第16話 舞踏する白昼夢
「――~…、~~♪」
朝の空き教室、微かなほこりの香り。
いつからかここは四人の秘密基地のようになっていて、異郷で唯一一息つける場所だった。
そんな隠れ家で、購買で手に入れた安物のイヤホンを耳にくじらは横に揺れていた。
「おはよくじら、何聴いてるのー?」
「うわぁっ、びっくりした…おはよう柊雨くん」
片耳からイヤホンを抜き取ってにやりと微笑み、丁寧とは言い難い挨拶をする。
それでもくじらの頬は緩んだままだ。
「んふ、なに、いいことでもあったの?」
「え?……いえ、そんなことないですよ」
「……ふーん?」
明らかにいつもより機嫌がいいくじらに気が付いた柊雨は、面白そうなものを見つけた、とでも言うような顔で隣の席に座る。
人間は、特に年頃の子はあまり人前で歌うのを好まない。
しかしそんなことを知らないくじらは柊雨が来てもなおハミングを続けていた。
そう、とても機嫌がいいのだ。
なんだって人間の姿でも「魅了の力」を完璧にコントロールし歌えるようになったのだから。
少女が何よりも愛する歌を制限するものはなくなった。なんて清々しい気分なのだろう!
うみには感情をメロディにのせて表現する文化がある。
楽しい時は弾けるようなスタッカート、美しい風景に思いをはせるならば伸びやかなスラーで。
陸――というよりこの世界では、「ミュージカル的だ」とあまり馴染みのないことだ。この国日本は昔、歌というより詩が主だったので特に。
そのため教室で堂々と歌う彼女に、柊雨は好奇心をくすぐられたのだ。
前から感じていた、くじらの周りとは少しズレた感性。
眩しくて愚かな――――僅かの希望。
「何聴いてるの……って」
その言葉は最後まで紡がれることなく、途切れる。
声が出ない以前に呼吸がひゅと詰まったのだ。
浮かれた様子の彼女が持つ端末に映っていた、音楽ストリーミングサイトのUI。
そこに光っていた曲名に、見覚えがありすぎた。
『
彼女のイヤホンから漏れる旋律は何度も何度も、繰り返し聞いてきたメロディ。
それでもこの曲に飽きないのは、歓声に高揚する気分と青いペンライトの海を、未だにどうしようもないほど愛しているから。
今でもこびりついて離れない、まぶしくて煌びやかなステージ。
そこでは、僕こそが紛うことなき主人公――――
「……どうして、その曲を?」
動揺を隠せずにやや震えた声で尋ねる。
「柊雨くんが『アイドルになりたいんだ』って言ってたから、アイドルってどんな歌をうたうのか気になって。そういえばセンターの人の声…柊雨くんに似てるね」
芯があり爽やかで、しかし甘さもふくんでいて。
所謂ドルオタの女の子が好きそうな声だけれど、どこか目を――耳をひく。
「あー……わかっちゃう?」
「えっと、なにが?」
「実は俺この人の歌い方参考にしてるんだよね。いつかデビューできたら、こんなアイドルになりたいなって」
見え透いた嘘だ。
表情もどことなくひきつっており、いつもより速く鼓動が鳴る。
「そっか、じゃあ今度いっしょに歌おう!」
「……へ?」
くじらの未だかつてないほどの満面の笑みに、柊雨は拍子抜けして間抜けな声が出る。
彼女が人の秘密や嘘に敏感であることは嫌という程知っていたし、今回だって暴かれてしまうと思っていたのに。
柊雨の苦悩は露知らず、くじらは呑気にサビのメロディを鼻歌でなぞっていた。
そんなに楽しそうな彼女は見たことがなくて、柊雨は狼狽える。
しかし、いつもは隙が無く掴みどころも無いくじらが、ただの普通の少女に見えた。
ただ三度の飯より歌を愛している、それだけの少女。
それは自分となにも変わらないように思えて、なんだか気が緩んでしまう。
――――そう、少しの油断も、うみでは命取り。
「……うん、歌おう」
その言葉を待っていたとでも言うように、くじらはすぐに立ち上がる。
そしてほこりを被ったミュージックデッキと端末を無線でつなげば、教室はコンサートホール、あるいはディスコルームへと一瞬で変貌するのだ。
テンションがハイになってしまっているくじらは、流れるように柊雨の手を引いて踊りだす。
まるで幼い子どものような拙い足取りで、それはお世辞にも上手とは言えないが、それでも柊雨の心を浮かせるには十分だった。
驚き目を丸くしたままだった少年もついには楽しくなり始め、足が勝手にステップを踏みだす。
それはかなりのブランクがあるはずなのに、かつてステージに立っていた頃から色褪せていない。
くじらは音楽デッキから流れる柊雨の声よりも一オクターブ高く、しかし耳障りでない優しい高音を紡ぐ。
透き通っていて軽やかな歌声は、まるで波打つ浅瀬のよう。
少女が伸びやかなステップを踏むたびに、足元から水面に起こる波紋が広がってゆく。
川に葉が落ちたときみたいな柔らかなその水紋は、まるで催眠術のうずまきのようだった。
実際、柊雨はそれを幻覚だと思っていたがそうではない。
くじらの中に存在するうみが、彼女の歌に誘われてやってきたのだ。
上履きが教室の床を蹴るたびにぴちゃぴちゃと水音が奏でられる。
それすら曲を彩るアクセント――――すなわち楽器のようで、柊雨は非現実の世界に来てしまったと錯覚した。
「だいじょうぶ、なにも怖いものはないよ」
少年の微かな不安を感じ取ったのか、幼い子どもを宥めるような声を発する。
巨大なうみにとっては十六歳も赤ん坊も同じようなものなのだ。
理性が残っていれば不気味としか感じないそれも、今の柊雨にとっては甘すぎた。まるで操られるかのように、ゆっくりとうみに身を委ねた。
今聞こえているのは、歌っているのは、自分の歌であるはずなのに。
それなのに今この空間の主導権を握っているのは紛れもなくうみだった。
明るくポップなアイドルソングはくぐもって、童話の世界ようなヒーリングミュージックに聞こえる。
自分が生み出した曲が、今この短いひとときだけはうみのものとなる。
なんておかしな話なのだろう。
しかし海にとってそれは当然なのだ、とも理解できてしまう。
(なに……これ)
正常な思考を奪われていることだけが分かって、あとは歌が楽しい、それだけ。
明らかに人間ができることではない、そんな恐怖すべき事実もまた心地よく感じてしまう。
目の前の少女はうみではない。ならば一体だれなのか。
――――魔女だ。
抗うという選択肢が浮かばないほどに強大な力を呼び寄せた本人。
神の使い、すなわち天使でありながら魔女なのだ。
何を間違っても、『人』なんて呼んでいい存在じゃない。
鼻をかすめる汐の香りも、今この刹那だけ失われている陸の獣の香りも、はじめはひとつ。
陸も湖も川も、すべては海から生まれし家族なのである。
ならば、もう水門など存在しなくてもいいのだ。
「あ!くじらちゃんと柊雨くん!! ふたりで何楽しそうなことしてるのーっっ!!!」
「優香里ちゃんに瑠奈ちゃん、おはよう」
ふと、意識が現実へ引きずり戻される。
柊雨は本能的に足元を見たが、三階の教室が水浸しになっている――――訳もなく。
ただいつも通り、埃が積もった茶色の床があるのみだった。
くじらに視線をやっても、魔女だとか天使とはかけ離れた、よくいる普通の少女に過ぎなかった。
「二人だけずるいずるい」と駄々をこねる優香里を宥めながら瑠奈と談笑している。
「柊雨くん?どうしたの、ぼぅっとして」
彼女の声からはもう汐の香りはしなくて――――
(……って、何考えてるんだろ。音に匂いがするはずないのに。本当おかしな話だ)
――――おかしいのは海やくじらじゃなく、僕なのだろうか?
段々と記憶すらあやふやになってきて、柊雨は自分は居眠りをしていて夢を見たのかもしれない、なんて考えだした。
「くじらちゃんたち、テストはもうすぐなのにそんなにのんびりしてていいの~?」
心配そうにする瑠奈の質問に、くじらは何故か堂々と答える。
「『泡になりたくない』、もうそれだけで十分なんじゃないかなって。わたしがそれを諦めるだなんてありえないし」
泡…?と頭にハテナを浮かべる二人だったが、予鈴が鳴ったことでそそくさと教室へ戻って行った。
優香里と瑠奈より遅く、空き教室を後にしようとしていたくじらと柊雨。
ドアの前で立ち止まったかと思えばふわりと振り返った少女に、柊雨はやっと今更恐怖を覚えた。
魔女もとい天使は人差し指を口元にあて、目を細めて微笑んだ。
「さっきのことはひみつね」
なんとも言い難い圧に、柊雨はごくりと唾を飲み込む。
そもそもくじらは、彼が形容した魔女や天使なんかではなく、更に上位の存在――――人魚なのだ。
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