屁夫婦

遠藤

第1話

「ブッ!!」


玄関のドアが開いたと思った次の瞬間、いつも通りの音が聞こえた。

旦那が帰ってきた。

(ただいま)のかわりに一つ、屁を垂れる。

旦那は靴を脱ぐと、無言でリビングに向かった。

今日もしっかりとした音だったと振り返り、妻は旦那の健康状態を分析するのだった。


妻は念のため、今日も、食物繊維多めのおかずをこしらえていた。

旦那が健康でいてもらうために、毎日の食事には、人一倍気を使っていた。


晩御飯を食べ終わると旦那は(ごちそうさま)のかわりの屁を垂れる。


「ブッ!!」


妻はすかさず、換気扇を弱で回す。

決して旦那のテレビ鑑賞の邪魔になってはならない。

換気扇に向かう時も、音を立てないように、すり足気味で移動する。

決して、己の存在をアピールすることなく、凪の状態でいつもの任務を当たり前に完了させるよう妻は心掛けていた。


その後、旦那はお風呂に入り、耳かきをしながら(お風呂に入ってこい)と屁を垂れる。

その音を合図に妻はお風呂に入る。

お風呂からあがって、寝室に向かうと、並べて敷かれた布団に旦那は先に入って寝ており、妻が静かに布団に入ると、ほどなくして、旦那の屁の音が(おやすみ)のかわりに聞こえた。


「ピチッ!」


今日一日の終わりに、残りわずかになっても、なんとかそれを絞り出そうとする旦那の愛の深さを妻は噛みしめて、優しさに包まれながら眠りに入っていくのだった。


「ブッ!!」

翌朝、薄く覚醒していく中、旦那の屁の音(おはよう)が聞こえてきた。

今日も素晴らしい日が始まったと、妻の心は活力に満たされていくのだった。


こうやって当たり前に過ぎていく毎日に、妻はなんら不満はなかった。

(行ってきます)の旦那の屁を受けとめ、頑張って下さいと心から祈るのだった。



旦那は会社までの道中、またいつもの悩みが浮かんできていた。

(なぜ、妻はしゃべらなくなったのだろう)と。

何十年も連れ添ってきて、マンネリ化した毎日の中、気づけば必要最低限の会話だけになっていた。

こんな毎日じゃつまらないから、何とかしようと思った。

そんな時思いついた。

突然、自分が、屁だけしかしなくなったら面白いかなと。

ほくそ笑みながらさっそく初めてみると、妻も、最初は笑いながら「いやですよ、お父さん」とか「あらまあ」とか言ってくれていたが、それでも何も言わず続けていたら、そのうち何も言わずにその行為を受け入れてしまった。

自分も変に意地になってしまいそれを続けていたら、完全に我が家から会話が消えてしまった。

どんなに面白い屁を垂れても、笑ってくれなくなったのだ。

それが悔しくて、どうしても笑わせたくて、今まで意地になって続けてしまった。

気づけば、自分のくだらない行為によって、妻の声を奪い去ってしまったのではないか、との不安に駆られる日々が続いているのだった。

自分はまだいい。

こうやって会社に行き、たとえ挨拶程度でも会話がある。

妻は家にいる。

買い物に行く時もあるが、会話しなくとも買い物をしてくることは可能だ。

もしかしたら、誰とも会話することが無くて、もう二度と声が出せなくなるのでは・・・。

そう考え始めたら怖くなり、その思考を止めることもできなくなり、結局、一日そのことばかり考え仕事に集中できなかった。

夫は帰りの道中、もう屁生活をやめようと決心した。


家に着くと、玄関前で少し躊躇った。


(何て話せばいいのだろう)


屁だけ生活が長すぎて、妻との会話の仕方を忘れてしまったのだ。


(ただいま)

って普通に言えば済む話だろうが、屁生活に入る前を考えれば、(ただいま)なんて言っていたのだろうかと思えてきて、じゃあ、どのタイミングで会話を始めようかと、あれこれ余計な事が浮かび、なかなか玄関を開ける事ができなかった。


あれこれ考えても仕方がないと、思い切って玄関の扉を開けた。

長い期間培ってきた習慣というのは恐ろしいものだった。

玄関を開けた動作に反応して、突然お腹の中のガスが肛門付近に集まってくるのだった。

しかし、夫はそんなことも気にも留めず、(ただいま)を言おうと勇気を振り絞った。


「・・・た」

そう声を発した瞬間、お尻から力ない屁が漏れ出してしまった。


「プーーーーーピチピチピチ」

そこに、妻が駆け付けた。

バツの悪い屁の音に、夫は元来そんなタイプの人間ではなかったが、顔が赤くなるような気恥ずかしさを感じたのだった。


妻は驚いたような顔をしていたが、夫と目と目が合うと、どちらともなく笑いが溢れ出してきた。

二人は腹を抱えて笑った。

妻は泣きながら笑った。

夫は言った。

「ははは、おい、何も泣くことまでないだろう」


妻は言った。

「ははは、はー苦しい。だって、ピチピチって音がおかしくて、おかしくて」


夫は嬉しかった。

妻の声を久しぶりに聞けた。

どれくらいぶりだろう。

あの頃と変わらない可愛らしい声だった。

「さあお腹減った。早く飯食わしてくれ」

妻は、笑顔で「はいはい」と言いながら晩御飯の準備にかかった。

夫は心の中で謝った。

そしてもう二度と、あんな馬鹿なことをしないと心に誓うのだった。



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