第19話 かいぶつ






 カーテンの隙間から差し込む日光がまぶしくて目覚める。

その瞬間わたしは「あ、今日だめな日だ」と悟った。


だめな日。それはなんの予兆もなく訪れて、月が夢から醒めると去って行ったり居座ったままだったり。

上手く言い表せないが、なぜか気分が悪いだとか調子が悪いだとか、そういう日だ。

わたしは本来、かなり気分の上がり下がりが激しい方だ。

そう。本来ならば。



『くじらちゃんって落ち着いてるよね』


『えー、そうですかね~』


清掃の場所が近い、それだけの仲である彼女に言われた。

わたしはにっこりと笑ってそう返す。



(まあ…そうだよね。知ってる)



 だってうみは些細な気の乱れでも死につながってしまうような場所だ。

嬉しいことがあって浮かれていたせいで闇市の人間に見つかり、攫われてしまった。

悲しいことがあって落ち込み、一人郊外を漂っていたら海獣に襲われてしまった。

そんな人魚を何人も何人も、飽きるほど見てきた。


だからあんまり、感情に支配されてはいけない。



 弱い個体は淘汰され、強い個体のみが生き残り子孫を残す。当たり前だ。

それが自然の摂理というもの。


そしてわたしは、生き残りの中ではかなり弱い部類だった。

最低ラインというほどではないけれど、明らかに下から数えた方が早い。もちろん、死んでいった仲間たちを含めれば上の方だけど。


泳ぎが速かったり力が強かったりしない。それだけならまだ良かった。

しかしその上、人魚として美しいとされる金髪もターコイズブルーのヒレも無いのだ。



 彼女は知らない。

「普通」に成れるまで駄目な箇所をひとつひとつ潰していかなければならない痛みを。

普通以上のあなたが、わたしを隣に置いてくれることへの恐怖を。


教えるつもりはない。狂ってしまいそうなまでの劣等感を。




「敵を欺くにはまず味方から」とは少し違う気がするけど、とにかくわたしは感情的にならないよう理性的・合理的に振舞ってきた。

決して楽しいことではないけど、そうしないと死んでしまうのだから仕方がない。


だからこそ、わかる。





*   *   *






「運動部の子…代理学園から去るんだって」


「え、これでもう20人じゃない…?」


「これ10クラスが9クラスの人数になってるよ、やば」



パンタソスの休日、くじらはこそこそと会話をしている生徒とすれ違う。


毎日バカ騒ぎをしていた運動部の男子は先日のテストで不合格になってしまったし、眠目がピンで前髪を止めていただけでツーショットを撮っていたギャルも見なくなっていた。





しかしそのことをすんなり受け止められているくじらがいる。


いつの間にか同胞の姿が消えていることには、慣れっこだった。




(わたしも、湖に帰りたくないから踏ん張ってるだけで…それがなかったらとっくに――)




美しさを失い惨たらしい姿になった旧友の姿が目に浮かぶ。


あんな風には――泡には、なりたくない。

赤の他人のために自分をすり減らすだなんて、そんなのはごめんだ。




そこまで考え至って、ああ、わたしは結局酔生夢死に生きていたいだけなのではないか、と思う。


しかし、それも違う。

海面から差し込む光を、生まれては消える泡を眺める日々だなんて、退屈で仕方がない。



どうしようもない矛盾に、くじらは頭を抱えた。

優香里と瑠奈は夢を叶えるため既に走り出しているというのに。


――――また、置いて行かれるのだろうか?






「あれ、月海つぐみちゃん――なに、してるの」


寮の玄関。

スーツケースを横に置き、靴紐を結んでいる少女がいた。


「ああ…くじら」

振り向いた彼女の表情を見て、くじらは思わず息を吞む。

くしゃりと、辛そうな笑みだった。



なんで。

混乱により上手く発声できず、ただ鯉のように口をはくはくさせる。


「……見ての通りよ。この学園を去るの」

くじらの言おうとしたことを察して、答えた。

髪と同じ栗色をしたスーツケースをうら悲しそうに撫でる。




「ち、違う。そういう意味じゃなくて――どうして。だって、『人を誰よりも美しく魅せるのが、夢だ』って」


虚しいだけのバッドエンドは、ハッピーエンドにすることはできないが、ほろ苦いメリーバッドエンドにすることならできる。


それをくじらに教えたのは他の誰でもない月海つぐみだったのに。




「簡単な話よ、あたしは夢を叶えることじゃなく追うことが目的になってしまっている。…いつのまにか、目的と手段が入れ替わってたの」


校長先生との面談でそれに気が付いたってだけ。



淡々とした口調とは裏腹に、しわが寄っている眉間。

くじらは何も言うことができなかった。



「それじゃ、そろそろ行くわ。くじらは――心配しなくても大丈夫よね。


そう片手を振って、彼女はパンタソスから出て行ってしまった。



スーツケースを転がす音が完全に聞こえなくなるまで、くじらはあ然としてただ玄関を眺めていた。


そしてふと、先日自分が三人へ向かって言い捨てた言葉を思い出す。



『いいよねみんなは。夢破れても眩しいものを失うだけ』



だけ、なんかじゃない。

それがどれだけ辛くて虚しいことか、そんなの考えずとも分かることだ。



「でも…わたしには分からなかった」


それもそのはず。

くじらはそもそも、追うべきものを見つけられていないのだから。




*   *   *





「あんなこと言ってごめん」


どうにもその言葉を伝えることができなくて、あっという間に今日最後の授業になってしまった。


その上に生憎内容は体育祭の準備で、三人とは割り振られた係が違うために話しかけるどころか会う事すらできない。

下校の時も、優香里が体育祭の運営であるため時間をとることはできないだろう。



あんな最低なことを吐き捨ててしまって以来、くじらは三人を避け続けていた。それも今日で数週間のことになる。


はやく謝罪して訂正しなければ、もう彼らと以前のようにくだらなくて他愛もない会話を交わすことは叶わないだろうから。――否、もうすでに遅いかもしれない。




「ちょっとくじらちゃん、何ぽけーっとしてるの」


ラインパウダー足りないから取って来てって言ったよね、と慌ただしく競技道具を運ぶクラスメイト。


「あ、はい」


くじらは我に返って、そそくさと倉庫へと向かった。




突然人が減ったものだから、その分体育祭準備も大変になっているのだ。

企画委員、実行委員――その空いた穴を埋めなくてはならない。


心にわだかまりを抱えているのは自分だけでないことを、くじらは忘れていた。




次のテストで不合格になり退学するのは自分かもしれない。

明日目が覚めたら、夢を叶えられるという自信がまるっきり消えているかもしれない。

そして、それを考える時点で既に負けだ。




皆の心を写し取ったかのように暗い空の下、くじらはコンクリートを歩いて第二体育館倉庫までたどり着いた。


多くの生徒がせわしなく出入りする第一倉庫と打って変わって、ここにくじら以外の人の影は無い。


開け放たれた扉、薄暗いその向こう側。

深く息を吸うと、湖では出会えない、埃の香りが胸いっぱいに広がった。




欠陥があるのかここ数年使われずに眠っている畳まれた綱、玉入れに使う網の付いた棒などが並ぶ横に、唯一埃をかぶっていない物を見つけ出す。

目当ての石灰だった。


「ラインパウダー…か。湖じゃあ粉なんて一瞬で溶けちゃうもん、わざわざ杭を打って、紐を巻いて円を作ってたなぁ」


懐古の情を催すそれををくじらの細い指がなぞる。

白くなっているかなと指の腹を見るが、ビニールに包まれているので粉が付くわけもなく。


陸の人間にとってはそんなの当たり前どころか考えるまでもないことだろう。


どこまで行っても自分は異種なのだな、と思ったくじらは、その袋を持ち上げようとするのをやめた。



「いくら人間の皮を被ったって、中身が変わる事なんてないじゃんね。だったら、もう」


いくつも積みあがって膝程の山を成していた、未開封の石灰たち。

くじらはそれに腰を下ろし、目をつぶる。


あのクラスメイトはきっと今頃、いつまでたってもラインパウダーが来ない、と怒っていることだろう。



けれどくじらは腰を上げようとはしなかった。



その代わりに、ただ考えを巡らせる。





「泡になりたくない」


それは恋した人間を追って深く傷ついた友人の姿を目にしたとき、漠然と感じたことだった。ああはなりたくない、と。


理解できない。

なぜ他人のために黄金のような髪を、美しいターコイズブルーの鰭を捨てることができてしまうのだろうか。


くじらが持っているのは、美しいとされるそれらではなく、その反対である紫。



人間の足を望み、その煌めく鰭を捨てるのならばいっそ譲ってくれ。






湖では、人魚たちの世界では、くじらは弱かった。


早く泳げるわけでも喧嘩が強いわけでもない。

守ってあげたくなるような美しい容姿をしているわけでもない。


かと言って弱いなりに自己愛を貫けるほどの残虐性もない。



唯一持って生まれた――それも個の力ではなく血に由来するものではあったが――蕩けるような幻惑を見せる歌でさえ、人魚相手に通じるものではない。





――――うみは弱肉強食。


海獣に襲われ死人が出るだなんてのはもはや当たり前だったし、人魚同士の生存競争……つまりは殺し合いだって珍しいものではなかった。


弱き者は死ぬ。

それが普通なのだ。




「あの…青い鰭の子、最近見かけないですね」

くじらのその問いは、ほんの世間話のつもりだった。


「ああ、あの子なら鮫の餌になったって。まあ前からどんくさい子だったし、いつかこうなんじゃないかと思ってたわ」


「沈没船の裏で鰭と小骨が落ちてるの見た。あれってあの子だったんだね~」




昨日の夕飯が何だった、とでも言うような軽さ。


うみの無情さなんてとっくに知っているはずだったのに、くじらはその会話を目の当たりにして唖然とした。





いつの間にか数を減らしていく同胞たち。




そんな魔境で、くじらはずっと怯えていたのだ。

次は自分の番かもしれない、と。






だから、必死に弱い自分を隠した。


童話の人魚姫に憧れるような可愛げのある少女は、きっともういない。



彼女を殺したのは正真正銘、他の誰でもない自分。








――――ただでさえ死というものは怖いのに、それを他人に捧げるだなんていかれている




人魚というのは自分が生き残ることができれば他人はどうでもいい、そういう冷徹な生き物だ。

しかしそれでいて、深く好きになったものや恋焦がれる相手には自分の命すら簡単に差し出してしまう。





おかしい。

理解が及ばない。

狂っている。



「怪物」とは。

それはくじらから見た彼ら人魚のことだった。

そしてきっと、人間から見た自分のことでもあるのだろう。


人魚にも人間にも、どちらにも成り切れない少女はそう思っている。










 薄暗い体育館倉庫。

くじらが舟を漕ぎだした頃、鐘の音が響き渡った。


「さぼりなんて初めてしたなあ」なんて思いつつゆっくりと立ち上がって、皆がいるであろうグラウンドを目指し歩き始める。



どうにもまだ二つに裂けた尾びれが気持ち悪いな、と視線を足元へ向ければ、コンクリートに染みができた。


それはぽつり、じゅわり、と増えていく。




それが雨なのか――はたまた涙なのか分からなくて、ぼんやり上を見上げる。


……水を湛えた分厚い雲がとうとう泣き出したようだった。





水はジャージに染み込み体を濡らす。


その感覚はくじらに落ち着きを与えて、「ああ、結局自分の故郷はあの魔境なのだな」ということを思い出させる。



くじらは目を閉じ、降り落つ雨水に身を委ねた。









「やっと見つけた、くじら!」


「最近様子がおかしいし、姿が見えないから心配したんだよ~」


「ほんとだーっ! いたーーっっ!!」


聞き慣れた声に、くじらは目を開いた。



「みん、な」


三つの影が――得に空色の少女が猛ダッシュで近寄ってくる。



「ほら、傘! もう、こんなにびしょ濡れになっ、て……」


くじらの姿を目にした優香里はピシリと凍り付いたように固まった。



後ろから追いついた二人が「どうしたの」と声をかけようとしたが――それは飲み込まれる。




「くじら……何、それ。どういうこと」




ところどころ脚の皮膚から顔を出した、鱗。


すっかり濡れてぺしょりとした髪から覗く耳の片方は鰭の形をしている。



すぐに人間のそれではないと分かるその造形に、三人は息を呑んだ。




「……これ、ね――――」


濡れたことにより、その部分が僅かに元の姿に戻ってしまっていた。






『いくら人間の皮を被ったって、中身が変わる事なんてない。だったら、もう』



――――もう、自らを偽る必要などないのかもしれない。




少女は疲弊していた。



「わたし、もう、にんげんで……いられない」



もうこれ以上、自分を殺したくない。



「どうがんばったって、できそこないの人魚なの。わたしはお姫さまみたいに強くないから、きれいじゃないから」


――――やさしく、なれないから





水中を漂う小さな泡のように、ぽつりと生まれ零れてしまった本音。



「きっとわたしは……おうじさまをナイフで刺せちゃうような人魚なの」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る