第6話 弓道人の腹の虫

そんな折、運悪く「ウナギ割烹いちのや」のある、松江町交差点で信号が青から黄色へと変わり、前の車が停車したため、それにつれて車を止めると、最悪の事態が発生した。松江町交差点左角の「いちのや」でウナギを焼く香煙が、排出する壁を伝うタイヤ付近の排出口から吐き出され、その煙と匂いが車内に入って来るではないか。

 「わあっ、これはたまらん!」と嘆いた瞬間、空き腹の腹の虫が「ぐうう・・・」と鳴り出したのだ。「まったくもって、参ったぜ。たまったもんじゃない、こんなところで止まりやがって」とぼやきながら、「それでも、今日の弓道修練の成果が良ければ、この匂いも最高な贈り物だったろうが、まったく逆だぜ。これぞ泣きっ面に蜂とは、このことだ。俺もよくよくついてねえな。とほほほ・・・」

 愚痴を漏らしているうちに信号機が赤から青に変わり、前の車が直進し我が車が右折しようと対向車の途切れる時を待っていると、車内に充満した蒲焼の匂いに惑わされたのか、ふたたび腹の虫が「ググっ・・・」と騒ぎ出していた。

そんな時、対向車が前灯をパッシングし、早く右に曲がれと促され、お礼に了解と左手を上げ右折し、暫らく走り続けるが、車内に蒲焼の匂いが消えずにこもる有り様となった。「そう言えば、何年も食っていねえな」とつい愚痴が出て。「たまには、ウナギの蒲焼を食いてえよ」と漏らし、食いじが張って来て思わず生唾を飲み込んだ。

さらに、何年も前の蒲焼を食った思い出が呼び起こされる。「そう言えば、十年も経つかな。そりゃ美味かったよ。女房と二人で、『いちのや』に来て鰻重を注文したんだ。あん時は腹が減っていて、たまんなかった」けれど、待てどなかなか鰻重が運ばれて来ない。

「しかし、なかなか来ないな。如何なっているんだか。俺らの注文を忘れているんじゃないだろうな」すると、女房が「そんなことないわ。これだけ忙しいんだから、時間がかかるのよ。それに、すべて注文を受けてから焼くらしいわよ。それが『老舗いちのや』のやり方らしいの。まあ、気長に待ちましょうよ」

 「やっぱりな。その辺が、そこらにある鰻屋と違うんだな・・・」俺自身、へんに納得したのか、諦めが先行したのか悪びれる様子もなく待つことになった。

そして、しばらくすると香ばしい鰻重が運ばれてきた。「おお、やっと来たか」テーブルに並べられて、「お待たせ致しました。ごゆっくりお召し上がりください」と言い残し、中居が去って行った。「さあっ、食うか」言うか言わないうちに、鰻重の蓋を取り貪り始める。「ううん、やっぱりここの鰻は美味えな」と、顔に満面の笑みを浮かべつつ頬張っていた。

そんな思い出が蘇って来ると、居ても立っても居られない心境になるが、今では「いちのや」の鰻は高根の花である。

「まあ、今度機会があったら食ってみたいもんだぜ。でも、何時になることやら・・・」運転しながら、ぐっと生唾を飲んでいた。すると、ふたたび腹の虫が「ぐうう・・・」と鳴り出してきた。

「こりゃ、たまらん。早く帰って昼飯にありつくか・・・」握るハンドルに力が入った。

帰路に就く道すがら、たまに運悪く「いちのや」近くの松江町交差点付近で、右折のため信号待ちをすることがあると、こんな事態が起きるのだ。信号手前に車が長く連らなれば、右折のための信号機より大分離れるので、鰻を焼く匂いなど車内に入って来ないので、このような惨めな思いをすることがない。

「そりゃそうだ。俺が帰る時間帯と、ちょうど昼前の鰻を焼く時間帯とがぶつかるからだ。それに、右折のために松江町交差点での信号待ちが、運悪く赤になることだ。だから青のまま変わらなければ、こんな思いしなくてすむのによ」と、言い訳じみた思いを吐くが、たっぷりと蒲焼の匂いを嗅ぎながら、左角の「いちのや」の松江町交差点を右折し、順調に走り出した頃には、今日の弓道鍛錬の状況が思い起こされてくる。

「しかし、今日の修練もいろいろあったな。良くも悪しくも、結果が今の俺の実力なんだよな・・・」と変な納得感を滲ませつつ、しみじみと感じていた。そう思うと、歳のせいか半日の稽古の疲れが、身体中にじんわりと湧いてきていた。



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