繭の中のふたり

惣山沙樹

01 別れ

 羽虫が這いずり回るようにして生きている。

 羽はまだある。飛ぶことはできるはずだ。

 しかし、俺はこの一軒家から出られないでいる。高校を中退してから十年。俺は、引きこもったまま二十六歳になった。


「なんで長男が出てこないのかって、散々言われたよ。まあ普通はそうだよね。うちの事情は父さんも母さんも誰にも話していなかったみたいだから、何度も説明するのが本当に面倒だった」


 両親の葬儀の喪主は、一つ下の弟の鷹斗たかとが務めた。自動車事故で一度に二人とも亡くなった。俺のための食料品を買いに行く途中だった。


「親戚連中もみんな勝手だよね。小さい頃の兄ちゃんのことしか覚えてなくてさ。あの活発だった志鶴しづるくんが何で、って言われても、僕だって兄ちゃん自身だってわからないだろ。しんどかったよ」


 リビングで喪服のネクタイを解きながら、鷹斗は苛々と喋り続けた。


「これからの生活どうするの、なんて言われてさ。もう僕だって社会人なんだ。保険金だっておりるだろうし、兄ちゃんを養いながらこの家で生活することくらいわけないよ」


 それから鷹斗は缶コーヒーを一気に飲み干し、小さな箱とライターをズボンのポケットから取り出した。


「鷹斗、タバコ……」

「会社では吸ってたよ。もう母さんも居ないんだし、いいだろ。吸わなきゃやってらんないよ。兄ちゃんも吸えよ。線香すらあげなかったんだ。その代わりだ」


 鷹斗は俺にタバコを差し出してきた。仕方なく吸った。初めてだった。


「けほっ……」

「ああもう、ふかさないで。深く吸って。肺に入れて。そうしないと意味ないでしょ。この缶、灰皿にすればいいから」


 煙が目にしみて、涙が出てきた。鷹斗は慣れた様子で紫煙を吐き出していた。鷹斗。俺の弟。もうこの世に二人きりになってしまった、俺の家族。


「初七日は繰り上げでやったから、四十九日までは法要はしなくていいよ。光熱費の名義変更とか、この家の登記とか、もちろん全部僕がやるから。兄ちゃんにそんなことできないだろ。食事だってろくに一人じゃ準備できないんだから」

「……ごめん、鷹斗」

「そこはありがとう、でいいんだよ。まあ、社会どころか高校にもろくに通わなかった兄ちゃんがわかるはずないよね。僕にするのは懺悔じゃなくて感謝だよ。わかった?」

「うん、わかった」


 鷹斗はリビングとキッチンを見回した。


「兄ちゃん、何か食べた?」

「いや……食欲なくて……」

「そんなんだから痩せる一方なんだよ。カップ麺とか、冷凍食品くらいだったらできるでしょう。僕、明日買ってきておくから。ああ、銀行の手続きもしなくちゃな……クソっ」


 鷹斗は短い黒髪をガシガシとかいて顔を歪めた。俺はコーヒーの缶に吸い終えたタバコを落とした。

 俺と鷹斗は顔立ちがよく似ていた。二重まぶたに薄い唇。しかし、俺の髪は伸びっぱなしで腰まであるし、鷹斗の言うようにすっかり痩せこけていた。

 鷹斗は違う。中学、高校と野球をしていて、大学でも趣味で続けていた。そのお陰で体格が良く、手足は太い。

 新卒でそこそこ大手の会社に入り、俺とは違って立派に働いている。両親が一気に亡くなったことで、有給も組み合わせて、長めの忌引を取ったとのことだった。


「兄ちゃんは何もしなくていいから。食事だけはちゃんと取って。ゴミ出しの日が何曜日とかも知らないでしょ。僕がするから大人しくしてて」

「ありがとう、鷹斗……」


 鷹斗はジャケットを脱ぎ、椅子の背もたれにかけた。シャツのボタンをいくつか開けた。筋肉質な胸がそこから覗いた。


「僕、シャワー浴びたらもう寝るから。もうくたくたなんだよ。明日からもやることは山積みだし。休みのうちにやれることはやるつもり。父さんと母さんの物には手をつけないでね。遺品整理なんて後でいいんだよ」

「わかった。おやすみ……」


 俺は子供時代のまま変わらない部屋に戻った。引きこもってからは、ネットかゲームばかりしていた。

 両親が亡くなったという連絡を受けたのは俺だった。どうすればいいかわからなくて、慌てて鷹斗に連絡した。それからのことは、全て彼がやってくれた。

 ベッドに入り、目を瞑った。秋の澄んだ風が吹いていて、窓を開けていれば過ごしやすかった。

 ふいに、両親の顔が浮かんだ。俺が引きこもってからも、小言一つこぼすことなく、好きなようにさせてくれた。


「父さん……母さん……」


 俺はすすり泣いた。まさか、こんな形で、こんなに早く別れてしまうだなんて、思ってもみなかった。まだ恩の一つも返せていなかったのに。

 葬儀にすら出られなかったのだ。これからのことも、鷹斗に頼りっきりになるだろう。本当にそれでいいのか。

 鷹斗の目には哀しみは浮かんでいなかった。いつもより饒舌だった。一種の興奮状態なのだろう。

 きっといつか、その反動がくる。そのときに、俺は受け止めてやれるのか。兄として、弟を支えてやれるのか。

 窓の外からは、虫の声がしていた。

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