを頂いた。俺がエビの尻尾を残していると、鷹斗の箸がにゅっと伸びてきた。


「ここが美味しいのに」

「殻は苦手なんだよ」

「兄ちゃんってそういうとこあるよね。魚も骨多いと食べないし」

「ほぐしてもらえたら食べれる」

「そういえば最近魚食べてないね。明日は海鮮丼でも買ってくるよ」


 今日は木曜日だ。鷹斗は土日祝が休みの仕事なので、明後日からはべったり一緒に居られる。

 食後の喫煙を終え、俺はスケッチブックを鷹斗に見せた。


「どう? 自分を描いてみた」

「よくできてるよ。優しい感じが出てる」

「兄ちゃん、優しいか?」

「うん、とってもね」


 ソファに移動し、指を絡ませながらキスをした。俺も段々、呼吸というものがわかってきて、鷹斗の求めに応えられるようになってきた。

 鷹斗の舌が耳に入り込んできた。俺は笑ってしまった。


「くふっ……」

「あっ、耳弱いね? 可愛い」


 俺にのしかかってきた鷹斗は、なおも耳を攻めた。俺は吐息を漏らした。


「なあ……鷹斗、シャワー、浴びてから……」

「だーめ。もうしたくなっちゃった。ベッド行こう?」


 鷹斗に押しきられるまま、俺は彼を抱いた。終わって、裸のまま、二人でブランケットをかぶり、ベタベタと身体を触り合っていた。鷹斗がぼやいた。


「あーあ、シャワー面倒になっちゃった」

「明日も仕事だろ。汗かいたし、浴びないと」

「お姫様抱っこして連れてってよ。さすがに無理か」

「うん。腰が抜ける」


 先に俺がベッドを降り、鷹斗の手を引っ張って出させた。俺は小さい頃のことを思い出した。シャワーを浴びながら、そのことを言った。


「鷹斗さ、動物園の象がこわいって近寄らなかったろ。兄ちゃんが引っ張っていったんだぞ」

「えー、そんなことあったっけ?」

「あったあった。鷹斗は本当にこわがりだった」


 鷹斗はぽつりと言った。


「もう、四人で出かけることはできないんだね」

「そうだな……」


 俺は鷹斗の背中に泡をつけた。あの小さかった弟が、いつの間にかこんなに大きくなっていた。それを実感しながら泡を広げていった。

 最後の家族旅行は、俺が中学三年生のときだった。温泉に行ったのだ。当時の俺は、家族で出かけるだなんて恥ずかしいと思っていた。勿体ないことをした。

 お湯で泡を流してやり、今度は俺を洗ってもらった。抜け落ちた長い髪が、排水溝に流れていった。


「兄ちゃんの髪、本当に似合うよ」

「乾かすの大変だから、切りたいんだけどな……」

「やだ。このままで居て。兄ちゃんは何も変わらないで」


 見た目はともかく、中身は少しずつでも変わりたいのだが。例えば、家事をするとか。掃除機くらい、明日はかけてみようと思いながら、浴室を出た。

 リビングの窓は開けていた。心地の良い風が吹き、カーテンを揺らしていた。鷹斗はバスタオルを腰に巻き付け、窓際に行って灰皿を持ち、タバコを吸った。


「兄ちゃん、月が綺麗だよ」

「どれどれ?」


 雲一つ無い、墨を流したような空が広がっていた。そこにまばゆい大きな満月が居て、俺たちを見下ろしていた。鷹斗は言った。


「月の裏側って、地球からは見えないんだよね。どうなってるのかな」

「まあ、知らなくてもいいことなんてこの世にたくさんあるからな」


 紫煙を吐き出し、鷹斗は俺を見つめた。


「僕の気持ちも、知らない方が良かった?」

「いや。伝えてくれて良かった。兄ちゃんさ、今とっても幸せなんだ。父さんと母さんが死んだっていうのにさ」


 俺は鷹斗の肩を抱いた。月はこんな俺たちのことを咎めることも、嘲笑うこともせず、ただそこで輝いていた。

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