第2話 ルビーに呑み込まれた少女


「──ねえ、サフィア、聞いてる?」



 ふと声をかけられて、サフィアはハッと我に返った。

 振り向けば、幼い頃から親交のある友人が、サフィアのことを見つめていた。


 コケッ、コケッ、コッコッコ……。


 柵の中にいる鶏たちがあちこちで鳴きながら、粉末状の飼料をつついている。地面には抜けた羽根が散らばり、家畜特有の匂いが鼻をつく。

 ここはサフィアが育った養鶏場の一角だ。真珠色の湖畔と薄桃の花畑が美しい城下町──トロイメリア。ここが彼女の生まれた場所。

 裕福ではないが、貧困層にも属さない。サフィアはごく普通の町娘で、鶏たちの世話をしながら過ごしていた。


(あれ……ここは……私の家? なんだか、すごく、怖い夢を見たような……)


 サフィアは黙り込み、落ち着かない胸に手を当てる。

 トク、トク、トク。

 自分の心臓は、確かに鼓動を刻んでいる。


「サフィア?」


 黙りこくっているサフィアの傍ら、友人は不思議そうに呼びかけた。「大丈夫? 顔色が悪いわ」心配そうな顔を向けられ、慌ててサフィアは笑顔を作る。



「だ、大丈夫よ」


「そう? それならいいんだけど……実は無理してるんじゃないの?」



 首を傾げる友人。サフィアはかぶりを振り、「ううん、本当に心配しないで」と明るい声を返した。

 そんなサフィアに、友人はやれやれと嘆息する。



「あんた、昔から頑張りすぎるところがあるからねえ。おばさんとおじさんも呆れてたわよ。せっかく婚約者・・・がいるのに、デートにもいかず働いてばかりだって」


「あ、あはは……」


「確かにあんたは家業が忙しいし、恋愛ごとも苦手なんでしょうけど……ほら、今も表情が硬いわ。リラックス、リラックス」



 優しく言い聞かせ、サフィアの背を撫でる友人。やがて、彼女は再び話を戻した。



「でもまあ、王城にお呼ばれなんて、緊張して当然か。私だったらご飯どころか紅茶だって喉を通らないもの」


「え? ……王城にお呼ばれ? 私が?」


「そうよ、何言ってんの。あんた、今年の〝精霊御子オーレリア〟でしょうが。今夜、あんたは王女との謁見に招かれてるのよ」


「あ、ああ……そうだわ……確かに、そうだったかも……」



 あやふやな記憶をかき集め、サフィアは現状を理解し始める。


 友人である彼女の言うように、その日、サフィアは王城に招かれていた。

 トロイメリアには精霊の伝承が残っている。その伝承には、四年に一度、町に住む女性の中から一人を〝精霊の魔力を保護する者〟──すなわち精霊御子オーレリアに選び、精霊の加護を授けよとある。


 今回、サフィアがその役目に選ばれたのだった。


「……でも、何か変だと思わない?」


 記憶が鮮明に戻り始めたサフィアは目を細め、声を抑えて友人に耳打ちする。



「だって、今回の精霊御子オーレリアには、去年・・別の子が選ばれたばかりじゃない。選定は四年に一度のはずでしょ? それに、いつも貴族のご令嬢が選ばれるのに、どうして急に私が……? 何か変よ」


「細かいことはいいじゃない、名誉なことなんだし! トロイメリア城の王女様と謁見できるだなんて羨ましいわ〜、城の者ですらほとんど素顔を見る機会のない幻の王女様よ? レアよ、レア!」


「それは、そうなんだけど……」


「それに、王女様と面会できるってことは……〝オレイア・ルビー〟にも触れられるってことでしょう!? すごいじゃなーい!」



 友人は羨望の眼差しを向け、興奮した様子で語りかけてくる。一方のサフィアはぎこちなく苦笑するばかりだ。


 この国では、『精霊は石に宿っている』と言われ、精霊の宿る宝石や鉱物を〝精霊石オレイア〟と呼んでいる。

 精霊石オレイアには特殊な魔力が込められていると考えられ、中でも特に強い精霊を宿す石が、ルビーであると言われていた。


 人の血となり臓物にもなりうる力を持つと言われるオレイア・ルビーは、王族によって代々保管され、精霊御子オーレリアに選ばれた者だけが触れることを許されるという。

 つまり、サフィアもまた、その権利を得たのである。


「……私、少し怖いわ」


 浮かない顔のサフィアは、ぽつりと本音を口こぼした。



「オレイア・ルビーって、精霊の力がすごく強いんでしょう? 不用意に触った人が次々と死んだって噂もあるぐらい、いわく付きの宝石じゃない……。もし、何かあったら……」


「何言ってんの、迷信よそんなの。誰かが勝手にルビーを持ち出さないように、王族が流したデマでしょ」


「……でも……」



 ──なんだか、不安だわ。


 か細く続けたサフィアだが、友人の耳には届かない。むしろ呆れた顔を向けられ、「こんな機会滅多にないんだし、ありがたく受け入れなさいよ」とまで言われてしまった。

 その発言にどこか心細さすら感じながら、サフィアは緩やかに視線を落とす。


(心配しすぎかしら……)


 どうか杞憂であってくれと願いつつ、サフィアは鶏の世話を終えたのちに身を清め、重い足取りで王城に向かうことになった──。



 ◇



「サフィア様。ようこそおいでくださいました。お手をどうぞ」


「い、いえ……本日は、お招きいただき、ありがとうございます」



 かくして、サフィアは王城へと招かれた。


 小高い丘の上に建つ白壁のトロイメリア城は清廉と佇み、庶民であるサフィアを出迎える。

 月明かりを浮かべた真珠色の湖畔が一望でき、星のベールが空に伸びる様を見渡せる情景は実に見事だったが、景色を楽しむ余裕もなければ、「そうご緊張なさらず」と差し出されたグラスの中身を味わう気力もない。


 緊張のせいで味がしない何らかの液体を強引に飲み込み、サフィアは震える足を動かした。


 広々としたホールを抜け、豪華絢爛な城内を歩き、やがて大きな扉が開く。謁見の間へと通されたサフィアは一層その身をこわばらせ、屈強な兵士の間をぎこちなく通り抜けた。



「まあまあ、そちらが、今年選ばれた精霊御子オーレリア?」



 ふと、凛と澄んだ声が放たれ、サフィアの耳がそれを拾う。「あら、可愛い子ね!」顔を完全に覆い隠した布の向こう、彼女はくすりと微笑んだ。


 サフィアの緊張感はことさら膨らみ、手のひらに浮かんだ汗を握り込む。

 今こちらに声を投げかけている彼女こそが、このトロイメリアの王女だ。衛兵は胸に手を当て、王女に報告する。



「王女様。精霊に選ばれた娘を連れて参りました」


「ふふっ、ご苦労さまっ! ねえねえ精霊御子オーレリアさん、もっと近くにきて? わたくし、顔を布で隠さないといけなくてね、あなたの顔がよく見えないの」



 無邪気に声を転がし、王女はサフィアを手招く。サフィアはカラカラに乾ききった喉で生唾を嚥下し、彼女の元へと少しだけ近付いた。



「お、お初にお目にかかります、王女様……私は──」


「んもうっ! いいのいいの、そういうのはいらないってば! もっと近くにいらっしゃいな、遠慮しないのっ」


「は、はい」



 やや強引に呼び寄せられ、結局、サフィアは王女の真正面まで歩を進めることとなった。


 どくどく、心臓が音を立ててうるさい。


 王女は布の向こうから楽しげに鼻歌を口ずさみ、サフィアの頭から爪先までをじろじろと吟味する。さらには手を伸ばし、その頬や唇に触れた。



「まあ〜っ、うふふ、かっわいい! 色も白くて、おめめも真ん丸! 髪は地毛? くせっ毛なのねっ? 少しお肌は荒れてるみたいだけれど、庶民にしては綺麗な方だし~……うふふっ、いいわ〜、いいわね!」


「あの……」


「黒い髪も、青い瞳も、あなたにすーっごく似合ってて素敵! でも、なんだかちょっともったいないわ〜。惜しいのよね〜」



 サフィアに触れながらつらつらと批評し、王女は布の向こうから視線を投げかける。ずいっと迫った布越しの顔。期待に満ちたその表情が見えるような気すらして、サフィアは狼狽えた。



「あのね、私、赤が好きなの」


「赤……?」


「だからね、赤に変えたいのよ。その方がかわいいでしょう? うふふ、大丈夫。あなたにも、きっと似合うもの」


「あ、あの、先ほどから何をおっしゃっているのか、よくわからないのですが……」


「──さあさあっ、まずは今日のあなたを記念に残しましょう! とびっきり美しく、優雅にねっ!」



 言葉は王女に遮られ、サフィアは手を引かれる。こうしてあれよあれよと彼女は椅子に座らされた。


 最初からこうなることが決まっていたのか、王女の従者たちはサフィアの髪や衣服をテキパキと整える。やがて小瓶を持った画家らしき風貌の人物がイーゼルと絵筆を持って現れ、準備を始めた。


(あれは何? 画材? 記念に残すって、今から私の絵を描くってこと?)


 サフィアはことさら困惑する。小瓶の中身は真っ赤な粉だった。画家はわずかに光沢を放っているその粉を薬さじで掬い、にかわと混ぜて指で溶く。徐々に液体となっていくそれは粘り気を帯び、真っ赤な絵の具が作り出された。


「あれはね、特別なルビーで作った岩絵具なの」


 王女は囁き、赤く輝く絵の具を見つめる。その表情は見えない。だが、明らかな恍惚感が、布の奥から漏れ出ている。


 特別なルビー。まさか、とサフィアは悪寒を覚えた。


 精霊が宿るという宝石──オレイア・ルビーの存在が、脳裏をよぎったのだ。



「せっかく精霊御子オーレリアに選ばれたんだもの。とびっきり可愛い色で、肖像画を描いてもらわないとねっ?」


「っ……わ、私、その……肖像画なんて、結構です。お化粧もしておりませんし、恐れ多くて……」


「やぁだ〜、遠慮しないで? ほら、素敵でしょう? ──この色」



 つう、と王女の指先がサフィアの足を撫でる。だが感覚がいまいち分からなかった。

 サフィア視線は無意識にその白い指先を追いかけ──そして、彼女は目を疑う。


「え……?」


 硬直し、思考が止まった。まばたきを忘れて、呼吸の仕方もわからなくなる。

 たった今触れられた足が動かない。それどころか、感覚すらない。

 そこにあったのは鉱物だった。真っ赤に輝くルビーの宝石。自分の体の膝から下は硬化し、真っ赤なルビーに変貌して、びくともしない。


「な、に──」


 声がうまく出なかった。何が起こったのかもわからなかった。

 かろうじて顔を上げた先のキャンバスには、真っ赤な絵筆でサフィアの足が描かれている。それは見事に、ルビーの宝石に変貌した場所とリンクしていた。


 サフィアは確信する。

 あの絵の具で描かれた場所が、ルビーに変えられているのだと。


「っ……!?」


 ガタッ──サフィアは戦慄し、思わず立ち上がろうとした。だが、宝石の重みが彼女を逃がさない。



「っ、や、やだ! 私の体に何をしたの!? 何なのよこれっ……誰かっ!!」


「あははっ。焦らなくていいのよぉ、わたくしの愛しい精霊の子。殺したりしないから安心して?」



 王女は楽しげに笑っている。ざらり、ルビーの絵の具がキャンバスをなぞり、今度は腕が宝石化した。


「ひ……!」


 ピキッ、ピキッ──腕はどんどん重みを帯びる。まるで凍りつくように、肉が硬化して光沢を放つ。絶望が膨れ上がり、恐怖と悲哀が混濁して、サフィアに襲いかかってくる。

 画家は表情ひとつ変えることなく絵筆を動かした。サフィアの体はその都度少しずつ宝石になり、赤く赤く染まっていく。


 どうしてこんなことに──焦燥をあらわに悲嘆した時、城に入ってすぐ飲まされたグラスの飲み物のことを思い出した。


 まさか、あの液体のせいで?

 それとも何かの呪いにかけられた?

 このまま、全部宝石になったら、どうなるの?


 冷静になりきれない頭で考え、サフィアは涙ぐみながら助けを乞う。



「ご、ごめんなさい! 私の何かが気に入らなかったのなら、すぐ謝ります! 無礼をお許しください! 私、父と母がいるんです、婚約者や友人も……! だからお願い、どうか助けてください!」


「あらら、安心して? あなたは悪いことなんて何もしてないわ。むしろ誇りに思うべきよっ! このわたくしの目に留まるだなんて、名誉なことだもの~!」


「そんなっ……はあっ、どうして、こんな……!」


「あのね、わたくし、かわいいものだーいすき! あなたを町で見かけた時、すっごくかわいい女の子だと思って、無理やり精霊御子オーレリアに選ばせたの! だって、わたくしに・・・・・ピッタリ・・・・だと思ったからっ!」


「……っ!?」



 王女が何を言っているのか、サフィアにはまったくわからない。だが、明らかに狂気じみた考えをしていることだけはわかる。


 全身が宝石に変えられていく中、とうとう溢れる涙まで赤い宝石にせき止められた。

 パキ、パキ、ひび割れるような不気味な音が鼓膜を叩く。どくん、どくん、早鐘を打ち続ける胸の鼓動すら、赤い石の中に飲み込まれる。


「ねえ、ほら、笑って! 肖像はにこやかじゃないとねっ! ほらほら笑って〜!」


 逃げ出したくとも逃げられない。手足は重たいルビーに変わっている。休まることなく動く画家の腕。溶き皿を染める赤い絵の具。キャンバス上に絵筆が走り、〝サフィア〟が塗り替えられていく。


 黒い髪は赤く色付き、白い肌も、絶望に歪む表情も、青く澄んでいた瞳の色すらも。


 すべてが、血のような赤で染められて。


 そして。



「嫌っ……」



 パキンッ──。


 ついに頬の筋肉すら動かなくなったその時、ルビーに埋もれたサフィアの体は、粒子となって砕け散った。


 ぱらぱら、ぱら……赤いきらめきが床に落ちる。まるで妖精が振り落とした粉のよう。

 王女は上機嫌にスキップし、画家はようやく筆を置いた。



「ルビーの中でしばらくおやすみ、愛しい子」



 出来上がった絵画を撫で、慈しむような言葉を吐いて、布の向こうで王女が微笑む。


 キャンバスの中に描かれたサフィアは、美しい真っ赤な髪を輝かせ、瞳を閉じて、深い眠りについていた。

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