第5話 弓道人の迷い

「いや、なかなか中らねえな。的によ・・・」

つい恨み節がつい出てしまうことがある。が、たまに中ると、その「パーン!」という響きが、身体中の筋肉を奮い立たせ喜びに変える瞬間となる。と自分は感じるけれど、こんな事象はめったに来ない。と言うのは何度も言うが、的に向けて放った矢のほとんどが中らず、的前安土や的後安土に行くことが多いからだ。その音色も響き渡るのではなく、スカッと土にめり込む音に身体の勢いが失せ、的に羨まし気な視線が投げられる。そして気持ちが揺れ、それを肌で感じているのが現実である。

 「そりゃ、的に中てたいよ」と、何時もそんな面持ちで臨むのだが、なかなか上手く行かないものだ。

例外なく達人ですら的を外すことがあり、すべて射た四矢が皆中することはめったにない。それも、四矢を何回射ていても欲望が生じる。そこに弓道が奥深いと言われる所以であり、完璧な射というのは決して多くはないことの証でもある。確実に射た心算でも、筋肉の伝わり方が微妙に異なり、同じようにはならないものだ。

達人がそうなのに、駆け出し弓道人が射た矢が、的に中らないのを悔やんだり、気持ちが落ち込んでいては、弓道に対する敬いの欠如と言われても仕方ないと思うが、当の弓道人にとっては、的を外し的前安土に刺さった時、落胆の気落ちが生じ残念がるのは恥ずかしいことだし、平然として顔に出してはならないことなのだ。道半ばの弓道人とて、道理は同じである。

けれど、やはり的に中れば嬉しいし、外せば悔しい思いが湧いて出る。毎回そんな気持ちが渦巻く中で修練を重ねて行く。そんな表に出せない喜怒哀楽の迷いの中で、「打起しをもっとゆっくりやろうか、その打起しの頂点をさらに上げられないか」とか。それに対して当の本人は「いや、これ以上引き上げるのは無理だし」と思いつつ、さらに「引き上げの頂点が、頭上より高くなっており、その位置から妻手肘を折り曲げて水平に大三へと移行できる。そこから、会へと目一杯引き分ける。この時の注意点として、突っ込みを防ぐべく縦横十文字を崩さず行なえばいいのだ」さらに、「一連のこれらの動作がスムースに迷いなくできるだろうか」と、いろいろな雑念が頭をもたげてくる。いわゆる、迷いが生じるのである。

さらに、「こんなやり方で射ても、的に中らないんじゃないか」とか、「会に達した時に、身体の中心が前に突っ込んでいないか」とか。その不安を払拭すべく、「あいや、それを防ぐために、会の段階で右足に重点を置くように構えているではないか」と。いろいろ錯綜し、迷ったまま離れへと移行するため、的に中らず的前や的後安土に刺さり、結局的周りに矢が散らばる結果となる。

 弓道の経験豊富な達人が、常に言っていることだが、「射る矢を的に中てようと思うな。そんな下賤な下心で行えば絶対に中らん」と口を酸っぱくして、檄を飛ばすことが多い。勿論、駆け出しの弓道人である俺でも、ごくまれに四矢射で二本中ったり、さらに三本入ることがある。

だが、こんなことは多くあるはずもなく、忘れた頃にこの珍事が起きる。「まあ、これも神様の悪戯に過ぎないだろう」と思う。

それこそ、そんな珍事が生じれば、自分の才能や技量のなさから、弓道人生の行く末を考えてしまい、「もう稽古を止めよう」とか。「この歳だし、これからますます筋力が落ちてくるので成長などあり得ない、このまま続けても的に多く中らなくなるだろう」などと弱音を吐くが、忘れた頃に二本や三本中ると、この弱気の虫が何処かに消え去ることから、「よしっ!」と気を取り直し、修練を続けているのが現状である。

そんな姿を達人たちは如何見ているだろうかと、時々思うことがあるが尋ねたことはない。「まあ、聞いたところで、またアドバイスを貰ったところで、次の稽古で成長が得られる保証はないからな」さらに、「ここはこうした方がいいとか、今の射は棒立ちになっていて前傾姿勢が出来ていない」とアドバイスされれば、はたとそうなっていることに気づき修正しようと努力する。

  でも、それで格段に中る確率が高くなるわけでもなく、要は弓道の行射の基本を是正するに過ぎない。正しい行射は射の基本を徹底的にマスターし身体に染み込ませなければならず、その修練を怠ると悪い癖がつき、さらに的から遠くの安土に矢が飛んで行くことになる。そうなると余計気力が低下し、雑な行射がはびこることで、まったくお先真っ暗になっていると、他の弓道仲間の射が快音を発して的に中る音を聞き、自然と俺の身体がちじこまり、行射姿勢がより小さくなるような気になってしまう。

「いや、弓道って難しいな。達人が羨ましいよ」と、弱気の虫が己の背中を這いまわるのだ。「くそっ!如何したものか。一体如何すれば良いんだ」と迷いつつ、幾度か行射しているうちに午前十一時近くになり、「時間が来た」と稽古を止める。そんな時の逃げ口上は「それじゃ、今日の稽古ではあまり成果はなかったが、次回の修練でもっと中てられるように頑張ろう・・・」となる。

如何もすっきりせずに稽古を終え、行射を続ける仲間に「有難うございました」と挨拶し、弓道場を後にするのだが、稽古を終えたからと言って、直ぐに気持ちが切り替わりすっきりするわけでははい。

ああだこうだと、指導されたことを思い出しては、「やっぱりこうすればよかった」とか、「会の時点で妻手の引きに対して、弓手の押しをもっと強くすればよかった」などと愚痴りながら運転し帰路に着く。しかして、何時もこんなパターンが繰り返される。

そんな気持ちがくすぶる時こそ、逆に一日の稽古で良かったこととか、気持ちが晴れた瞬間を思い起こすのも、次に繋がる成長の糧になるのではないかと思うが、なかなか振り返る事象が湧いてこない。

ただ幸いなことに、修練の結果をその都度日記に記しており、その中で反省点や成果点を記録していることから、次の稽古前に必ず読み返し、失敗点は修正するように、また成果点は、この様にすればまた上手く行くと真似するようにしている。さすれば上達間違いないと確信するのだが、いざ射位に立ち成功事例通りにやっている心算でも、的に中るとは限らないのが現実である。そんな甘いものではない。

「そりゃそうだ」と反省しつつ、「そう上手く行かないのが当たり前だ。同じように射た心算でも、決して同じではないのが生身の身体なのだ」と、つくづく実感するし反省してもいる。「人間努力せずに成長などあり得ない。地道な努力があってこそ、着実に前進出来ることを忘れてはいけない」と、運転しながら前方を視つつ真面目顔で頷いていた。

そして、つと漏らす。「稽古帰りで腹が空いているわりには、俺も良いこと言うな」と、真面目顔が崩れにたり顔に変わった。



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