第4話 陸に溺れる
コシのある麺にフォークを突っ込んでちゅるりと啜り――くじらはただひたすらにそれを繰り返していた。
麺は太めで、噛めば程よく押し返されるような弾力がある。一本一本が長く食べにくいが、それを一気に啜り上げると出汁が口いっぱいに広がる。
味付けはたまごとぽん酢という実にシンプルなもの。くじらは最初寂しい味がしそうだと思ったが、口に含んですぐにそれは間違いだと気がついた。
ぽん酢の塩気と酸味の程よい刺激をたまごがまろやかにし、それが麺を包む。
ああ、なんて素晴らしい食べ物なのだろう!
彼女は微塵も陸に魅力など感じていなかったが、これは確かに、飯は美味だなと思い直した。
彼女ら一年生が入学して数日が経ち、そろそろ学園生活に慣れてくるかと言う頃。
ここは食堂。
入口から一番遠い端っこの席でひとり、くじらは朝食という幸せに浸っていた。
「いたいた! お隣いいですか!」
突然、特徴的なスカイブルーの髪を高くひとつに結んだ少女が、ぱたぱたと小走りでこちらに近づいてくる。
「…んぇ?」
くじらは驚いて顔を上げる。食事を共にする仲などいなかったし、わざわざこんな席まで来る人はなかなかいないので。こんな風に陽気な人ではなく、いかにも根暗そうな人ならいるが。
誤解しないで欲しいのだが、友人がいないわけではない。…親しいと言える人がいないだけで。
それにしても、頬にうどんを詰め込んだままなので、実に間抜けな顔だ。
「あっ。挨拶もなしにごめんなさい、おはよう!」
目の前の少女はにかっと爽快に笑う。ちらりと覗く八重歯がチャーミングだ。
彼女とは対照的に、くじらは混乱していた。
何かしゃべらなければと思うと口内の麺が邪魔で、もごもごと言葉では無い音が発せられた。
とりあえずそれを咀嚼し、飲み込む。
お行儀の悪いことをしてしまったなと思って、自己紹介の時のような柔らかい雰囲気を纏って――ようやく口を開いた。
「おはようございま――えっあの、わたしですか? 人違いでは…」
「ん? くじらちゃん…だよね」
「そ、そうです!」
「もしかして僕のこと分かりませんか…? 後ろの席、なんですけど…」
徐々に声が小さくなっていくし、視線は下に落ちていくしで、ションボリという効果音がつきそうだ。
後ろの席、後ろの――――
慌てて記憶の棚を物色する。
確か名前は、黒澤優香里…だったはず。
くじらは意味で焦った。
失礼なことをしてしまったというのはもちろんだが、人間として不自然だと思ったからだ。
ここ数日彼らを観察してきて分かったのは「人間は仲間との繋がりを大事にする」ということ。人魚は割と自分が良ければ良いというところがあるため、気をつけなければと思ったばかりだったのに。
染み付いた感性というものはなかなか誤魔化せない。
「ごめんなさい、高校生になったから勉強頑張らないとって思って…そればっかりで」
眉尻を下げ、申し訳なさそうに笑ってみせる。ちなみに勉強は陸特有のもの以外自信があるため半分偽りである。
「分かります、不安ですよね…」
良かった、怪しまれていないとくじらは内心胸をなでおろした。
「あの…隣、ですよね? わたしでよければお食事ご一緒しますよ」
ここ数日くじらは、人間を演じるため彼らを観察してきた。そろそろ実行するときだと腹をくくり、心の内を暴かれないよう微笑んだ。
――――人外の冷徹さに、気が付かれないよう。
「ほっ、ほんとですか!? じゃあ失礼します!!」
パアァっと効果音が付きそうなほどに表情を明るくさせ、隣の席に座る。
その様子に一切偽りなど感じられなくて、くじらは狼狽えた。
自分はこんなに薄暗いことを考えていたのに素直にうれしそうな反応がきてしまって、若干後ろめたさを感じたのだ。
そんなことは露知らず、幸せそうにもぐもぐとご飯を詰め込む優香里は、まるでハムスターか何かのよう。ちなみに昨日図鑑で知った生き物だ。
「ほうひえひゃ、ふひひゃひゃんっへ」
「なんて??」
はっとして飲み込んでから言い直す。
「そう言えば、くじらちゃんってうどんもフォークで食べるの?」
優香里の無垢な瞳に、くじらはどきりとした。
自分でも分かっていた弱点を刺されてしまったのだ。
――――箸が、使えない。
嫌な冷や汗が噴き出す。
「じっ実は海外出身で、まだこの国の暮らしに慣れてないんです。だからまだ箸とか使えなくて」
平然を装い答える。
ちなみに嘘はついていない。
「へぇ~! 僕外国とか行ったことないからちょっと羨ましいかも! どういうところなの?」
「ん!? え、えっとぉ…大きい湖がある所…かな」
いきなりの核心をついた質問に咳き込みそうになりつつ、苦し紛れの回答をした。
もちろん嘘はついていない。
「湖かぁ、いいね! そういえば、僕の生まれた県の真ん中にもあったっけ…」
くじらちゃんのとこ程ではないと思うけど!と笑う。
くじらは優香里のポジティブさに唖然としていた。
もしも彼女が警戒心の強い人魚だったなら、今頃怪しいと睨まれていたかもしれない。うみでは観察し、まず疑うことが基本なので。根拠のない信用は、あの世界では命取りにしかならない。
もし黒澤さんがうみに行ったら、きっとすぐに沈んでしまうだろうな…なんて失礼なことを考える。
しかし不思議と、悪い気はしなかった。
今この瞬間、くじらはうみの冷たい水じゃなく、陸の空気の暖かさを知ったのだ。
他の人魚が見たら「暖かいのではなくぬるいの間違いでは?」なんて言うだろうが、もう、くじらにとってそんなものどうだって良かった。
「黒澤さん、その…もしよければ、なんですけど。わたしに箸の持ち方、教えてくれませんか」
なぜか、本当になぜか返答が怖くて目を合わせられず、ただ食堂の清潔感ある白い机とうどんを見つめる。
あれ、なんだか自分らしくないな、なんてくだらない思考もくじらの手を震わせるには十分だった。
優香里は思いもしなかった言葉に目を丸くし、しかしすぐに微笑む。
「もちろん、僕でよければいつだって教えるよ! それと」
――――優香里ちゃんって呼んでくれていいよ!
そう言ってくじらの両手をぎゅっと握る。
自分よりも少し温かい体温に、くじらはちょっと泣きそうになった。
「人魚は人間の体温でやけどする」なんて迷信があるけれどまさにそれ。両手に決して消えることのない跡を残されてしまった。やけどさせた張本人はそのことに全く気が付いていないのが、なんともうら寂しい。
「あっ。そうだ、今度二人で勉強会とかやろうよ! 席近いし」
「うん、やりたい」
くじらはふと、わたしはこれから陸にずぶずぶと溺れていくんだろうなと思った。
あの子みたいに、泡になりたくないその一心で入学してきたはずなのに。
その考えが覆ることはないが、少し心地よく感じてしまったのだ。
段々呼吸ができなくなって、意識が朦朧としてきて――本来恐怖でしかないはずのそれが。
もしその時が来たら、わたしはナイフを突き立てることができるのだろうか?
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