第18話 海に行こう!③

「ふふっ……。かわいい……」


 相変わらず光葉さんは赤ん坊をあやしていた。


 磯の香りとタバコを吸ったあとの香りが混同している。赤ん坊が近くにいるのだから、そういうのも配慮してほしいものである。それに女性だっているのだし、こういうところを考えられないようでは父親として務まるのかが疑わしいところではある。


 父親になったことがない僕が言えることではないな。上から目線で物事を認識するのは子供の頃だけで十分だ。今は大人になっている自覚があるから、雷牙だって苦労してここまで多くの経験を積んだのだろう。


 それに比べて僕はどうだ。何を積んだ。何をしてきた。夢を追って進み、その夢が破れて苦しんで、そうしてここまで生きてきた。海に行くことなんてなかったのに、楽しいと思えることなんてなかったのに、何故か今は心地が良い。


「あぅ〜、うきゃ〜!」


「ふふふっ……。よだれが垂れちゃってるよ、ほらフキフキしましょうね……」


「うぷぅ〜、キャッキャ!」


「もう……暴れちゃダメだよ……。お砂場に転げ落ちちゃうでしょ……? 海にきてテンションが上がっちゃってるのかな……?」


 雷牙が僕に言う。


「俺やっぱ邪魔か?」


「だから邪魔じゃねーよ。なんか変なこと考えてるみたいだけどさ、僕は今は女性とふれあいたいとかそういう親密になりたいとか、特別な関係になりたいとか思ってないの。ふざけないでくれ」


「でもこうして見るとなぁ……」


「なんだよ?」


「めちゃくちゃ夫婦みたい」


 雷牙の首を絞めた。軽く。


「お前は本当に分けのわからないやつだな……。そういうことを言うと後々で気まずくなってくるんだよ、分かるだろ?」


「お、おう。分かった分かった」


「光葉さんにも謝っとけ」


「ん? この子?」


「そうだよ」


「ごめんねぇ〜? えっ、てか同い年だっけ?」


 光葉さんは24歳で僕と雷牙と同じ年齢である。そういえば雷牙には女性陣の年齢層を教えていなかったな。あとで話しとくか。


「そうだけど?」


「そうかそうか。それなら一番似合うなぁ〜。光葉ちゃんだったか? コイツは色々と面倒くさいタイプだからはっきりとグイグイ行ったほうがいいぞ〜!」


「ッ……!?」


「おまっ! 何言ってんだよ!」


「そんじゃ俺も泳いでくるわ! 子守頼んだ!」


「おい!」


 ま、まずい。なんとなく分かるこの微妙な雰囲気は……僕が一番警戒していたこと……。


 常にこうなる予想はしていた。あのバカに釘は刺しておいたはずだぞ、それも数秒前にだ。それなのにどうして結局こうなるのだろう。うわぁ、マジかよ。


「あ、あの、光葉さん……」


「ッ……」


 気まずっ!




 ☆☆☆☆




 ずっと無言の時間が流れる。


「……」


「……」


 どうすりゃいいんだ? 僕は下宿でさえも女性陣に対して特別な感情や想いなどは抱いていないし、これまで通りの下宿の利用者とその管理人という関係でこれからを歩んでいくんだなぁ、と薄っぺらく考えていたのだが、果たしてこれはどうなる?


 明らかに気まずさがあるだろ。そしておそらくこれからもこの謎の気まずさって続いていくんだよな。


 喧嘩をしているような尖っている気配ではない。お互いがお互いに恥ずかしさとそれに伴う気分の苦しさを避けていこうとしているだけ。


「んぁ〜! わぁ〜!」


「ん? どうしたの……?」


「うぅ! うっ! うくっ!」


「指を指してるの? どこ……」


 指の先には僕がいた。僕の真後ろに誰かいたのかもしれないが、おそらく誰もいない……なんにもないと思うので多分だが僕なのだろう。


 僕を指してどうするというのだ。君とは知り合いという訳ではないぞ。僕は君が生まれたときから見たことがあるし、会ったことがあるのだがな。あの時の君は生まれたてのかわいい子だったのだ。


 光葉さんは指されている僕を見た。すぐに目をそらしてくる。終わった。終わったんだが? そしてここから派生して嫌われるのが確定しているのだが?


「あ、あの……」


「は、はいっ! えっと、どうしました?」


「いえ……その……。抱っこをしてもらいたいのですが……」


「あ、ああ……そうですね。分かりました……」


 そうだ。たとえそうなったとしても、僕としてはあくまでも他人の関係。今年から出会って知り合ったという、生活をともにしているといっても仲で考えれば浅いもの。別に何も影響としてはさほどないはずだ。


 光葉さんも他の方も……みんな最後はお別れをする運命なのだから……。




『ギュッ』




「ッ……!? な、何を……!?」


「えっ……抱っこをしてほしいんじゃ……―――」


「わ、私を抱っこしようとしてどうするんですか……!」


「あっ」


「ッ……くぅ……うぅ……!」


「す、すみません本当に! そ、そうですよね! あ、赤ちゃんの方を抱っこしてほしいって、い、意味ですよね! だからああやって僕を指さしてたんですしね! あ、あはは! もう何やってんだか!」


「うぅ……」


「あ、あの本当にすみません……。どうか嫌いにならないでください……。あ、赤ちゃん様、抱っこさせていただきます」


「は、はい……。どうぞ……」


「ありがとうございます……」


 は? マジで終わったんだが? 夏の暑さで頭がどうにかなってたんだが? そしてもっと熱くなってきたんだが? 関係は冷え切ってるんだが?


 光葉さんはそっぽを向いて僕の方を見てはくれなかった。ギリギリ見える頬は日焼けをしているのかかなり赤くなっていた。テントからは出ていないのになぜだろう。


 不思議だ。

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