第2話 シナモンティー

 高尾山は思いの外、人が多かった。寒いのにみんな元気だ。

 先日の雪が木陰に残る高尾山は、冬の装いをしている。この時期枯れ枝ばかりだろうと思っていたが、葉が落ちないものも多いのか山は存外くすんだ緑色をしていた。

 きよらにはただ寂れて見える山だが、カメラを構えて野鳥を見ている人にとっては面白い所なのだろうなと思う。

 ロープウェイで登れるというので舐めきっていたが、整備されているとはいえ山歩きは思ったよりも過酷で、どこか裏切られた気持ちがしていた。こんなところにお寺を建てる気がしれない。マスク越しで息が苦しい。老人や子どもに追い抜かれながら登頂し、遠くに富士山を望む。

 緑の木々の奥、白をたたえた青い山々の稜線が、晴れ空の下浮かび上がる。

 しかし、なんの手応えもなかった。ハイキングが新たに趣味になればいいと思っていたにも関わらず、二度と登りたくないと心から思う。骨折り損のくたびれもうけ。

 (ハイキング、いいアイディアだと思ったんだけどなぁ)

 ベンチに深々と腰を下ろし、視線を脇に切り替える。寒空の下健気に伸びる野草を、スマホを構えて撮ってみる。何という草だろうと、植物の名前のわかるアプリをダウンロードする。なんとなく、野草の名前のわかる人になりたいと思った。『モノの名を知る』ことは、きっと人生を豊かにする。あの近くにも遠くにも連なる山々ひとつひとつにも、名前があるのだろう。


 ふと、甘い香りがあたりに立ち込めた。


 シナモンだ。

 砂糖のたっぷり使われた、温かな香り。みやると、隣のベンチで、真っ赤なアウターを着て、黒いネックウォーマーを鼻先まで上げた男の人が、水筒の蓋に液体を注いでいる。

 香りとともに、男性のくつろいだ空気感が伝わってくる。

 (このひと、山に馴染んでる)

 ネックウォーマーがそっと下ろされ、あらわになった口元に水筒の蓋が近づく。

 (シナモンティー? チャイかな?)

 なるほど。と、きよらは思った。

 (足りなかったのは、下準備か)

 山で何をしたらいいかという想像力が足りなかったのだ。十分なイメージが、本番に彩りを添える。

 甘やかな香りは自然ときよらを笑顔にした。見ず知らずの男性であるが、美味しそうですねとうっかり声を掛けそうである。

 ペットボトルの水を飲みながら、早速検索してチャイの素を買った。明日届く。

 『出先でゆっくり美味しいお茶を楽しむ』と、ノートのやりたいことリストに書きこむ。

 『物事を楽しむには十分な想像をすること。』

 思いついた言葉も同時に記録した。

 有意義な時間になったなと、赤いダウンの男性に軽くお辞儀をしてみる。

 山の習いか彼の習性か、特に不審がりもせずに会釈が返ってくる。

 風がそよいで、甘い香りを押し流し、また押し返された。

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