弓道人の戯言(ざれごと)

高山長治

第1話 弓道人の回想

あの日のことを思い出すと、じくじくたる出来事が蘇ってくる。

 それは、そんなに古い話ではない。数年前の六月の審査日のこと。県立武道館弓道場での審査である。それまで三回ほど三段にチャレンジしたがすべて落ちた。気持ちを新たにし、今度こそはと挑戦したが、二本とも的前安土となり的に嫌われた。

この時の立ち位置は、五人立ちの三番手であり好位置と言える。五人が順に審査会場へと摺り足で入り、本座から射位へと進み歩を止めた。いよいよこれから行射を始めるのだ。背筋を伸ばしたところで緊張感が増し、全身の神経が研ぎ澄まされる。しっかりと両足を床につけ前を見据える。大前が弓を引き始めると、さらに緊張が最高潮に達した。が、そんな小柄な葉山に、頭内に宿るもう一人の彼の声が何処からか飛んできた。

 「お前は、何故足が震えているんだ。震えるのはまだまだ精神が統一されていない証拠ではないか。そんな状態では射た矢が的に中るはずがないじゃないか。落ち着け。大きく息を吸い、全身で射れるように心を整えよ」と、叱咤のごとく励まされる。

そしてさらに、「今迄修練してきた一挙手一投足を出し切ればいいんだ」そんな激が、脳天を突いていた。すると足の震えが止まり、気持ちが落ち着いてきた。二番手が打起しを行ない、引分けて矢を放ったが的を外した。

いよいよ俺の番である。落ち着いているかに見えた心臓が、にわかに高鳴り出してきた。落ち着かせようと両足を踏ん張るも、床から浮くような感じとなり少々慌てていると、またもや俺の化身が出て来て「馬鹿野郎、何を慌てているんだ。しっかりせい!」と怒鳴られた。     

すると、また心の声が聞こえてくる。

「そうだ、今迄今日のために稽古を重ねて来たんじゃないか」と思い起こし、「その積み重ねてきことと同じように射ればいいんだ」と己に言い聞かせ、行射の体制に入る。これが、上尾の武道館弓道場での結果となった。

昨日の出来事ように思い出され、脳裏に色濃く焼きついている。それも鮮明に。

翌日、何時ものように川越の武道館弓道場に行くと、早速吉竹から結果を問われたが、二本とも中らなかった旨を話した。松田からも聞かれ駄目だったことを告げるも、何処が駄目だったかさらに問われたが言葉を濁した。

話したところで己の気持ちが吹っ切れるわけではない。「自分としては上尾での審査のために稽古を重ねてきた心算でいたが、結果的に中らなかったと言うことは、努力が足りないと言うことで、技量的にも精神的にも三段には及ばないのだ」と思い直していた。

後ろ髪を引かれるように吐く。「くそっ、もっともっと努力しなければ・・・」そんな思いを抱いて、上尾の県立武道館から帰る道すがら、じくじくたる思いが湧き無念さが込み上げてきていた。

それから一カ月ほど経った川越武道館では、何時ものように修練を繰り返す葉山の姿があり、また吉竹の弓を引く凛々しい姿も覗えた。そんな折、出番待ちの時、何気なく吉竹が冗談を飛ばす。

「葉山さん、次の審査を目指すんですか。いい加減に挑戦を諦めたらいいと思いますよ。歳も歳なんですから」すると、葉山が反発する。「何を言う。この前落ちたからと言って、止めるわけないじゃないですか。本来は三段の実力がとうに身についているが、たまたま審査当日二本中らなかっただけのことです。なんせ射る瞬間、見物人の動きが視野を妨げてしまったものですから。あれさえなければ、確実に一本は的に中っていたと思うんだがな。だから、いわば運が悪く、ついていなかっただけです」と言い訳がましく、すまし顔で吉竹に返した。

すると、吉竹が「葉山さんって能天気ですよね」と、隣にいる松田に問いかけると、松田が真剣な顔つきで「そんなことはない。本来弓道と言うものは、審査がどうのこうのと言うものではない。人間形成の道具であるべきです。まあ道具と言うよりも修行の道標とも言いましょうか」と二人の顔を見ながら窘めた。

すると、片桐先生が口を挟む。「しかし、残念だったね。まあ、次があるから頑張ればいい。何度でも挑戦すれば何時かは受かるからね」

励まされる葉山が心の中で呟く。「そりゃそうだ。落ちたら、次の審査をまた受ければいいんだ。そうすれば運よく受かる日がくるかも知れない。それまで諦めずに、何度でも挑戦してやる。審査料の続く限り続けるからよ」そんな思いを心に秘め、黙々と修練に臨んでいた。

そんな黙々と行射を続ける葉山に、山村が突っ込む。「いや、葉山さん。今の射場での射を観させて頂いたが、ちょっといいですか?」と言い、具体的に注文を付ける「射位での両腕の引き上げ方が中途半端になっていますよ。もう少し高く上げないと見た目が良くない。品が疑われます」

「そうですか、目一杯引き上げている心算なんですが。引上げ不足ですか。今後気を付けます」と返すと、さらに山村が「そうしないと、へっぴり腰の構えとなり見た目が良くないですから。それでなくても、容姿が悪いのに余計見られなくなりますよ」と、己が一番と言うような自慢顔で悪態をついた。

すると「はいはい、分かりました。どうせ私は、がに股で足が短いですからね。山村さんのように足長ではありませんよ」と、心内で俺と同じ体形ではないかと貶しつつ、葉山がすまし顔でさらりとかわしていた。




二 弓道人の戯れ言

大前で弓に番えた弦から、強く引かれ放たれた矢が、的を貫くパーン!という音とともに、一瞬のどよめきが起きると、息をのみそして静寂が訪れる。その時、控える皆の目が射抜いた的に注がれた。

それは一瞬の出来事だったかも知れないが、弓道人には永遠の時間が止まる瞬間でもある。放った射者には、ぱっと開けた出来事であり、放ったままの残身が心を満たす。それを仲間は残心と称し、永遠の引き分けと評定するのだ。たった七秒ほどの残心の動作が、永遠に続く思いに浸る。そしてゆっくりと弓倒しをして、両拳を腰骨の辺りに戻してから、満いる顔を正面に戻していた。

そして、二番手が弓を構え、的をにらむ目が熱を帯びてきた。会の頂点に達したその一瞬に、矢が弓から離れ的へと向かって飛んで行くが、当たらずに的前安土へと突き刺さった。二番手の横顔に無念さがにじむ。だが直ぐに元の顔に戻っていた。

弓道では動作の中で喜怒哀楽を表わさない。皆が的に中てようと密かに行射を試みるものだが、決して表情には表わさないものだ。これが動作の美と言われる。現代のスポーツで、例えば野球で打者がホームランを打てば、周りにいる者たちは打者を褒め称えるのが通例であり、打者はその歓喜を受けながら、ゆっくりとベースを廻りホームインする。その時の顔は、してやったりの得意顔となるものだ。

ところが、弓道では野球やサッカーなどのように喜怒哀楽を表に出さない。例えば柔道の場合は一本とったら、自身も周りも歓喜の渦が出来る。同じ武道でも弓道とは大違いだ。これが他のスポーツと違い、自然体で射ることが弓道では美徳と称される。

的に中っても、安土に矢が刺さっても平然とし顔には出さず、心内で悦びや口惜しさを表現することになる。これを平常心すなわち自然体と言い尊ばれるのが、昔からの現代に続く弓道人の心と言われるものだ。って、誰かが言っていた気がする。

経験豊富な弓道人ならいざ知らず、俺のような駆け出しの弓道人では、的に中れば歓喜の笑みがつい顔に出てしまうことが多々ある。そんな時、周りからの睨む視線が身体に否応なく突き刺さてくる。そんな行為をひんしゅくして、弓道の道に外れていることを反省している。だけど表面上はこのようにしているが、そんなのはおかしいのではないかと、何時も心では思っているが、決して口には出さずにいる。同じ武道でも剣道や柔道と異なり、ここは弓道特有の表現の仕方なのかも知れないとつくづく思う。

駆け出しの弓道人にとって、たまに的に中れば喜びの雄叫びを発したくなるのが普通であるが、達人のように射た矢がばちばちと音を立てて中るのとは大違いで、ここは修練の足りなさを痛感すること大である。

場立ちでは、何時も真剣勝負だし皆がそのように臨んでいる。静寂が支配する弓道場での稽古は熱気がほとばしっており、身の引き締まる空気が漂っている。そんな張り詰めた中で行射を行なうわけだが、駆け出し弓道人の射は大抵安土へとし吸い込まれて行く。

「くっそ!」と息をのみ視線を的からそらすのだが、その時の気持ちは悔しさが残るが、平然とした態度で次の射を待たなければならない。勿論、弓道の達人とて放った矢がすべて的に中るわけではない。当たる確率が、俺らのようなぼんくらとは異なり高いと言うことである。

射形をよく観察していると、その違いがはっきりと判る。しかしながら、弓道の達人と言えども、的を外した時の気持ちは、おそらく俺らと同じではないかと思う。しかし、顔には出さないところが、玄人の行射の姿ではあるまいか。そのような稽古を達人たちに混じり日々行っているが、一向に上達する気配がない。

極まれに一回の稽古で数多く的に中ることもあるが、逆に極端に少ない時もあり、多い時はこの調子が続くことを願い、少ない時は何処に問題があり、如何直せばよいかと悩むこと大である。そんなこんなで、年甲斐もなく足げく川越の弓道場に通っているのです。

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