第13話 曇天



「~――――…♪」


薄汚れたコンクリートに、乳白色の空が影を落とす。

制服のジャケットが暑苦しく感じる近頃、風は生暖かい。


しかし今日ばかりは、太陽が厚い雲に隠されていることで、いつもより空気が冷たく感じる。



少女の微かなハミングは誰もいない屋上に溶けて消えた。

鼻歌と聞けば機嫌がいいのかと思うかもしれないが、今の彼女の場合そうではなかった。

どこに向けられているのか分からない目線は物憂げで、その歌でさえ故意ではなく、なんとなく無意識に零れているものだ。


その姿はなんだか儚げで、美しくも近寄りがたい。

とは言っても、ここには少女以外の誰もいないのだが。




一人の世界を打ち破ったのは彼女の担任であった。



「おぉ、くじらか」

眠目は、そこに少女がいるのは予想外だったというように少し驚いた表情を見せた後、僅かに微笑んだ。


教師の存在に気が付いたくじらはハミングをやめ、何とも言えない目で見上げる。


「……眠目先生。どうしたんですか」

なぜか少し不服そうな声色は、詰るようにその名前を呼ぶ。


眠目はその理由を察するが、少女に気を遣うことなく、隣にどかっと座った。



「何って、一服だよ」

確かに、その手にはいちごオレと書かれたパックがある。


お前も飲むか、とどこからともなく現れたもう一つのいちごオレをくじらに投げた。


「なんでもう一つあるんですか、それってわたしがここにいるって分かってたんですよね――」

「いいからいいから、はやく飲めよ。あ、皆には秘密だぞ」


有無を言わせない眠目に、じっとりとした視線を送る。

しかしこうなった彼女は梃子でも動かないことを知っているので、諦めてパックにストローを差し込んだ。


興味深そうにそれを緩く振った後、試しに口を付けてみる。



「あっま……。先生、いつもこんなの飲んでるんですか」


「何だよその言い方。甘くて美味いだろ」


どうやらいちごオレはくじらの口には合わなかったようだ。

眠目先生って甘党なのかな、なんて考えながら、仕方がないのでしぶしぶ二口目を含んだ。




そよ風が沈黙を運んでゆく。


自分を探してここに来たはずの彼女は、一向に口を開こうとしない。

くじらは少し不安になってきて、ちらちらと眠目の様子をうかがう。



「…………せんせ、」

「あ、そうだくじら。無暗にそこら辺で歌うの控えてくれ。幻覚や吐き気を催した生徒がふたりも――――すまん、何か言おうとしたか?」


同じタイミングで話し始めてしまったことに困惑したくじらは、「い、いえ…」なんて弱々しい反応をする。


「…? そうか、ならいいんだが」

眠目は再びいちごオレを飲み始める。


くじらはしばらく視線を泳がせてから言う。

「その人たち、幻覚や吐き気だけですか?」


そんなことを聞かれると思っていなかったので、ぱちくりまばたきをしてから答えた。

「大丈夫だぞ、ふたりともすぐに症状は治まった。もちろん後遺症とかもないし――」

「そうじゃなくて」

安心させるように微笑む眠目の言葉を遮り、続ける。




「おかしいんです。普段なら、何も考えずに歌った時には魅了の力は籠らないはずなのに」


「……つまり、歌った時なんの力もないのがデフォルトで、力を籠めることで魅了できるってことか?」


「普段ならそうです。でも」



――――今は、逆になっている。




「人間の姿だからでしょうか、力の制御が不安定なんです。いつもみたいに超音波が聞こえないとか、そういうのはいいんですけど……歌はそういう訳にいかない」


くじらには、ふと無意識に鼻歌をうたう癖があった。

本当に無意識なのだ。しかしそうと分かった今は、きちんと気を付けなければならない。



「はぁ。先生、なんで人間ってこんなに弱いんですか?」

首絞めただけで死んじゃうとか信じられない、と不満げに口をとがらせる。


「人間の強さは個ではなく数だからな」

そんなくじらを面白く感じた眠目は笑って言った。


「……知ってますよ、そのくらい」



*  *  *




「やっほーくじらちゃ……あ゙ーっっ!! いいないいないちごオレ!!」

飛びついてきたかと思えば、くじらの手に握られたパックを指さす。


優香里は今日も今日とて楽しそうだ。



「ごめん、これ空っぽだよ。今から捨てに行くの」


「そうなんだ、僕もついてくー!」


狭めの歩幅で歩くくじらの後ろを、優香里がてちてち付いてくる。

まるでペンギンの親子だ。


「くじらちゃん、いちごオレ好きなの?」

優香里の質問にくじらは少々頭を悩ませる。


「んー…あんまり好きじゃなかったかな」


「え、じゃあなんで買ったの」


「もらったんですよ」


「ふぅん」

自分で聞いてきたくせに興味なさげな感嘆。しかしくじらも気にしてはいない。


「そういえば教室にいなくていいの? 瑠奈ちゃんもいるよね」

わたしより瑠奈ちゃんの方が仲いいじゃん、的な意味である。

しかし純粋な優香里は、幸か不幸かそれに気づくことなく答えた。


「だってぇ……」


「だって?」



「教室、ピリピリしてるんだもん」


彼女らしくない、憂いを含んだ声色。

その目線は屋上でのくじらのように、どこでもないどこかへ向けられている。



居心地が悪いのはもちろんだが、彼女の場合きっとそれ以上にみんなが心配なのだ。

だからこそその場に居たくないのだろう。


「くじらちゃんは最近の教室の空気、すき?」

切なげなその面持ちを見て、少し可哀そうに思ったくじらは困ったように微笑む。


「わたしはふつうかな…」


だって、これよりもっと居心地の悪いところで暮らしていたし。

なんて続きの言葉が飛び出ないよう、口をきゅっと閉ざした。


くじらにとってこの空気は懐かしく思えるものだった。

以前と異なるのは、自分がピリピリしているのではなくそれを眺める側になったということ。



「あ、そうだ」


「なぁに?」


「良かったら図書室とかで箸の持ち方教えてくれませんか? 教室にいたくないんだよね」


自分で言っておいて、くじらは内心驚いていた。

箸が使えないというある意味弱点である部分を、既にバレているとはいえ自分から晒したのだから。


「うんいいよ!」

そんなくじらの気持ちも露知らず、優香里は元気よく答える。




図書室までの短くも長い道のりを、ふたりは色々な話をしながら歩いた。

テストが近く退学なんて最悪がちらついているため、皆平常心を保っていられないとか。それは自分も同じであるとか、一概に夢と言われても難しいよねとか。



「っていうか僕、居心地悪いってだけで教室抜け出して来たりなんてしないよ」

そういう言い方をすると授業をボイコットしたように聞こえるが安心してほしい。

今は休み時間である。


「じゃあなんでわたしのところに来たんですか?」

会話のボールを受け取り、テンプレートに従って投げ返す。


「柊雨くんと瑠奈ちゃんがお話してるんだよねー…。ほんとは気になるんだけど、僕の知らない話してるし」


“お話”

それは日常会話ではなく夢やら過去やら、そういった重みのあるものなのだろうとくじらは察した。


ふたりの事はよくわからないし、興味もない。


(あれ、興味……ないこともない?)



「ねえ優香里ちゃん。せっかくここまで来たけど、盗み聞きしに行かない?……だめかな」

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