5月10日
「よくきたね。さあ、入りたまえ」
誰だお前。
いやアカリだ。普段からこんな仮面つけてる奴が他にいてたまるか。
「ああ、ちょっと待ってくれ」いつもの手順で参拝。決してアカリに意地悪したかったわけではなく、単純に神様に失礼がないようにしたいと思ったのだ。申し訳ないがその間社務所の前でポカンと立っていたアカリは滑稽に見えた。
合流するとアカリは咳払いを一つ、ガラガラと社務所の戸を開けて中に入っていった。俺も続いて入っていくが、いつもの部屋に着くまでの間お互いに無言だった。部屋にはいつものちゃぶ台とは違って長テーブルが用意されており、地域の子供会が連想された。
「よし、じゃ座って!」
テーブルの向こうに立ったアカリはグルリと振り返りテーブルをバンと手のひらで叩いた。しかしテーブルが低かったせいでひどく不恰好に映る。足を伸ばして四つん這いになっていると言うか、とにかく珍妙なポーズでこちらを見上げているのだ。
いたたまれなくなったので大人しく座ると、アカリも座った。彼女の隣にはスクールバッグが置いてあり、中に勉強道具が入っているようだった。
「ほら、勉強、もの出して」
俺はどうしてわざわざここに来て勉強しなければならなかったのか。
「うちは赤点40点だかんね。居残り補習
赤点40は厳しいのだろうか。それはともかく俺は数学が苦手だ。あえて勉強するなら数学になるが、未だにアカリに勉強を教えてもらうという構図に屈辱を感じて、テキストを取り出しづらい。他の誰かならいざ知らず、どうしてアカリなのか。
他の誰かって誰だ。学校に話せる人なんて……。うっ。
「数……学」
「あーけっこーいるよね。数学ヤな人」
勝手に負の感情に苛まれている俺など気にも留めていない様子だ。大人しく問題集と教科書、それとノートをテーブルの上に並べた。
「ほう、集合ですか」
開いたのは数学Aの最初、集合の部分だ。
「これはね……」
彼女の解説は分かりやすく、すんなり理解できた。しかしそれが不自然。アカリの口からそんな言葉が出るなんて今になっても信じられないし信じたくない。
「ん?わかんなかった?」
ずいっとアカリが顔を寄せてきた。
ええい!近い!仮面にそんな近づかれると圧が!
「ほんとに勉強できたんだな」
「ん……まあねえ!んで次は?なんでも教えちゃうけど」
俺の皮肉が下手だったようでアカリは何やら嬉しそうだ。悪い気はしない。
「別に」
「えっもういいの?まだ全然教えてないのに!」
無知の知とはソクラテスの言葉だったか。俺は自分が分からない問題が分からなかった。
「自分の勉強はいいのか」
「いーの。
よほど自信があると見える。だったらアカリが解けないような問題を。
……そんなの分からないが。
「えー、次やんないの?あ、そーだ」
鞄をガサゴソ漁って何かを探しているようだ。しかし物を詰め込みすぎだろう。カバンの中には入っていた物で畳の上が散らかっていく。教科書や問題集は理解できるが、どうしてハリセンや下着まで入っているのか。
やがてアカリが取り出したのは黒いメガネケースだった。中身をとり出し、掛けようとするが「あれ?」と案の定翁の面が邪魔で掛けられない。
「この前も同じことやってたろ」
「あれ、そうだっけ」
アカリがつけているお面は木製のため決して軽くはないだろうし、紐で縛ったり顔を覆っていたりするのだから、つけているのを忘れるなんてことはないはずだ。ドジと言うか注意散漫と言うか。
どうして俺より勉強できるんだ。そしてこれを考えるのはもう何度目なのか。もう悔しいとも思わなくなってきた。アカリは多分そういう人なのだ、その程度の認識で問題ないだろう。
「てかメガネってことは普段よく見えてないのか?」
そんな状態で仮面つけてウロウロするのは危ないだろう。事情があって仮面をせざるを得ないなら何か手助けを
「ああこれママのやつ借りたの」
ママ?
「いやそうじゃなく」
「メガネ掛けた方が雰囲気あるっしょ?」
「そんな理由か」
親御さんが困ってなければいいが。
「いーじゃん別にさー」
ああ、駄々をこね始めた。教師役がすることじゃないだろう。両手を上に伸ばし、後ろにバタンと倒れて動かなくなった。
「アカリ?」
「むー、本当はいっぱい教えて年上っぽいとこ見せようと思ったのにー!」
言われてみれば勉強ができるだけでなく年上だったな。
仕方ない、この年上の子供を元気づけなければ。だが俺は自分の分かっていない所がどこなのか分からない。教えを乞おうにも何を教えて貰えばいいのか分からないのだ。ならばテストの点はいいのかと聞かれればそんなことはなく、だいたい真ん中ぐらいの順位に落ち着いていた。
「えー、あー。夏休みの宿題とか、どうしてるんだ?」
「どしたの急に」
「……別に」
そんな自分が精一杯捻り出した話題が夏休みの宿題について。我ながらセンスがない。
しかしアカリは食いついてくれたようで体をガバッと起こした。
「毎日ちょっとずつやってたけど」
「あ、そう」
終わり。
会話が下手すぎるな、俺。なんだ今の無意味なやりとり。この場の気まずい空気、どうしてくれる。これまで友達らしい友達がいないのが仇となったか、何も思いつかない。
友達?アカリは友達なのか?
「ははーん、なるほど。スイって静かなのダメなタイプかー」
「別にそんなことない」
「会話なんてさ、なんでもいいんだよ。なんてーか、効率とか意義とか、そんなん要らないし。なんでもないよーな話出来んのが友達っしょ」
「んっ」
おかしい、アカリに後光が差しているように見える。彼女の背後は畳だが。
アカリは、もしかしてコミュニケーションが達者な、俗に言うコミュ強なのでは。ではこちらの思考を読んだかのようなセリフが出てきたのは?それもコミュ強ならではの洞察能力?
「んで?スイはどうなの?夏休みの宿題」
「俺は……」
しかしそうか、友達、ね。もしかしたら今日は俺に初めての友達ができた日なのかもしれないな。友達なんて絵空事。俺にとってはオカルトとなんら変わらない物だった。それが今、ここにある……のかもしれない。そう思った時、頬が少し火照るのを感じて顔を伏せてしまったのだった。
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