水生夢死【代理学園・外伝】
冬路くじら
第1話 ジンクス
ここは世界で指折りの大きさを誇る湖の底。
人でありつつ人ならざる者蔓延る魔境。
陸との境目が曖昧になってしまったその日、少女はオーロラのように美麗な尾びれを翻しながら彷徨していた。
「やあやあ、そこの浮かない顔をしているお嬢ちゃん」
白髪を腰のあたりまで伸ばした老婆は、よれた頬に更にしわを増やした。
その姿は幼子が見たら夜眠れなくなるだろうと言うほどに、なんともおどろおどろしい。
老婆の声が届いていないのか少女は振り返らない。
水の流れに身を委ね、ただぼんやりとあたりを漂っている。
「おい嬢ちゃん、私の声が聞こえないのかね。そこの浅紫色をした髪のお嬢ちゃん!」
長い年月を積み重ね弱った体なりの大声で、ようやく少女は返事をした。
「え、わたしですか」
「お前さん以外誰がいるんだい」
老婆は不服そうに眉をひそめる。
「…誰もいませんね」
水面からの光もあまり届かず薄暗いここには、三百六十度どこを見渡してもふたり以外の人影は見当たらない。
「こんなところで何をされているんですか」
目を付けられてしまったからにはしょうがない、というように、少女は渋々近よってきた。
「それはお前さんの方じゃろう。若い娘がひとりでこんな湖底に来るもんじゃないよ」
――長く生きたいのならね。
少女は黙り込んだ。
もっともな反論に言い返すことができなかったのもあるが、それは老婆の姿に驚いたからであった。
言い方は悪いが、目の前に座っているのは小汚くいかにも貧しそうな年老いた女性だ。
しかし彼女は艶のある濡れ羽色のヴェールをまとっていたのだ。それは庶民である少女が一目見ただけで安くないと分かるほど上品で、雰囲気がある。
はっきり言って不釣り合いだ。
「どうだい。思わぬ邂逅を祝って、何か買っていってはくれないかい」
老婆はそそくさと商品を並べ始める。
祝うとは? その商品たちは一体どこから出した? ダメだ、つっこみが追いつかない。
それに少女は買うだなんて一言も言っていないのだが、老婆はそんなこと気にも留めていないようだ。
不信感と呆れが入り混じった表情で、少女は黙ってそれを見つめていた。
「さあ、何があったのか話してごらん。きっとぴったりな品を紹介してあげるからね」
「…なぜそれを?」
きゅっと唇を噛んだ。
その奥にある感情は怒りか、はたまた後悔か。
「何故ってそりゃあ一つに決まってるだろ。あたしゃ魔女だからね、こんなのお見通しなのさ」
「まじょ」
少女はぽかんと口を開けた。
しかしそれなら高価なヴェールを身に着けているのも頷けるなぁ、そもそも魔女っぽい見た目してるしなぁ、なんて呑気なことを考える。
普段なら笑って冗談だと片付けるだろうが、今回は信じることにしてみた。そういう気分だったのだ。
少女はしばらく考えるようなそぶりを見せてから、ゆっくりと口を開いた。
「友人がね、人間に恋をしたの」
「ハッ、そりゃ気の毒に。結末なんて昔っから決まってるのにな」
古からうみに伝わり誰もが知るひとつの童話、『人魚姫』。
姫君が人間に恋をしてかくかくしかじか、結局叶わず泡になってしまうという悲恋の物語である。
「うん、わたしもそう思った。だけどやってみなきゃ分からないって、友人はその人間に会いに行ったの。それで、なかなか帰ってこないと思って迎えに行ったら、ちょうど連れ去られそうになってるところで」
「その恋した人間にかい?」
「…その人と、その人の父親。わたし知らなかった、人魚の身体って闇市で売れば相当儲かるって」
金と暇を持て余した貴族の中には、『人魚を食せば不死身の体を手に入れられる』なんて迷信を信じる阿呆がいるらしいのだ。もちろんその迷信は嘘である。人魚を頭からつま先まで、全て腹の中に収めたとて永遠の命など手に入れられはしない。
需要と買い手がいるということは、それを売り儲けようとする貧しい者がいる。
つまりそういうことだ。
「間一髪助けられたから良かったけど…怪我、全治半年だって」
哀れな姿になった友人を見て、少女は思ったのだ。
『ああ、これが泡になるということか』――と。
「助けられたのかい? すごいじゃないか。一体どうやったんだい」
俯き悲嘆する少女と重苦しい空気を気にもせず、老婆は興味津々といった様子で尋ねる。
「歌って、ボートをひっくり返したの。でもいざとなったら声が震えて…効き目が薄くて。あの時わたしが手間取ってなかったら、あの子の怪我ももう少しマシだったかもしれない」
小さい頃はよく歌でボートを沈めて遊んでたのにおかしいよね、なんて物悲しげに微笑んだ。
「なるほど、嬢ちゃんはセイレーン系の血をひく人魚なんだね」
人間に様々な人種があるのと同じように、人魚にも種がある。
人間に近い種、魚に近い種、そして怪物――すなわちセイレーンなどに近い種など様々である。
「まあ…はい。見ての通りそんなに強くはないですが」
少女ははっと我に返る。
初対面の相手に、こんなにつらつらと自分事を話してしまった。いつもの彼女ならありえないことだ。
それだけ自分は参っているんだなと自覚した。本当に、誰かにぶち撒けなければどうにかなってしまいそうなほど、そういう気分だったのだ。
「ふむ、よし。事情はわかったぞい。そんな嬢ちゃんにぴったりな品だ、ほれ」
そう差し出されたのは、まるで星のように煌めく手のひらサイズのカード。
それは数秒間見惚れてしまうほど可憐な輝きで、少女の鱗や髪と同じ色をしていた。
「なに、これ…学生証? なんでそんなもの…。あっ、それにわたしお金持っていないので買えませんよ」
危うく触れかけたカードを老婆の元に押し返す。
「金? そんなものいらんぞ、この店は物々交換制じゃ。そう言やお前さんの瞳は左右で色が違うんじゃな。その目玉を二つとも差し出してくれれば、店にある商品全てあげるぞ」
「お断りします。……でも、鱗数枚ならいいですよ」
カードを買わず何も差し出さないという選択肢もあったが、学生証なんて突飛な商品に、少し興味が湧いていたのだ。
「ほう…光加減で色が変わって見えるな。目玉程じゃないが悪くない。よし、三枚で売ってやろう」
少女は覚悟を決め、左側の腰の下辺りから鱗を引き抜く。一思いにブチっと。
あまりの痛みに顔をしかめつつ、キラリと光るそれを差し出した。
鱗はコイン大なので、まるで本物の硬貨で買い物しているようだ。
「はい、これでいいですか…」
「うむ。確かに受け取った」
商品と対価を交換し終えたので、少女は一度ぺこりとお辞儀をしてからその場を立ち去った。
ふたりが再会することは決してないだろう。
ちなみに少女は気が付いていないが、しれっと商品以上の価値の対価を支払わされている。
あのカードは確かに鱗三枚以上の価値があるがそうではない。
老婆はあれを商品の仕入れや他の客からの対価で手に入れたものではなく、正真正銘タダで入手している。
実は自分の店の商品を売ったのではなく、ただ届け物をしただけなのだ。
「フフフ、予想外の儲けだ。今日の晩飯はクエだな」
魔女はしめしめと笑った。
しかし過払い分を遥かに凌駕する価値のある日々が、少女を待っている。
カードに書かれた言葉――『あなたの夢は?』
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