まだ知らない話
十四たえこ
第1話 きよら
うまく出来なくて良い
うまくやろうとしなくて良い
センスなんかよくなくていい
背伸びしなくていい
それが本当のあなたなんだから
目覚ましがわりのラジオから大きな音で流れてきた自己肯定ソングに、反射的に脳裏に浮かぶ複数のぼやき。それを打ち消したくて、深呼吸をひとつする。
そうだ。捻くれた自分とサヨナラするのだ。決意を胸にカーテンを開けると、ひやりと冷気が雪崩れ込み、頭を刺激する。五階から見渡す外は雲一つなく冴え渡り、何かを始めるにはうってつけの清々しい空だった。
きよらは昨日、仕事を辞めた。
膨大な量の単調な事務作業。楽しくもない仕事だったが、それなりに愛着はあった。
しかし、上司に「頑張ってるね」と声をかけられたのがどうにも気に食わなかった。
どんな理不尽よりもその言葉がこびりついてやる気を奪った。何に納得できないのか芯のところはわからないまま、無気力に任せて退職することにした。
他人の言葉ひとつ、しかも労いの言葉に心を乱されて職を失うなんて馬鹿げている。
ちょっと惰性で流せば乗り切れそうであるのに、そのちょっとを続ける気が起きなかった。
リフレッシュが必要だ。
脳内のブラックボックスがエラーを起こしている。健やかに、立て直さなくてはいけない。
息を吐き、レースのカーテンを引く。
冷蔵庫から、冷やしていたマシュマロヨーグルトを取り出して、赤いローテーブルにまっさらなA5のノートを広げた。
酸味のあるヨーグルトを吸い込み膨らんだマシュマロは、ひんやりとして爽やかで、手間なく成果を得られる物の一つだ。
お気に入りのボールペンをつかむと、『精神的に健やかになる方法』を検索しながらノートを取る。
意外とたくさん引っかかる。世の中には己の精神の不健康さに悩んでいる人がたくさんいるのだろう。
曰く、睡眠、食事、運動、日光、入浴、成功体験の獲得。
精神の健康も身体の健康もアプローチは一緒らしい。何一つ意識したことはなかったが、退職して時間もできたことだし、テコ入れするのは簡単だ。
しかし、成功体験。
問題はここだ。
就職という一大イベント以降、思い当たるものがない。それももう十年近く過去のことであり、その成果すら手放したところだ。
不安に思いながらもさらに調べると、就活で求められたような大げさなことでなくて、本を読んだとか一駅歩いたとか、簡単なことで良いようだった。
そこで、ページを新たにし、『やりたいこと』と大きく書いて、アンダーラインを2本ひく。思いつくものをリストアップして、そこから達成することにした。
しばらく何も浮かばずペンを回していたが、ふと、吉祥寺でパンケーキを食べたかったのだと思い出して、調子がついた。美味しいものが食べたい。国内旅行がしたい。見ていなかった映画が見たい。貯金がしたい。ボディメイク、ワイン、投資、エトセトラ、エトセトラ。次々と浮かんだ。誰に見せるわけでもないと割り切ると、くだらないものから高望みなものまで、なんでも書ける。
夢中で書いて、小さな欲望にまみれたページが生まれた。見返してみて、ライフワークにしたいような立派なものが浮かびあがって来るわけではないことに、少しがっかりする。
途中から、リストアップするだけで何か変わるような気がしていたが、これはただ成功体験を得るための種に過ぎないのだった。
気が急いている。
じっくり、己を正すのだ。
そのノートの中から、初日にやることを選び出す。少し思い切ったものがいい。普段やらなくて、この先続けたいもの……。そして、『精神的に健やかに』なれそうなもの。
ノートをパタンと閉じて、きよらは服を着替え始める。
今日やることは決まった。
『ハイキング』だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます