第一章 山奥での出来事⑥

 ひときわ厳しい急カーブがある場所だった。瞬時にそこが問題の場所だとわかる。なぜなら、真っ白なガードレールが倒れてペシャンコになっていたからだ。恐らく以前事故があったまま、まだ修理が出来ていないのだろう。倒れたガードレールの先には、太い木が静かに立っていた。幹には大きな傷が見える。あそこに車が衝突したのだろうか、と想像した。

 一ノ瀬悠は倒していたシートを起こし、私に指示した。

「運転には気をつけろよ。ゆっくりでいい。そうだな、とりあえずカーブは越えて……お、あそこの路側帯は少し広くなってるな、なるべく端に寄せて車を停めろ」

 ドキドキしながら言われた通りに車を動かした。ここで私が事故を起こしたりしては元も子もない、しかも水城さんの車なのだし。私は細心の注意を払いながらなんとか無事車を停めた。エンジンを切ってドアを開ける。暑かったはずの気温はグッと下がって肌寒さを感じるほどで、それが山だからなのか、この場所にいわくがあるからなのかはよく分からない。

 降り立ったそこには静けさだけがあった。木々が揺れ、時々風の音が聞こえる。車が通ることもなく、人気がないことに不安を覚える。辺りを見回し、ぶるっと震えた腕をさする。やっぱりついてくるんじゃなかった。なんか、不気味。

「よしこっち見てみるか」

 一ノ瀬悠は独り言でそう言うと、ヒョイッと事故があった側のガードレールをまたいだ。驚いて声をかける。

「そんな山の中に入って大丈夫なの!? 危なくない!?」

「そこまで奥には行かねーよ。ほら来い、お前はその引き寄せやすさを買われてうちに来たんだろ。役に立てよ」

 抱いていた後悔がなおさら大きくなった。だってまさか、この人と二人きりで山を散策することになるなんて。一ノ瀬悠はさっさと歩き出してしまうし、こんなところに一人でいるのも嫌だ。私は慌ててその背中を追った。

 同じくガードレールを越え、土に足を下ろすと、ぬかるんでいるのが分かった。そういえば、昨日は雨だったか。落ち葉が敷き詰められた上を歩くと、足の裏から不思議な感覚が伝わってくる。それを感じつつ、木の根につまずかないよう気を付けながら必死に歩いていく。あんな口の悪い人間でも、なるべく離れたくない。

 ざわざわと木々が揺れる。まるで侵入者を警戒しているように聞こえた。同時に自分の心臓もざわめいていく。警告しているのだ、私が私自身に。ここはよくない。きっと長くいると危ない。

「あの……変な感じしませんか?」

 恐る恐る声を掛けてみると、一ノ瀬悠が振り返る。今までのだらけた顔ではなく、真剣な面持ちに見えた。目には鋭い光が宿っている。

「まあ、山って基本よくねーんだよ。単純に自殺者とか遭難者がいるってのもあるけど、それ以外でも寄って来ちゃうわけ。特にお前はそんな体質だからなー、すげえ注目されてんじゃん」

 彼は低い声でそうささやいた。決して私を驚かそうとしているわけではなく、真面目な表情でじっと見つめている。そしてその視線は私ではなく、もっと後ろに向けられていた。

 心臓が痛いほどに鳴る中、ゆっくりと後ろを振り返ってみる。木の生い茂る山の中に人が立っているのが分かった。白い裸足はだしの足があったのだ。上半身は木に隠れて見えないが、明らかに生きている人間ではない。少し離れた場所からでも、こちらを見ているのは伝わってきた。

 ばっと前に向き直る。どうして来てしまったのだ、と自分を𠮟った。でも一ノ瀬悠はまるでおびえることなく冷静に言う。

「まあ、事故の原因はあれじゃねえな。ただ彷徨さまよってるだけの力のないやつと見た。そのうち消えそう。こっち行くぞ」

「ま、待って!」

 もう付いていくしか出来ない私は、半泣きになりながらその背中を追う。幸い、彼が着ているシャツは白いので山の中では目立つ。決して見失わないよう、私は一ノ瀬悠を追い続けた。ずるりとぬかるみに滑って転びそうになる。ヒールではないが、パンプスを履いてきてしまっている私に、道なき道を行くのはつらい。怖いしなんだか足も痛いしで、それを紛らわせるために声を掛けた。

「ねえ、どこまで行くんですか?」

「もうちょっと」

「迷子にならない?」

「平気平気」

 私を振り返ることもないまま、適当に答えてくる。会話も膨らまないか、と残念に思っていると、向こうから声がした。

「その体質、生まれつき?」

「あ、そう……。物心ついた頃からこうで、両親は知ってるけどあとは隠してきたかな。よくかれやすくて、そのたびにお寺行ってはらってもらったりしてました」

「へー」

「今まで働いてた会社も、霊道があったみたいでしょっちゅう背負っちゃって。ブラックだったし耐えられなくて辞めたところです。こんな体質じゃなかったら、もうちょっと普通に生きられたのかなあ」

 一ノ瀬悠はあいづちを打ちながら聞いている。水城さん以外に同じものが視える人なんて出会ったことなかった。生きている中で、同じ能力を持った人と会えるのはうれしいことではある。こんな会話ですら交わせるのが貴重で喜んでしまう。

 とはいえ、ズンズンと奥に進んでいくので不安が増していく。もはや霊がとかではなく、遭難が心配になってきた。うつそうと葉が茂り、光の当たらない森は恐怖心をあおる。風が通る音が、誰かのうめき声に聞こえてくるのは空耳だ、と必死に自分に言い聞かせた。足も緊張からか上手うまく動かなくなってくる。そして私はついに情けない声をあげた。

「ねえ、そろそろ戻りません?」

「もうちょっと」

「十分見たよ、車の方行こう!」

「何、怖いの?」

「怖いですよ!」

 馬鹿にしたように言ってきた白い背中に、ムッとして答えた。怖くないなんてこの性悪男ぐらいだ、普通は怖いに決まってる!

 すると相変わらずこちらを見ることもなく、一ノ瀬悠は言った。

つかんでていいよ、シャツ」

 予想外の言葉が出てきて、私はつい滑って転びそうになってしまった。水城さんならともかく、あれだけ人に失礼な言葉を発していた一ノ瀬悠が、自分のシャツを摑んでていい、って。単純にも、ドキッとしてしまった。一応気遣ってくれたのか。

「で、ででは、お言葉に甘えまして」

 変にんでしまった。意外と優しい所もあるのかもしれない。怖いし、はぐれないためにも彼に摑まっていたいのは事実だ。手のひらに浮かんだ汗を一度服でふき取ると、少し緊張気味に手を伸ばす。真っ白なシャツに指先が触れそうになった時だ。

 突然自分の肩が引っ張られた。誰かに摑まれたと瞬時に分かり、反射的に叫び声が上がる。滑って転びそうになる私を、背後から怒鳴る声がした。

「お前、どこいくんだチビ!!」

 はたと止まる。

 その声の方を振り返ってみる。あったのは、額から汗を流している一ノ瀬悠の顔だった。怒っているように目をり上げた彼は、見間違いなんかじゃない。

 自分ののどからかすれた声が漏れた。すぐに前方を見てみると、先ほど私が手を伸ばして摑もうとしていた人はどこにもおらず、ただあざわらうかのように木々が揺れているだけだった。私はぼうぜんと立ち尽くす。

 いつから? どこから?

「気がついたら後ろから居なくなって一人でどっか歩き出して。呼んでもちっとも振り返らねえの。完全にまれてんじゃねーかよ」

「……一ノ瀬、さん?」

「お前、何に付いてきた?」

「私が何で前の職場を退職したのか、知ってます……?」

「はあ? 知るか」

 あきれたように言う彼の言葉を聞いて、ヘナヘナとその場にしゃがみ込んだ。このまま歩き続けたらどうなっていたのだろう。あのシャツを摑んでいたら? そう想像するだけでゾッとする。私は悲痛な叫び声を上げた。

「い、一ノ瀬さんの背中を追って来たんですよ! 会話もしてたし」

「あーあ。お前ほんとすげーのな。ちょっと同情したわ。気ぃ抜くな、こっちだ馬鹿。こんな奥まで入って行きやがって」

 彼は嫌そうに私を立ち上がらせる。脱力した私は、服を引っ張られながらふらふらと今来た道を戻る。一ノ瀬悠は私を引きながらため息をつく。

「俺が気づかなかったらお前は白骨死体化してた」

「やめてくださいよ~……」

「引き寄せやすいのもだけど、性格が単純なのもいけねーんだよ。だまされやすいとかよく言われないか?」

「言われたことある……」

「見るからにそうだもんな、お前」

 馬鹿にするように鼻で笑われた。だがその憎まれ口にも言い返す気力がない。思えば、シャツを摑んでていい、なんて優しすぎたんだ。気づかなかった自分が間抜けだったと心の底から反省し、今後はもっとよく状況を観察することを誓う。

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