第4話 表情に現わさぬ弓道人

各武道には、必ずといって良いほど喜怒哀楽が付いて廻る。例えば剣道で言えば、勝ち負けが付いて廻り、相手の一瞬の隙をついて大きな声を発し攻撃を仕掛け、面とか、胴とか、小手に竹刀を走らせ一本をとるのであり、とられた者から見れば、即敗者となる。己の心の内を見せず、相手の動きの中に隙を見つけ攻撃を仕掛けて勝者となす。

そこには、必ず喜怒哀楽という感情が生まれることになろう。柔道にしても、卓球にしても、テニスにしても、それは生じるものとなる。また周りにいる観客や応援者などは、味方する者が勝てば大いに歓喜の声を上げ祝福し、負ければこの現象と真逆になることがしばしばあるが、最後は慰めていることが多い。

はて、それでは弓道では、如何なる現象が生じるであろうか。

そもそも弓道とは相手と向き合い、攻撃と防御を仕掛けあうと言うものではない。強いて言えば、弓道では的が相手となる武道で、各弓道人の心の中での戦いとなる。そこには静の行いの中で、動としての動きが生まれるのが弓道ではあるまいか。

少しばかりややこしいが、それが弓道と言うものである。勿論、屁理屈で言っているわけではない。古来から続く弓道の精神であり行いなのだ。他の武道のように派手さはなく、どちらかと言えば地味な武道と言えよう。それが、弓道の魅力なのかも知れない。

てな、偉そうに言えるほど極めているわけではないが、駆け出しの弓道人とて続けていると、そのように感じることがしばしば生じており、また肌で感じているのが現状である。勿論、生身の相手と向き合うのではなく、二十八メートル先に設置した的と向き合っての勝負となるのだが。本来弓道は勝ち負けの世界ではないが、如何してもそのように捉えてしまうのが、日常茶飯事のことである。そこには、道半ばの経験不足からくる安易な考えが存在し、そこから生じる行動が発生するが所以であろう。

勿論、弓道の達人とて完璧ではない。ややもすると、完璧と思えて射た矢が的を外すことも時にはある。やはりそこは、生身の人間であるがゆえの表れであると思うし、すべての行動が完全ではないところに、人間臭さを感じる所以であり、達人らの行射を観察していると、所作の中についと垣間見ることがある。そう、観えないところで口惜しさを滲ます姿を現すことがあるのも当然だ。

俺みたいな弓道人にしてみれば、射た矢がほとんど安土に当たることを考えれば、忘れた頃に的に中れば、つい鬼の首を取ったような悦びが表情に出てしまい、直ぐに窘められる。これこそ修行が足りないと、どやされるのが今の姿なのである。

そんな能書きやぼやきはこれくらいにして、「稽古にもっと身を入れて励まんか!」と達人から激が飛んでくるので、身が引き締まる思いで、射位から的に向け弓を引き、弦に番えた矢を放つのである。

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