第3話 弓道人の憂いごと
射るたびに的から離れた安土に吸い込まれている。うだつの上がらぬ駆け出し弓道人の行射の様子を窺いながら、執拗に達人らは、「ここは、こうした方がいい」とか、「その射は駄目だ。もっと腰を入れて射れ」とアドバイスしてくれるのは有り難いが、その指導すべてが正しいとは限らないし、己が優位にあることを誇らしげに上から目線で示し、現を抜かすしている様がありありと覗えることもある。
そうした態度を傍から見ていると、経験の浅い駆け出し弓道人は、羨ましい気持ちとさらに早く上達したいという思惑が絡み合い、複雑でなかなかすっきりしないものである。
まあ、そんな愚痴を吐いたり思ったりいている間に、もっと気合いを入れて修練に励むことが先決ではないかと窘められそうだ。
そんなことで、気持ちを新たにし巻藁射で各動作の構え方を再確認して、射場へと向かい射位に立ち、一手目の足踏みから始め、胴造りそして弓構えを行ない、気持ちを込め打起しをして、大三から引分け会へと進み矢を放つ。すなわち離れとし、そのまま顔を的に向けたまま残心の形を保ち、そして弓を持つ弓手と乙矢を持つ妻手を同時にゆっくりと腰骨の辺りに戻し、息を吐いて間を取り、息を吸いながら顔を正面に戻すのである。
通常、射場では五人立ちで行うが、これも射場入口で並び立ち、大前を先頭にして一歩入って、国旗に揖をして順次場内に歩み進む。この時の足の運びは前者に歩を合わせ行なうのだが、必ず摺り足で進むのである。
さらに、進むす姿勢は背筋を伸ばし、弓手で床から二cmほど上げて弓を持ち、妻手で矢を持ち執弓の姿勢で静かに歩む。射場内に入る五人の弓道人が行う様には緊張感が漂い、摺り足で進む有り体は静寂が宿っている。微かに聞こえる息合いと、床を這う擦り足音はまるで静の世界の中で息づく動の躍動する姿である。
弓道人でも、普段歩く姿には個性が現れる。しかし、道場内での各人の統一された動きには無駄がなく、個性がかき消された美しい運びである。ところが、必ずしも皆が同じように出来るかは、若干疑問が付いて廻るもので、やはりそこには経験の差が生じてしまうものだ。
それ故、やはり一定レベルの技量を持つ、弓道人の一連の動きには無駄がなく洗礼されていて、見る側の者にとって美しく目に飛び込んで来るが、我などまだ駆け出しの弓道人が行なう様を覗ってみれば、本人は懸命に行っている心算でも、やはりそこは経験の差が生じてしまう。その辺は致し方ないと当人は思っていても、口に出せるものではないし、いったん弓と矢を持ち執り弓の姿勢で射場に入れば同等に見られるし、経験が浅いからと言って不揃いが許されるものではない。
従って、懸命に取り組むことが必要となり、前者弓道人に合わせて整然と進み、歩調を合わせることが不可欠となる。一体感の中で進む、毅然とした姿こそ美しいものだと思う。そこには生半可な気持ちや、いい加減な動きがあってはならないのは当たり前である。
しかし、体調が思わしくないまま、また気持ちが不安定で集中力が欠落したまま列をなして場内に入ると、決まって足並みが乱れたりして上手く行かないことが多々ある。前者に合わせた歩みが出来ず乱れたりすれば、次に進む弓道人に迷惑をかけることになり、全体の動きが見苦しいものとなってしまう。
それ故、そんな状態にならないよう、細心の注意を払って取り組むことが求められる。これは弓道に限ったことではなく、形は異なれど他の武道にも当てはまるのではないか。
各武道での決まりごとは、その武道の美しさの表現であり、粛々と行うことが求められる。すなわち、究極の求める美の原理である。
まあ、そんなことで。あまり堅苦しいことばかり綴っていては、肩がこるのでこの辺にしておくことにしようと思う。
「どんな武芸でも、厳しさの中にも楽しさがなければ面白くないし、苦痛ばかりじゃ長続きしないからよ」そんな声が聞こえてきそうだ。
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