第6話 きらきら星

 透のことを思い出していた。

 あの人は、音楽に泣ける人であろうか。このピアノの流れるホールの椅子で、どのようにくつろいでみせるだろう。あの甘いシナモンの香りを漂わせて。

 (男の人だから、泣かないかな……)

 最後に見たあの写真の女の子は彼女だろうか。丸顔で、年に似合わぬはずのツインテールがテーマパークのヘアバンド型の被り物とマッチした、垢抜けた雰囲気の子だった。

 気になるなら、聞けばよかったのだ。ぱっと表示された瞬間に、あら、彼女さんですか?かわいいですね。なんて、馬鹿みたいに。

 曲が終わり、拍手が起こる。きよらも習ってサイレント拍手をする。

 続いて次の曲が始まる。二曲目にして知らない曲になってしまった。

 考えていても仕方ないのに、頭に浮かんで来るのは後悔ばかりだった。もうどこで会えるとも知れない男性の彼女の有無など、気にしても仕方ないじゃないか。なんで連絡先を聞かなかったんだろう。

 理由なんてわかりきっている。

 そんなことはしたことがないからだ。名刺もなしに誰かの連絡先を聞くなんてこと、したことがない。学生の頃だって、自分からはしてこなかった。

 だから、ダメなんだ。

 人生経験の無さを嘆く。もう生きてきた全てがダメダメに思えてくる。

 

 きらきら星。

 突然のあまりに親しみのある音に、音楽に意識を戻される。

 そうだ。聴きにきたんだ。

 音楽は、細かなメロディに変わる。きらきら星変奏曲。

 泣かなきゃ。


 終演後、きよらは一番前の座席まで降りて行き、客席を見渡す。

 広いホールではない。しかし、こうしたステージで一人ピアノを弾くために、あの演奏家はどれだけピアノに向き合ってきたのだろう。その価値を知っているかのような上品な趣味を持つ老人達が、ゆっくりと席を離れ、よかったわねぇと囁きあいながら出て行く。

 よかったらしい。

 でも、きよらは少しも泣けなかったし、胸が溢れるような気持ちにもならなかった。

 公会堂の中のカフェに入りノートを開き、『音楽』にぐりぐりと丸をつけ、『感動したい』に二重三重にアンダーラインを引いた。

 課題だ。

 悔しかった。山もダメ、音楽もダメ、己の感性が不甲斐ない。

 心を開きさえすれば、何もかもが粒立って見えるようになる、と言うのは、夢を見過ぎなのだろうか。

 ……心を開くって、なんだ?

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