第2話 弓道人の戯れ言

大前で弓に番えた弦から、強く引かれ放たれた矢が、的を貫くパーン!という音とともに、一瞬のどよめきが起きると、息をのみそして静寂が訪れる。その時、控える皆の目が射抜いた的に注がれた。

それは一瞬の出来事だったかも知れないが、弓道人には永遠の時間が止まる瞬間でもある。放った射者には、ぱっと開けた出来事であり、放ったままの残身が心を満たす。それを仲間は残心と称し、永遠の引き分けと評定するのだ。たった七秒ほどの残心の動作が、永遠に続く思いに浸る。そしてゆっくりと弓倒しをして、両拳を腰骨の辺りに戻してから、満いる顔を正面に戻していた。

そして、二番手が弓を構え、的をにらむ目が熱を帯びてきた。会の頂点に達したその一瞬に、矢が弓から離れ的へと向かって飛んで行くが、当たらずに的前安土へと突き刺さった。二番手の横顔に無念さがにじむ。だが直ぐに元の顔に戻っていた。

弓道では動作の中で喜怒哀楽を表わさない。皆が的に中てようと密かに行射を試みるものだが、決して表情には表わさないものだ。これが動作の美と言われる。現代のスポーツで、例えば野球で打者がホームランを打てば、周りにいる者たちは打者を褒め称えるのが通例であり、打者はその歓喜を受けながら、ゆっくりとベースを廻りホームインする。その時の顔は、してやったりの得意顔となるものだ。

ところが、弓道では野球やサッカーなどのように喜怒哀楽を表に出さない。例えば柔道の場合は一本とったら、自身も周りも歓喜の渦が出来る。同じ武道でも弓道とは大違いだ。これが他のスポーツと違い、自然体で射ることが弓道では美徳と称される。

的に中っても、安土に矢が刺さっても平然とし顔には出さず、心内で悦びや口惜しさを表現することになる。これを平常心すなわち自然体と言い尊ばれるのが、昔からの現代に続く弓道人の心と言われるものだ。って、誰かが言っていた気がする。

経験豊富な弓道人ならいざ知らず、俺のような駆け出しの弓道人では、的に中れば歓喜の笑みがつい顔に出てしまうことが多々ある。そんな時、周りからの睨む視線が身体に否応なく突き刺さてくる。そんな行為をひんしゅくして、弓道の道に外れていることを反省している。だけど表面上はこのようにしているが、そんなのはおかしいのではないかと、何時も心では思っているが、決して口には出さずにいる。同じ武道でも剣道や柔道と異なり、ここは弓道特有の表現の仕方なのかも知れないとつくづく思う。

駆け出しの弓道人にとって、たまに的に中れば喜びの雄叫びを発したくなるのが普通であるが、達人のように射た矢がばちばちと音を立てて中るのとは大違いで、ここは修練の足りなさを痛感すること大である。

場立ちでは、何時も真剣勝負だし皆がそのように臨んでいる。静寂が支配する弓道場での稽古は熱気がほとばしっており、身の引き締まる空気が漂っている。そんな張り詰めた中で行射を行なうわけだが、駆け出し弓道人の射は大抵安土へとし吸い込まれて行く。

「くっそ!」と息をのみ視線を的からそらすのだが、その時の気持ちは悔しさが残るが、平然とした態度で次の射を待たなければならない。勿論、弓道の達人とて放った矢がすべて的に中るわけではない。当たる確率が、俺らのようなぼんくらとは異なり高いと言うことである。

射形をよく観察していると、その違いがはっきりと判る。しかしながら、弓道の達人と言えども、的を外した時の気持ちは、おそらく俺らと同じではないかと思う。しかし、顔には出さないところが、玄人の行射の姿ではあるまいか。そのような稽古を達人たちに混じり日々行っているが、一向に上達する気配がない。

極まれに一回の稽古で数多く的に中ることもあるが、逆に極端に少ない時もあり、多い時はこの調子が続くことを願い、少ない時は何処に問題があり、如何直せばよいかと悩むこと大である。そんなこんなで、年甲斐もなく足げく川越の弓道場に通っているのです。


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