大波乱・1年生編

第2話 僥倖


「ひっ…やだ、やだやだ人間!! なんで!? 陸のおうちに帰ってください! ここはあなたのいるべき場所じゃな……か、帰れよ!!」


少女は半狂乱で後ろにいる人物から逃げようと暴れていた。


「そんな悲しいこと言うなよ~、これでも私は君の先生なんだぞ」

少女を追い回しているのは強気そうな女性。年齢は二十代後半といったところだろうか。

彼女には人間の脚が生えているのに、この湖底を人魚である少女と渡り合えるほどなだらかに動き回っている。


女性がズンズンと大股で歩くたびに底に積もった土が舞い水を濁らせる。余裕そうに微笑みながら迫ってくる姿は控えめに言ってホラーだ。

人魚は人間よりも遥かに水中の身のこなしが上手であるはずなのに二人の距離はどんどん縮まっていく。もちろん物理的距離が、だ。

全くもって異様な光景である。



「は~い、つっかまえた」

語尾にハートマークが付きそうな甘い声。

しかしその右手で鷲掴みにしているのは少女の尾びれで、声と行動が一致していない様は更に少女の恐怖を煽った。


「やだ、わたしまだ死にたくないぃ!! お母さん助けてぇ…」


少女はつい先日友人が人間に傷つけられるのを見たばかりであった。故にこう泣き喚くのも無理はない。


「あ~…。そんなに怖がらせるつもりはなかったんだけど…ごめんね?」


女性は事情を知らないので、阿鼻叫喚な状態の少女に若干引いている。

その蔑むような、哀れむような冷たい瞳を見たことで少女は徐々に冷静さを取り戻した。


「…だったら離してください」


「え、離したら逃げるでしょ君」


「‥‥‥‥」

図星を指されて目を泳がせる。

これで外堀を埋められてしまったので、言うことに耳を貸すほかなくなったなと少女は覚悟を決めた。

なお決意したのは話を聞くことだけである。連れ去られそうになったりすればすぐに逃げるつもりだ。


「分かりました、逃げませんからとりあえず離してください…。その様子だと、わたしを捕まえに来たってわけじゃないんですよね?」


交渉において冷静さを欠いてはならない、と知っている。感情に支配されるとなかなか抜け出せないだけで、少女は賢かった。


女性は納得したため、刺激しないようその右手をゆっくりと離す。それから話し始めた。

「まずは乱暴な真似をしたことを謝ろう、すまなかった。なにせ人魚の生徒は初めてでな」


「話が通じそうな方でよかったです。…それで、『生徒』とは…?」


「ん? 代理学園の生徒という意味だが…お前学生証持ってるよな」


「だいり…? よくわからないですが、これのことですか?」

少女はどこからか例のカードを取り出した。


「それそれ! なーんだちゃんと持ってるじゃん、それじゃあ行こっか~」

カードの存在を確認するや否や、浅瀬を目指し歩き始める。なんともマイペースな人間だ。


「ちょっ、どこにですか!?」


「どこってそりゃ…」


――学園の入学式でしょ。

そう言って女性はニヤリと微笑んだ。



「にゅ、入学式~~!?」




*  *  *




「うっわぁ…すごい変な感じ…。尾びれが真っ二つに裂けてる…」


なんやかんやで丸め込まれてしまった少女は、お世辞にもおいしいとは言えない魔法薬を飲まされ、人間と人魚の姿を自由に行き来できる体になってしまった。

女性が湖底を自由に動き回れていたのも、どうやら水中呼吸薬とやらを服用したかららしい。それにしてもヒレがない上でのあの身のこなしは、なんとも言えない恐ろしさを感じる。


「あっははは、足プルップル。生まれたての小鹿じゃないか」


「小鹿って…。――わたし、そんなに弱そうに見えるんですか」


揶揄ったつもりなのに存外悲愁感漂うリアクションが返ってきて、女性は少々戸惑った。しかしすぐに良くない出来事が少女を襲い、それをまだ引きずっているのだろうと察する。


「人魚なのに鹿は知ってるんだな」


「あなた方もマグロって言われたら魚だって分かるでしょ、それと一緒ですよ」



女性――少女の教師は少し考えてから言った。


「弱そうには見えないよ、少なくとも私にはね。それに自分は強いって、君が一番そう思ってるんじゃないのか?」


自由人で少し乱暴で信用ならないはずの相手の言葉なのに、それは彼女なりに選び抜いたものだと伝わってくる。

少女は思ってもみなかった返答に目を丸くして、しかしすぐにそのヘテロクロミアを伏せた。


「‥‥‥」




深刻な面持ちで熟考する少女を見かねた教師は、車から降り彼女の手を取る。


「君が求め探している答えは、もしかしたらここにあるかもしれないぞ」


それはまるで紳士のエスコートのようで、同性ながら少女は頬を染めた。

「…へ?」


「入学するつもりはあるんだろ。ほら、体育館に着いた」


手を引かれるまま立ち上がり見上げれば、鎮座する荘厳な建物が少女を圧倒した。

高等学校の体育館と言われても誰も信じないくらい大きいのだ。


少女は驚きのあまり言葉を失い、鯉のように口をぱくぱく開閉させている。



「…さぁ。存分に迷い、苦しみ、悩んでくれ。遥か遠くで君たちをあざ笑う、『夢』ってやつの背中を掴むためにな」

ポンっと雑に頭を撫でてから、教師は体育館の中に消えていった。




――夢。

それは火照るほど甘美で、過ぎれば毒々しい牙をむく。

そんな底が知れない「なにか」を追い求めてしまうのが人であることの運命さだめ


彼女は確かに人間ではなかったが、ヒト族ではあった。




『私ね、恋をしてしまったの。この胸の高鳴り…どうしよう、止められないわ』


フラッシュバック。見慣れた夢に浮かされた瞳。



『巻き込んでしまって…ごめんなさい。私って馬鹿よね、私も幸せな結末ハッピーエンドにはならないって分かってたのよ』


フラッシュバック。初めて目にした、夢を失い黒く染まった瞳。劣等感を抱くほどに美しかったヒレと髪はズタズタに傷ついている。


その時心の底で「こんな風になりたくない」なんて冷たいことを思っていた。

そして、なぜかとても安心したのだ。

少女は友人が傷ついたことよりも、自分の本質がこんなにニヒリスティックだと知ってしまったことにショックを受けたのだ。


幸か不幸か。少女はそれに、自分の心に傷をつけた原因にまだ気が付いていない。




胸の前で両手をぎゅっと握った。手のひらには少々汗がにじんでいる。


「わたしこれから…人間たちの中で、自分の中の人間と違うところ――怪物と向き合わなきゃいけないんだ」

自分にしか聞こえないほど小さく零した弱音は、桜と共に風にさらわれていった。



『だけどほら、やってみないと分からないでしょ!』

フラッシュバック。あるか分からない希望に脳を焼かれ、幸せそうに目を細めて微笑む少女。

彼女の初恋が実ることはなかったが、確かにその勇気は少女の背中を押した。




しばらくの間俯き佇んでいた少女は、今後訪れるであろう困難と真正面からぶち当たる覚悟を決め、ようやく前に進み始めた。

生まれたての小鹿のように、幼い子どものように拙い一歩で砂利を踏みしめ、ゆっくりと、しかし確実に体育館へ近づいていく。

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