02 生の証

 翌朝、八時くらいに起きた。腹が減っていた。昨日はろくに何も食べていなかったのだ。

 キッチンに行くと、シリアルがあった。父の好物だった。それを頂くことにした。冷蔵庫には牛乳もあったので、それをかけて食べた。

 鷹斗も起きてきて、俺たちはダイニングテーブルに向かい合った。昨日のコーヒーの缶がそのままになっていた。鷹斗はタバコに火をつけた。


「九時になったらスーパーが開くから、買い出し行ってくるね。何か食べたいものある?」

「いや……何でもいいよ」

「そういう答えが一番困るんだよね。まあいいよ。昼メシ、一緒に食おう」


 車はグチャグチャに壊れていた。徒歩十分かかるスーパーまでは歩いて行くのだろう。鷹斗が出ていった後、両親の寝室へ行き、そこに置かれていた遺骨に手を合わせた。父も母も、こんなに小さくなってしまった。

 何もやる気が起きなかった。俺はベッドに寝転がり、天井を見上げた。スマホゲームのログインボーナスが途切れてしまったな、なんて思った。

 俺がこうなったのは、高校時代にいじめを受けたからだった。同級生の誰もが俺を居ないものとして扱った。それでいて、視線を投げ掛けてきた。物も隠されたり壊されたりした。

 高校をやめる、と両親に言ったとき、父はもう少し頑張らないかと説得してきた。それを引き留めたのが母だった。無理なんてさせないであげて。そうして俺は引きこもった。


「兄ちゃん、ただいま。たこ焼き買ってきた。冷めないうちに食おう」


 こんな俺に優しくしてくれるのは、今となっては鷹斗だけだ。いや、彼も立場上、そうせざるを得ないというだけかもしれないが。

 俺はダイニングの椅子に腰掛け、たこ焼きを袋から出した。鷹斗はまとめ買いしてきたらしい冷凍食品を次々と冷凍庫に入れていった。


「先に食べてていいよ」

「うん」


 ここのたこ焼きは、確かスーパーの前の屋台で売られているものだ。外はカリっと、中はとろりとしていて、具も大きい。

 鷹斗が二人分の麦茶をコップに注いでから座り、黙々とそれを食べた。長らく食事は家族が誰も居ないときを見計らって取っていたから、こうするのは久しぶりだった。

 食べ終わると、鷹斗はまた、タバコを吸った。同じような顔の兄弟だが、顔つきに生気がある分、喫煙は似合うと思った。俺はというと、幽霊のような青白い顔をしているのだろう。


「僕さ、覚悟はしてたよ」


 そう、鷹斗は切り出し始めた。


「兄弟の付き合いは親より長くなるんだ。同じような歳だから当然だよね。だから、僕が兄ちゃんの世話をすることは覚悟はしてた。それが早くなったっていうだけ」

「……でもさ、兄ちゃん、何とかするよ。鷹斗だって、鷹斗の人生があるだろ」


 両親が死んでから、繰り返し考えていたことだった。俺は鷹斗のお荷物になるわけにはいかない。鷹斗はまだ二十五歳と若い。結婚だってしたいはずだ。


「はっ? 何言ってんの? 十年間、何もしなかったじゃない。今さら期待なんてしてないよ」

「それでも、頑張るから」

「兄ちゃんのくせに、生意気なんだよ!」

 

 鷹斗は立ち上がった。そして、俺に近付いてきて、拳を顔面にふるってきた。俺は椅子から転げ落ちた。鷹斗は馬乗りになってきて、何度も何度も殴りかかってきた。俺は必死に腕で顔を守った。


「はぁ……はぁ……」


 荒く息をつき、鷹斗は俺を見下ろしていた。瞳の奥が淀んでいた。こんな顔をさせたのは俺のせいだ。


「ごめんな、ごめんな、鷹斗。俺が悪かった」

「そうだよ。兄ちゃんが全部悪いんだよ」


 口の中が切れたのか、血の味がした。鷹斗はタバコに火をつけ、顔をしかめながら吸った。俺はきしむ身体を何とか動かして、椅子に座り直した。麦茶を飲み、血を誤魔化した。

 鷹斗はまだ高ぶっているだろう。何か話すわけにもいかない。俺はうつむいて空になったたこ焼きの容器を見つめていた。


「兄ちゃん。僕、今日片っ端から手続きで電話かけるよ。気が散るから部屋に行ってて」

「うん、わかった」


 俺はフラフラと部屋に行った。ベッドに倒れ、痛む頬をさすった。リビングからは、絶えず鷹斗の声が聞こえてきた。

 殴られるうちは、まだマシかもしれない。

 恐れていたのは、鷹斗に無視されることだった。このままいけば、本当にそうなるかもしれなかった。

 せめて、せめてこの家から出られるようになれば。買い物くらい、一人で行けるようになれば。

 俺はこの十年間、靴を履いていなかった。裸足のまま家の中だけをうろつく、汚い虫。

 目を瞑り、大きく息を吐いた。殴られた痛みが、俺の生の証のようだった。両親は死んだ。俺と鷹斗は生きている。

 いつの間にか俺は眠ってしまっていた。夕方になっていた。リビングに行くと、銀行に行ってくるから夕飯は勝手に食べておくようにと書き置きがあった。

 俺は冷凍のチャーハンを温めて食べた。それから、三日ぶりに風呂に入り、ヒゲを剃った。濡れた髪は重く俺の肩にのしかかってきた。これを切る勇気さえ無かった。

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