第9話 幻影



「――~~…♪」


囁くような鼻歌とともに潮の香りが漂ってくる。



この学園は内陸に位置しているため、海を感じることなどないはずなのに。

声は浅瀬の波のように透き通って爽やかで、しかしどこか甘さもある――――蕩けてしまいそうだ。


ベールに包まれ謎めいた、甘い罠。




鼻歌に言葉が加わると同時に、優香里は歌声がする方へ歩みだした。渡り廊下を進み、中庭へと急ぐ。

この一歩で僅かでも声の主に近づいていると思うと、なぜか心が浮ついてしまう。そう、まるで恋みたいな――――


優香里は自身が「木の蜜に誘われ吸い寄せられる虫のようだ」と自覚していたが、不思議と足を止めることはできなかった。



(知らない言語なのに意味がわかる…)


歌詞は日本語でもなければ英語でもない。そのはずなのに言葉の意味がすんなり理解できてしまうのだ。

脳に直接語りかけられているような不気味さと不穏な歌詞に、優香里は身震いした。


しかしまた、その恐怖でさえも心地よく感じてしまう。





 飴のようなガラスドアを乱雑に開け放ち、中庭に足を踏み入れると同時に走り出す。

数週間前はしゃいだ庭の広さが、今はどうしようもなく鬱陶しい。

一秒でも早く歌い手の顔を見たい、一ミリでも近くで歌を聞きたいというのに、距離という壁がそれを阻む。



放課後ということもあり、多くの生徒たちが屯している。

人ごみをかき分けながら大股で進むと、驚いた目で優香里を見つめる。見知った顔の彼は、まるでその行動が僕らしくないとでも言いたげだ。


いつもならば慌ててぶつかったことを謝るだろうが、今はその時間さえ惜しい。

「僕らしくない」、そんなのはどうだって良かった。


なぜなら彼女に会えればすべてがどうでも良くなると思ったから。



優香里は、自身が徐々に狂っていくのが嬉しくてたまらなかった。

その思考もまた毒に侵されているとは気が付かないまま。




 ようやく人影のない中庭の一角に辿り着く。

足を止め、乱れた呼吸を整えて顔を上げると、優香里は息をのんだ。


物憂げな表情で花壇の石に座って花とたわむれるくじらが、優香里の目には天使のように映ったのだ。



追い求めた歌を紡ぐ、潤った唇。

春風しゅんぷうになびく浅紫色は細やかで、まるで絹糸のよう。

いつもは心配になるほどに白い、滑らかな肌は夕日に照らされたことで少々健康的に見える。


まるで一枚の絵画のようだ、と優香里はため息をついた。



どこか遠くを見つめる瞳には温度が宿っておらず、なんだか死びとのようで、儚くも恐ろしい。

そう。もちろん暖かくはないが、冷たいわけでもないのだ。その瞳が語るのは、人間には到底理解できないであろう感情。




そんな中、優香里の頭には突拍子もない考えが浮かんだ。

(あぁそっか、これは朝焼けなんだ)


今でも偶にフラッシュバックする、差別や理不尽――辛い思い出の数々。

どんな長い夜もいつかは必ず明けると言うように、おそらくこの小さな女神が朝を運んできてくれたのだ。



しかし時折見せる、夕日を眩しがって目を細める仕草がどうしようもなく人間臭くて。

浮世離れした雰囲気を漂わせる目の前の少女がかわいそうに思えた。









 しばらくの間飽きもせずうっとり見つめていたが、その時間は少女が歌をやめたことにより終わった。


海水と珊瑚の色をした目を大きく見開く。優香里がいることに気が付いたのだ。

しばらく状況を理解していないみたいにぱちぱちとまばたきをしてから、はっとして勢いよく立ち上がった。



少女は珍しく驚きという本心をさらけ出して優香里に駆け寄る。


「だっ、だいじょうぶ!? 吐き気と頭痛は――――はっ、『わたしにすべてを捧げたい』とか思ってないよね?!」


「え、あ…あれ?」

優香里も少女と同じように目をぱちくりさせた。



(あれ…くじらちゃんってこんなに綺麗だったっけ)


まるで憑いていたか何かが離れていったかのように我に返る。



「なんで僕中庭なんかに来ちゃったんだろ、職員室に行こうと思ってたのに」


記憶がないわけではない。正真正銘、しっかり自分の脚でここまで来た。

だけれど、どうしようもなくくじらの歌を近くで聞きたくて、彼女に会いたくて仕方がなかった。その気持ちはどんどん強くなっていって――――。


目が覚めるのがもう少し遅ければ、くじらに「わたしに会いたければ崖の下まで来て」と言われたら喜んで飛び降りてしまうほどだったかもしれない。



「……あはは、何その変な質問。僕はいつでも超元気だよ!」

いつも通りにニカっと笑ってみせると、くじらは胸をなでおろした。


「よ、よかったぁ…」

眉尻を下げ、ふにゃりと微笑む。


彼女らしくない気の抜けた様子に、優香里は目を丸くする。

そしてすぐあることを確信した。



「ねぇ、くじらちゃんにはさ…僕らとの間にどんな壁が見えてるの?」


内情などこれっぽっちも知らない。

だけれど優香里は、誰よりも分厚い壁を嫌い、それを壊すことの難しさを知っていた。


どうか、彼女が壁を作り終えて完全な硬さになってしまう前に、僕の重機が間に合いますように。



優香里が質問を投げかけるとくじらは唇を噛んで、そしていつも通りに戻ってしまった。


「……なんの話ですか?」

作り笑いだと気が付ける人はそういないだろうという程の完璧な笑みに、優香里は眉をひそめる。


(ああ、これはギリギリの人の笑顔だ)


くじらの危うさに、優香里は気が付いていた。全てどうでもいい癖に投げ出せない苦しみを。


だけれどむやみに首を突っ込んでしまうと、その苦しみの度合いによっては頼んでもいないのにアドバイスしてくる、ただのうざったい人にしかならない。

そのため、優香里は慎重に測っていたのだ。


たった今確信した。これは強引にでもどうにかしなければならないレベルだと。

お節介でも余計なお世話でもいい。何としてでもこちらに引きずり戻さなくては。




相手の内情を知りたければまずは自分をさらけ出す必要があると、優香里は心得ている。

己を落ち着かせるため軽く深呼吸してから、口を開いた。


「僕、実は――」



性別のこと、それ故差別はもちろん、度々理不尽な扱いもされていたこと。

そしてそれらを少しでも減らしたくてこの学園に来たこと。



突然激重な事情を話されたことで、くじらは心底驚いた顔をする。

しかしすべてを赤裸々に語られた意図も理解していた。彼女は悲しいほど聡明なのだ。



「くじらちゃんは……理不尽だって思ったことな――」

「夢、叶えられると思いますよ。だっておんなじ人間なんですから、分かり合えないなんてことないでしょう」


やや被せ気味に紡がれた言葉と、まっすぐ合わせられた目には圧がある。

まるでこれ以上は言わせないとでも言うように。



「分かり合えないはずないでしょう」、その言葉に優香里は顔をしかめた。

ゆっくりと歩み寄ろうという意思を怒りが塗り替えてしまう。



「なんで」



「…え」

わなわなと身を震わせる彼女を見て、くじらは地雷を踏みぬいてしまったことを悟った。


「なんでそんな無責任なこと言えるの! 同じ人間だからって……同じ大地に住んでるからって、それだけで分かり合えるはずないじゃん!!」


突然張り上げられた声に驚いたくじらは目を見開いた。



「『郷に入っては郷に従え』って、いつだって多数派が正義なんだよ! 少数派が自分たちを認めてほしくて多数派を責めるのは違うけど…違うけどさ、だからってこっちを虐げていいはずないじゃん」



「……だからなんですか」


「人間だからって全員が分かり合えてたらっ!! 僕はこんな苦しい思いしなかったしなんなら戦争だって起きてないんだよ!!」

「だったら!!」


優香里よりも大きな声で話を遮る。



「……だったら、人間じゃないならもっと分かり合えないじゃん」


先ほどまでの勢いを失い自信なくつぶやくくじらを見て、まるで冷水をかけられたかのように優香里は落ち着きを取り戻した。



人魚が隠れて生活しなくてはいけなくなったのは、数という暴力で領土を広げてきた人間のせい。

嫉妬に狂ってしまうほど美しかったあの子が、ズタズタに傷ついて帰ってきたのも人間のせい。

わたしが今ここでこうやって取り繕わないといけないのも、やろうと思えば一瞬で尾根を折ることができてしまうほどに弱い人間のせい。


だけどもこの世は弱肉強食、全ては人魚が弱かったせいだ。

「種族間の溝はどうしたって埋められない」くじらはそれを信じて疑わない。



今大声で歌えば、この中庭にいる生徒の八割を服従させることができてしまうだろう。

そう、圧倒的に人魚の方が強いはずなのだ。

しかし己より強き相手に数で挑むことで勝利を手にしてきた人間相手に、今くじらは一人孤独だ。


もしここがうみの中だったのなら、くじらは迷わず歌っただろう。

危険を察知した同胞たちに慈悲はない。迷わずくじらという脅威を排除――つまり一思いに殺してくれるだろうから。


しかしここは陸。なまぬるい陸。

優しくて説教、厳しくて警察のお世話、その程度だ。




「そっ…か、わたし怖いんだ。そりゃそうだよね、だって異郷にひとりぼっちだもん」


長々と思考した甲斐あって、納得できる答えを見つけた少女はすべてを投げだしたかのようにつぶやく。

まるで歌うかのように、滑らかに言葉を並べた。




「理不尽だなんて思ったことないよ」

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