5月17日

 無地のビニール傘が雨を弾き音を鳴らしている。雨に包まれた薄暗い住宅街は何か怪異が出そうでワクワクする。

 あの曲がり角の向こうから、暗い窓に映って、雨音に紛れて背後に。いつもの石段の前まで来て予想通り期待が裏切られたことを悟るが、別段感傷もない。当たり前だが。

 さて、この石段をどうやって上ろうか。生い茂った枝らが邪魔で傘をさしたまま上るのは不可能だ。雨水でたわんでいるためか枝の天井がいつもよりも低く感じる。

 傘を閉じて駆け上がるか?いや流石に危険そうだ。足場の苔で滑って転んでしまう。傘をすぼめて行く、それもアリだが枝の位置からして傘が枝に引っかからない保証はない。ゴールデンウィークの散財のこともあるが、傘は軽視できる値段じゃない。それに帰り道で濡れてしまう。

 濡れてまで上に行く必要があるか?などという疑問は一切湧かず、傘を閉じて歩いて上ることにした。枝のおかげか思ったよりも濡れなかったが、濡れたことに違いはない。

 みそぎの雨と言われたり、神様からのメッセージとされたり、参拝の際の雨には良い話もあるが、陰の気を集めるとされたり神様からの拒絶だとされたりといった話もある。俺はどちらかと言えば神様には優しいイメージをもっている。だからこそ俺も礼儀を通したい。

 拝殿の前は屋根のおかげで雨が当たらないようになっていた。そのため安心して傘を閉じて参拝できた。

 参拝の後、社務所の入り口に近づくと、扉がガラッと開いて「速く!中!」とアカリに激しく手招きされた。傘立てには紺色の布の傘が一本あり、そこに俺のビニール傘も立てさせてもらった。

「まさかこんな雨降ってるのに来てくれるなんてねー。神様も喜んでるんじゃない?」

「ん、ならいいけど」

 いつもの部屋まで行くと、顔に何かが飛んできた。

「おわっ!」

 それは水色のタオルだった。どこだかのスポーツ用品メーカーのロゴがデカデカとプリントされている。

「髪とか服とか拭いて。ちょっと濡れてるし、風邪ひくっしょ」

「いや、でも」

「いーからさっさと拭く!」

「ああ、ありがとう」

 言われた通りに髪や制服、リュックを拭く。部屋を濡らすわけにもいかないからな、俺の準備が甘かった。リュックの中にはテスト勉強の道具と筆記用具、それと昼食しか入っていない。にしてもこのタオル、いい匂いがする。なんの柔軟剤を使っているのだろう。

「あ、タオルは」

「洗って返すよ。来週もここに来るだろうし」

「そっか。ありがと」

 幸いそこまで濡れていなかったので拭き終わるまでに時間は掛からなかった。借りたタオルをリュックにしまい、座布団の上であぐらをかいた。

大丈夫だいじょぶ?寒くない?」

「全然」

 本当は少し寒いが気にするほどでもない。

「ならいんだけどさ。ごめんね、ここ電気通ってなくて」

 部屋の隅にレトロな扇風機があったり、天井に地味な照明がぶら下がっていたりしたため、てっきり電気は使えるものだと思っていた。契約まで止めたのなら扇風機や照明は撤去した方が良いとは思うが、さしてメリットが無いのも事実か。

「電気通ってないって、それじゃ大変じゃないのか?」

「そうなんだよねー。スマホとかゲームの充電できなくってさあ」

 アカリはバッグから携帯ゲーム機を取り出してヒラヒラと揺らして見せた。俺は温度調整や飲料、トイレといった生理的な部分の心配をしたのだが。ここは水道が通っているかも怪しいし。

「それより、これからお昼しようとしてたんだよね。ど?食べてかない?」

「ああ、それじゃあ……」

「よっし!」

 ドン!と重い音を立ててアカリがテーブルに置いたのは随分と大きな風呂敷包みだ。その大きさはというと、アカリの持っている標準的なスクールバッグの半分ほどの大きさと言えば伝わるだろう。カラフルで派手な模様の風呂敷の中には、ピンク色でプラスチック製の四角いバスケットが入っており、中にはぎっちりとサンドイッチが詰め込まれていた。

「作ってきた!食べよ!」

 食欲をそそる匂い、選ぶのが楽しくなるような多種多様な具材、ギチギチに詰め込まれていることを除けば一つ一つの見た目も綺麗だ。しかしこの量、流石に多すぎる。雨で俺が来なければ一体どうしていたんだ?俺がいたところで完食は難しい量だが。

「えっと」

 リュックから弁当を取り出す。いつも学校に行く時に母が持たせてくれる弁当だ。広げると少し小さめの弁当箱におかずが入っており、それに加えて小さいおにぎりが二つ別で入っている。

「ほっほ〜う。美味しそうですな〜。それではおかず交換と洒落込みますかな」

「おかずも何もサンドイッチしかないじゃないか!……ってかそれより」

 こんなに大量の弁当を持ってきたアカリに、声も弾んで楽しそうなアカリに、こんなことを聞くのは良くないかもしれないが。言わざるを得ないことが一つ。

「お面、どうするんだ」

「あっ」

 あっ、じゃない。このやりとりは何回目なのだろう。ここに来るびにしているような気がする。もう持ちネタと言ってもいいだろう。

 そんなおちゃらけた、浮ついたことを考えたせいで、俺はアカリの様子が普段と違うことを見逃していた。

「また……あたし……」

「お面、取ってもいいんじゃ」

「それはダメっ!」

 叫ぶような、懇願するような、必死な声だ。

「あっ……ごめん」

 静まり返る室内。さっきまでの賑やかな声が嘘のように、雨音だけが響く。

 やがてお面の内側から鼻を啜る音が聞こえてきた。嗚咽も漏れてしまっている。柔らかな笑顔の翁の面のその裏でアカリは泣いていた。

 顔を隠したかったのか、涙を拭おうとしたかったのか、アカリは右腕を目の辺りに当てがい、すぐに動きを止めた。

「アカリ」

「やめてよ!」

 アカリは目の部分に当てていた右腕を勢いよく払った。

 その時、仮面と制服がどこかで引っかかったのだろう。右腕に連動して仮面が大きく横にずれた。後頭部に回されていた紐はずり上がり、やがて頭を抜ける。とん、と畳に仮面が落ちた。

 その時俺は、初めてアカリと目が合った。誰もいない神社にいつもいて、おちゃらけた態度をとっていた彼女の素顔を、見た。

 興味がなかったわけじゃない。本物の異形だったらとか、俺と同じように火傷なんかの傷跡を隠してるのかなとか、色々考えていた。

 実際に、仮面の下で涙でぐちょぐちょになったその顔は。何もおかしなところはない、綺麗な顔だった。

 しかしアカリの大きな目は涙を溢れさせ、怯えるように揺れていた。

「あ……あっ」

 顔を押さえたアカリは逃げ出した。

「アカリ!」

 慌てて立ち上がるも、アカリは止まらなかった。彼女はそのまま傘も刺さずに外へ飛び出して行った。外まで行ってみたが、アカリは階段を下りてしまった。これではどこへ行ったか分からない。せっかく拭いた髪も制服も濡らし、自問する。

 俺は、アカリは、来週もここに来れるのだろうか。

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