第10話 スマホケース ---透---
おかえりなさい。会いに行きます!!!
今日は待ちに待ったイベントの日だ。更紗に会える。
会うと言っても、ライブを見にいくだけのことなのだが。
透はソワソワしていた。今回のイベント、地方公演は仕事があって行けなかった。今日が最初で最後だ。トークイベントの後、更紗がソロでも歌うのだが、透が更紗に落ちた頃の歌で思い入れが深い。
いつも着ている赤いアウトドアジャケットは、更紗のメンバーカラーを意識して購入したものだった。アウトドアには気負いなく着ていけるのに、今日のようなイベントに着ていくのは勇気がいる。ジャケットの中にはライブのツアーTシャツを着込み、見えないようにきっちりファスナーを上まであげた。ぱっと見でわかるファングッズは身につけていない。職場の人に万一会っても、大丈夫。準備は万端だった。
大型の駅を越えるにつれ、堂々とファングッズを手にした人が増えていく。その中でも赤の小物を身につけているのは、透と同じく、更紗のファンだろう。声をかけたくてうずうずする。
駅につき、ファンの集団から離れる。誰との待ち合わせもないのに少し早くお台場についたのは、今朝更紗がInstagramに投稿していたハンバーガー屋に寄るためだ。
やや風が強いが、春の気配を感じさせる太陽が暖かかった。
ハンバーガー屋は混んでいたが、そう長くは待たなかった。
窓に面したカウンターの席が空いていた。すぐ目の前に自由の女神像がある。海が見え、橋がある。お台場らしい見晴らしだ。
プレートを置こうとした隣の席の、食事を終えスマホを弄っているその人の横顔に、覚えがあった。
小柄な女性だ。髪は揃えたてのショートボブ。スマホを抱き込むように熱心に何かを調べていた。
「瀬戸さん?」
顔を上げて透を見た彼女は、驚いていた。つい先週山で会った女性だ。髪型は前回と違うし、全体的に、山と違ったお台場に溶け込むような姿をしているが、間違いない。
「瀬戸さんでしたよね。先週高尾山で会った、伊藤です」
彼女は、何かを言おうとして、あ、と、え、の音を吐いた。
透は少し後悔した。今日は、更紗のイベント前なだけあって、テンションが高い。普段なら、相手の様子も伺わずに声をかけなかっただろう。
「お邪魔してすみません」
「こちらこそ、すみません」と、彼女は返事をした。
「こんなところで会うだなんて、思ってもみなかったから、びっくりしちゃって」
透は少し笑った。
「僕もびっくりしました。お一人ですか?」
「はい。一人です」
「そうなんですね。僕もです」
透は、ようやく椅子に座った。彼女はさっとスマホの画面を隠す。赤のスマホケースを見て、更紗のメンバーカラーを思い出す。
透は、更紗の知名度がよくわからない。リアルで更紗を知っている人に会ったことはなかったが、ネット上にはフォロワーは何万といる。
店内なのでジャケットを脱ごうか迷ったが、結局着たままにした。
「髪切りましたよね。よく似合ってます」
「ありがとうございます」
喜んだ感触が伝わってくる。具体的な表情や仕草ではない。雰囲気がそう伝えてきた。
更紗と似ている。顔立ちではなく、その雰囲気で表情を読ませてくるところが。
「今日は何か写真、撮りましたか?」
「さっき、自由の女神を撮りました」
外で撮った写真を、彼女に見せる。更紗のアクリルスタンドと写真を撮らなくてよかったと思う。グッズを取り出す勇気がなかっただけなのだが。
アップで撮られた写真を見て、彼女はまた嬉しそうに笑った。
「次はどこにいく予定ですか?」
「どこっていうと?」
これから更紗のイベントに行く手前、ぎくりと警戒してしまう。行き合っただけの人なのに、オタク趣味がバレるのはこわかった。上目で見てくる瞳と目が合う。そういう意味ではなかったらしい。
「明日も写真を撮りに行くなら、一緒に行ってもいいですか?」
彼女は、視線を写真に戻しながら、少し微笑んでいた。
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